インクルージョンについて当事者たちが心配していること
ジム・シンクレア編
ぼくの知るかぎり、障害者の権利を訴える当事者で「インクルージョンが選択肢として保障される必要がない」などと考えている人は一人もいないと思う。障害のある人々はメインストリーム社会の中で、どこでも行きたい所に行くことができなくてはならないし、何でもしたいことをできなくてはならない――この考えは揺らぎはしない。
障害当事者たちの中には、インクルージョンに反対する人々もいるのは確かだ。でも、どんなにゴリゴリの反対派でも、本人がインクルージョンを希望しているのに、校区など公共機関や団体の意向で参加を断られたり隔離されたりするなんてことは、断じて許すべきではないと言うはずだ。本人が選択するかぎり、インクルージョンという選択肢は絶対に保障されなくてはならない。
しかし、障害当事者たちの間では、心配する声もあがっている。インクルージョンはかならずしも、あらゆる障害をもつ、あらゆる人々に最適な選択肢とはかぎらない。だから、インクルージョンを強制されることは、分離教育を強制されるのと同じくらい問題ではないかというのだ。ぼくたちが心配になる理由はたくさんあるが、よく耳にする声をいくつか紹介しよう。
(1)「障害のない人々と共に過ごすことが大事だ」とやたらと強調されたのでは、どうしても、「ほかの障害者たち――つまり、自分とよく似た人たち――は、共にすごす相手としてあまり望ましくない」という言外の意味を感じずにはいられない。でもこれでは、障害のある人々の値打ちが貶められていることになってしまう。
それがとりわけ露骨に現れているのが、「健常児・者といっしょだと、普通らしいふるまい(つまり、健常児・者のふるまい)を見習えるから、ためになる」という議論だろう。ほかの障害児・者とつるんでいたのでは、障害者らしいふるまいが「うつって」しまいかねないというのだ。つまり、障害児・者らしいふるまいは、それだけで自動的に望ましくないことだとされているとしか思えない。
そこまで露骨な言い方はされないにせよ、「こんな子どもたち・こんな人たちとふれ合うのが大事だ」などと言って、ただ単に健常児・者だからというだけの理由で、つき合うべき仲間を選ばれたのでは、「障害児・者は、健常児・者よりも仲間として望ましくない」というメッセージがはっきりと伝わってしまうではないか。
(2)インクルージョンを推進する人々がよく口にする言い方に、「障害児・者は、インクルージョンの場所に行った方が、普通らしい外見やふるまいを身につけやすい」というものがある。
確かに、そんな効果があがることはある。しかし、さまざまな障害をもつ、たくさんの人々がよく口にすることだが、実は、「なるべく普通らしい」外見やふるまいと引きかえに、「障害をかかえたままでなるべく良く機能すること」が犠牲になってしまっていることは珍しくない。
障害のある者がより良く適応し、順応し、困難を切り抜けていこうと思ったら、健常児・者とはべつのやり方を身につけた方がいい場合が多いのだ。
(3)ドナ・ウィリアムズはこんな発言をしている。「〈正常である〉とは、自分とよく似た人々と一緒にいること」。
ずっとインクルージョンの環境でばかりすごすとなると、自分とよく似た人々と一緒にいる機会などほとんど――ときにはまったく――得られなくなる。とりわけ、発生頻度の低い障害(たとえば自閉がそうだ)を持つ者にとっては、なおさら切実な問題だ。これでは、インクルージョンによって、孤立感や疎外感が避けられるどころか、かえって悪化しかねない。
(4)ただ単に障害のない同級生と一緒にすごすだけで、相互理解が勝手に生まれてくるとはかぎらない。
たとえば。ろうの児童・生徒のいる通常学級で、聴者の児童・生徒の大多数が、手話で流暢に会話ができるようになるとは考えにくい。いや、生徒どころか、職員だって怪しいものだ。これでは、自然な会話の機会は限られたものにしかならない。ろうの生徒に手話通訳者をつけたとしても、子ども同士のコミュニケーションには役にたたず、社会的なインクルージョンとよべるものにはならない。
(5)同級生の中でいつも何をやるのも一番困難で、いつも一番手厚い援助が必要で、いつも人並み以上の努力を強いられ、それでもなおいつもみんなより上達が遅い。こんな経験を積み重ねることは、良い自尊心を育てるのに役だつとは思えない。
(6)インクルージョンの場は、特別なニーズのない児童・生徒を第一に想定して設計されている。だからかならずしも、あらゆる障害のあらゆる人々のニーズに対応できるとはかぎらない。とりわけ、環境設定にたずさわる人々の側が、生徒には何が必要なのか、それがなぜそんなに大事なのかをよほど理解していなければなおさらだろう。これでは、インクルージョンという理想のために、教育を犠牲にしたことになってしまう。
a 盲の生徒の場合、インクルージョンの学校に行った方が、盲の生徒のために作られた学校に行くよりも、点字や移動のための指導を受けられる量が少なくなりやすい。ときには、点字の指導を全く受けられないこともある。
b ろうの児童・生徒の場合、理解度をひどく犠牲にしてまで口話や読唇を期待されることがあるかもしれない。
c ろうの児童・生徒は、ろう児のために特別に作られた学校に行くより、インクルージョンの学校に行く方が、手話を学び、使う機会が少なくなりやすい。これでは、コミュニケーションスキルの低下が長期にわたって残る危険がある。
d ろうの児童・生徒がすでに手話を流暢に使うことができ、手話通訳者がついていたとしても、インクルージョンの環境では、授業の内容をかなり見落とすことになりやすい。なぜなら、通訳者を見ている間は、教師が提示する視覚教材や実演を見られないし、実習の手も止めなくてはならない。
e 障害によっては(たとえば自閉などのように)、感覚の異常を伴うものもある。重度の人になると、インクルージョン環境に入れられるだけで悪夢のような経験になることも珍しくない。ひっきりなしに知覚過敏の渦に襲われていたのでは学習の妨げになるし、絶え間ない不快や苦痛の素にもなる。
f ぼく自身の経験を語ろう。ぼくは幼稚園から大学院までずっと、教室の照明が合わなくて、学校では全く字を読むことができなかった。ぼくはそれでも自宅で字を覚えることができたが、それは、たまたま能力に恵まれていたから、そして、理解ある両親に恵まれていたからにすぎない。へたをしたら、今でも読み書きができずにいたかもしれない。
(7)インクルージョンの場にいる教師や指導者といえば、たいていは非障害者だろう。特殊プログラムの方が、生徒や利用者と同じ障害のあるスタッフがいることが多い。
この違いは大きい。ただ単に、スタッフに障害者がいれば生徒や利用者のニーズをよくわかってもらえるというだけの理由ではない。同じ障害のあるスタッフは、すぐれた役割モデルになってくれるのだ。子どもたちは、障害のある大人が成功している姿、リーダー的な役割に就いている姿を目にすることができるのだから。
ぼくが知っている範囲だけでも、「自分のような障害のある子どもは、大人になるまでに死ぬことになってるんだな」という結論を導き出してしまった子どもたちが3人もいる。2人はろうの子、1人は自閉の子だった。3人とも別々の国で生まれ育ちながら、それぞれが勝手に考えて、全く同じ結論に達したのだ。3人は、自分と似た大人を一人も見たことがなかった。だから、きっと自分も大きくならないうちに死ぬのだろうと思いこんでしまったのである。
(ニキ リンコ訳)
Copyright (c) 1998 Jim Sinclair
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