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自閉と医学研究
ジム・シンクレア
国際自閉ネットワーク(Autism Network International)のニューズレター、「Our Voice」の1995年Volume 3 、Issue 1 より転載。
この文章は、ANIのメーリングリストに投稿したメールを元にしている。そのメールというのは、ぼくがどこかよそで読んだ、ある人の文章に刺激されて書いたものだ。その文章は、「自閉症と嚢胞性線維症の発生率はほぼ同じなのに、国立衛生研究所は嚢胞性線維症の研究に自閉症の研究の四倍もの金を出している」という不満に始まり、小児癌、ハンチントン病、筋ジストロフィーの発生率と、国立衛生研究所の研究予算配分を比較した上で、読者に、地元選出の議員に働きかけてこの予算配分の不公平の根拠を質すよう訴えるという内容のものだった。
この予算配分の根拠というのがそう難しいものとは思えない。嚢胞性線維症、癌、ハンチントン病、そして筋ジストロフィー。これらはみな、病気なのだから。患者は健康をむしばまれ、ひどく苦しみ、惨めな思いを味わい、そして命を失う。国立衛生研究所が研究に予算を出すのは当然ではないか。
自閉は病気ではない。自閉のために健康をむしばまれることはないし、死ぬということもない。自閉のせいで人はどれくらい苦しみ、どれくらい惨めな思いを味わうかという点については意見が分かれるところだろう。中には、自閉そのもののためにひどくつらい思いをしている人もいる一方、苦しさの原因は、自閉のせいというよりも、主に周囲の人々のほうだという人々もいる。いずれにせよ、自閉のために最もひどい目にあっている人々でさえ、その苦しみかたは、嚢胞性線維症の患者の苦しみかたにははるかに及ばない。嚢胞性線維症というのは死に至る病であり、患者は健康をむしばまれ、惨めな思いをして、ついには命を失うのだ。
それに第一、国立衛生研究所の予算がからんでいようがいまいが、ぼくは自閉が医学研究の対象になるという発想自体が気にくわない。医学的な研究というのはたいてい、その対象になる障害なり疾患なりの発生を予防し、影響を和らげ、あるいは完治させるというのを目的にしているはずだろう。嚢胞性線維症、癌、ハンチントン病、それに筋ジストロフィーを予防し、影響を和らげ、完治させようというのは、目標設定として正当なものだ。嚢胞性線維症、癌、ハンチントン病、筋ジストロフィーの患者たちは、ほぼひとりの例外もなく、治療法が確立され、完治することを願っているにちがいない。
でも自閉はちがう。自閉を医学研究の対象にするという目的はなんだろう? ぼくを「完治」させるって? ぼくをこの世界にもっと合わせるために、ぼくの知覚を、認知を、思考を、感覚を、人との関わりかたを矯正して、ぼくをすっかり別の人間にしてしまおうというのか? 自閉の友人たちのもつ、あの多彩で奇天烈な性質をみんな平らに均して、もはやぼくの知っている友、ぼくの愛する友、ぼくがこれまで人生を共有してきた友とは似ても似つかない、別の人間たちにしてしまおうというのか? ぼくのような人間がこれ以上生まれてくることを予防しようというのか? ぼくとよく似た人間が一人もいないような世界を作ろうというのか? ぼくはそんな目的のためにもっと予算を出すように運動すべきだというのか?
ああわかってるさ。ぼくはまたしても親御さんたちの神経を逆なですることを言ってるらしいね。自閉の子どもが生まれたせいで親がなめる辛酸、悲嘆はどうなるんだっていうんだろう? そうだね、少なくともぼくは、自閉の子がいるからといって、惨めでもなければ不平たらたらでもない親御さんを何人かは知っている。みんな、わが子のために必要な教育をかちとり、支援態勢を整えさせるためとあれば、山をも動かさんばかりの勢いで闘う人たちだが、自分の子を治してくれとは望んでいない。だけどぼくは、嚢胞性線維症や癌の子をもつ親で、わが子が適切な教育を受けられ、支援の態勢が整うなら、この子が死んでもかまわないなどと言う人には一度も会ったことがない。
ぼくは子どものときに、危険な血液の病気を経験した。一年半のあいだ、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、という生活を強いられた。ぼくにとっての正常な生活(だれか別の人が「こういうのがふつうの生活だ」と考える生活ではない)を制限されて暮らさなければならなかった。症状そのものもひどく苦しかったし、恐ろしかった。治療も痛く、気分が悪くなるものだった。そしてぼくは、同じ年ごろの子どもたちよりもずっと、死を身近に感じながら生きていた。病院の待合室で、髪の毛のすっかり抜け落ちた、がりがりに痩せた子どもたちと並んで椅子に腰かけてすごした。ぼくより幼いのに、ぼくよりも重症の子どもたちを、たくさん見てきたのだ。
ぼくは、弟の親友の一生を見届けた。五歳のときは手に負えないわんぱく坊主だった彼が、思慮深く繊細な若者に成長し、そして一九歳のときに癌でこの世を去るのを。
そして、大学のとき同級生だったある女性は、どんどん病気が進み、衰弱していくというのになおも勉強を続け、とうとう学位をとって修了証書を手にしたかと思うと、卒業式から三週間もたたないうちに、嚢胞性線維症のために命を落とした。
ぼくは彼らに治ってほしかった。自分だって治りたかった。ぼくのかかっていた病気がよく調べられ、研究されていたことには感謝している。だからこそ、ぼくは寛解状態にまでこぎつけることができたのだから。でも、もっともっと研究を進めてほしいし、情報を集めてほしい。もっといい治療法を見つけてほしい。ケンやパメラのような人たちも助かるように。ぼくといっしょに待合室に座っていたあの子たちと同じような子どもたちが死なずにすむように、治療の副作用であんなに弱ってしまわずにすむように。そして、ぼくのような子どもたちが、もっと速く、もっと苦しまずに治るように。医学研究の予算は、そのためにこそ使うべきではないか。
それはつまり、自閉者のためには予算を使わなくていいということかって? 自閉者たちは自分で勝手にやっていくから放っておいてくれて大丈夫だというのかって? とんでもない。ぼくはただ、自閉という障害に関するかぎり、予算的にも制度的にも、医学的な研究というのは的はずれだと言いたいだけなのだ。
ぼくの生活は、「大丈夫」などという状態とはほど遠い。最後にお金を稼いでからもう二年近くにもなる。第一、これまでに、食べていけるだけの(本当にぎりぎりの)収入を得ていたのはわずか四年間だった。その収入の道さえ、まったく災難としかいいようのない事情で絶たれることになった。もう七年も前のことだ。医学の研究でこの窮状を何とかできるというのか? できるわけがない。ぼくが必要としているのは、教育、職業訓練、そして、搾取される心配も虐待される心配もなく働ける、安全な職場なのだ。それにぼくは、自分の健康を維持し、身辺の用事や家事をこなす基本的スキルが身についてないし、時間管理だってどうしていいかわからない。医学の研究でこの問題を解決できるか? できはしない。ぼくに必要なのは具体的なスキルの指導と、生活環境の整備・支援なのだ。そんなものに国立衛生研究所が予算を出すはずはないし、出すべきものでもない。
自閉のためにお金を使うなら、特殊教育のために、職業訓練のために、生活の支援のために、そして、暮らしやすい地域をつくるためにこそ使うべきだ。医学的研究の予算などいらない。そんなお金があるなら、ぼくの分の予算は、嚢胞性線維症や癌の研究に回してほしい。
人によって自閉とのつき合いかたはそれぞれだろう。自閉にはさまざまな意味がある。存在のありかたかもしれないし、他者とのかかわりかたかもしれない。おのれという感覚のよりどころにもなりうるし、仲間と共有する文化にもなりうる。強さの源でもあり、苦しみをもたらす存在にもなる。楯にも武器にもなりうるし、才能にも障害にもなりうるものだ。でもこれだけは言える。自閉は決して病ではない。
(訳ニキ リンコ)
原文へ→ http://members.nbci.com/jimsinclair/research.htm
ジムのウェブサイトへ→ http://members.nbci.com/JimSinclair/index.html
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