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軽度障害と障害の証明義務

ニキ リンコ


軽度障害者というのは、しょっちゅう、「それでも障害のうちに入るの?」という視線にさらされます。なにかというと説明を求められ、証明を求められているので、たとえ説明を求められないときでさえも、ふだんから、いつ言われてもいいように言い訳をスタンバイさせておくのが癖になってしまうことがあります。

軽度障害者が〈健常者で通してしまおう〉という戦略を採用しているからといって、それが必ずしも、〈自分の障害を恥ずかしく思っているから〉とか、〈健常者の方が価値が上だと思っているから〉とか、〈健常者に同一化したいと思っているから〉とは限りません。

「その程度でも障害のうちに入るの?」
「その程度で障害者ヅラして楽するつもり?」
「その程度の障害で、努力不足の口実にするつもり?」

という視線に耐えるという重荷を下ろしたい、「いやあどうして、これでもなかなか大変なんですよね」という説明を今回はパスして、この手間を省きたい、っていう願望が動機になっていることがあります。

この「証明義務」っていうのは、軽度障害者や内部障害者、それに存在があまり知られていないマイナー障害者(単に疫学的に珍しい、とか、あるいは発見が新しい、とか)に特有の問題だという気がします。

「その程度で障害に入るのか」という疑問をぶつけられた場合、「これだって障害です」と証明しようとすると、どうしたって、「あれもできない、これもできない、こんなことが不便、こんなときにツライ」と並べなければいけないような気になってしまう。だけど、その説明自体、はっきり言って健常者の立場からみた障害像です。私の主観とは違う。〈健常者にも障害だとわかりやすい障害観〉を、想像で、あるいは借り物(引用)で語らざるを得ない。

しかも、ネガティブなことばっかり並べなければいけない気にさせられる。内心では「私の人生、そう捨てたもんじゃない」と思っていてもです。「愚痴は自分の美意識に反するんだが」と思っていてもです。「なんでこんなやつに弱味を見せにゃならんのだ」と思っていてもです。

そうやってプライドかなぐり捨ててしゃべっているうちに、なんだか本当に自分の生活は情けないことばかりのような錯覚に陥って、本当に気分がくさくさして来ちゃったりしますしね。そんだけの犠牲を払ってめでたく障害者と認定してもらって(?)も、気がついて見たら同情されちゃっていたりして、「なんかちがう」という気がしてくる。あるいは、「なにをーっっ」てくやしくなってしまう。でも、よく考えてみたら、たった今、お涙頂載と解釈されてもおかしくないことをさんざんしゃべったのは当の自分だったりするし。シマッタ! と思っても、もう遅い。

じゃあ自分の主観で説明すれば、って思ったって、私には何か説明できないんですよ。「診断というものを裏から見ると――(1)、(2)」(「帰国子女の部屋」に所蔵」)でも書いたとおりの事情で、です。

個人的には、自分が楽して便利に暮らすため、この辺の、「軽度障害説明・証明問題」を何とかクリアできるリクツっていうか、説明ツールが作れないかなあ、って思っているのですが。
(99・07・09)

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