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『ウサギの日本文化史』という本の中に、明治初期にウサギの飼育が大流行したと書かれています。
その出典となっている『風俗画報』という当時の雑誌の記事がとても興味深いので、現代文風に書き換えて
紹介させてもらいます。
明治五年の春、外国種の耳の長い兎を飼育している人がいた。
一目で在来種とは違うので、珍しいもの好きな人たちが欲しがり、それが兎飼育の流行の始まりとなった。
外国種の兎は簡単には入手できなかったのだが、東京小石川に住む赤井さんは、早くから外国種の兎を飼って繁殖しており、譲り受けたいという人が続々とあらわれた。
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更紗うさぎ
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純粋種だけではなかなか繁殖できないので、在来種と外国種を交配して雑種を繁殖しようとしたところ、白兎の腰のあたりに黒い斑紋のある更紗模様のものができた。
これは在来種にはないというので大喝采を受け、「兎は更紗模様に限る」とまで言われ珍重された。更紗の血統のものは値段が高騰し、種付け用の更紗毛色の雄兎は、二百円から六百円という驚くような値段がついた。
良い雄にかかれば良種の兎が得られるだろうと、雌兎を持ってきて種付けしてほしいという人が日に何人もいた。種付料は一回二、三円で、良い雄を飼っている家は予想外の収入があった。
明治五年の秋から冬にかけては雑種もどんどん増え、飼う人も倍増し、六年の春には外国種の舶来も入ってきて、兎の売買は日一日と頻繁になり、その値段は倍々に上がって、これまでにないような景況となった。 |
子兎は「コロ」と呼ばれ、資金が乏しい人は「コロ」を買って、成長させて売るといくらかの利益があった。大変高価なときは、「コロ」一匹の値段も十円から数十円になったという。
売買の斡旋や仲買をする人たちもおり、三、四ヶ月で数百円儲ける人も珍しくなく、その影響で料理店や待合、芸娼妓なども潤った。 |
明治六年の春からは流行がピークとなり、兎もたくさん増えたので市中に兎市場ができた。
市場の場所は待合、茶屋、料理屋、寄席などで、「今日はこの茶屋、明日はあそこの待合」と、朝から人々が集まってきてさかんに売買していた。
そのころはいろいろな毛色の種類のものができたが、「三毛の兎はまだないが、もしできたら価千金」と言われていた。
東京の飼鳥商の川角彦兵衛は大変商売上手で、早くから兎を飼い、さかんに売買して儲けていたのだが、待望の三毛兎を産生することができた。これはめずらしいと見に来るものが後を絶たなかった。
川角はその三毛兎を大変大事に育てていたが、水道橋に住む御園某が、譲って欲しいと大金を持ってやってきた。川角は思いがけない収益に喜んで、町の貧しいものたちに少しずつお金を分け与え、親族や知人を招いて宴会を開き、踊り歌い、酒を飲んで祝った。商人としては感心だと評判がよかった。
その後「メリケン」種といわれる大きな兎が輸入された。
当時「更紗」は数が多くなったので喜ばれず、新種の「メリケン」が歓迎され一時流行した。
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( 動植物 兎の話 「風俗画報」310号 M38.2.10 在三河安城 久永章武)
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明治5年当時珍重された「更紗」とよばれたうさぎは、200-600円もしたとか。
当時の貨幣価値を調べるため、関東農政局静岡農政事務所のサイトにある「400年の米価」のページを
参考にすると、明治5年の東京標準米10kgの価格は0.26円、平成13年の価格が3589円となっています。
単純にお米の値段の比率で計算すると、更紗うさぎは1匹300万から800万円、子兎の「コロ」でも
10万円以上ということになります。
当時の錦絵には兎の図などが多く描かれ、兎番付なども作られて、うさぎ飼育は大変な熱狂振りだった
ことがうかがえますが、この大人気は意外な結末を迎えることになるのです。 (後編につづく)
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