「…わざわざ入院になんかしなくても良かったのに・・・・」
「駄目だよ,レイ.お医者さんも絶対安静だって言ってたし.」
第3新東京市内の病院の一室,僕はベッドの側の簡易椅子に座ってパジャマ姿の妻と言葉を交わしていた.
妻の入院だが,病気ではない.その理由は,彼女の大きなお腹にあった.
僕の名は碇シンジ.僕が14歳の時にここ第3新東京市に移り住んでから10年近くの歳月が経っていた.
あの時,僕,そして妻のレイは・・・恐らく大多数の人はまず一生経験することの無いと思われる・・・
様々な出来事に遭遇したが,今現在はレイと二人,ごくありきたりで淡々とした・・・
人によっては「退屈だ」とも思うかもしれない日々を過ごしている.
「・・・家にいるとどうしても『安静』になんかできないんだから.4・5日は大人しく休んでいるんだよ.」
医者の話ではレイの身体の不調は一時的なもので4・5日安静にしていれば大丈夫なのだそうが,
経験からいって家にいればどうしても何かにつけて動いてしまって安静になんかしていられない.
そんなことから,渋るレイに僕ははっきりと「入院」を「宣告」した.
「…昔,似たようなこと,誰かが言ってた.」
「え?」
「…ううん.何でもない.」
僕の言葉に対して,レイは視線を傍らの僕から前方に移して病室全体を見渡し呟く.
彼女の短めの蒼銀の髪が揺れる.その印象的な紅い瞳で前を見つめるレイの横顔を目の前にして,
僕にとって彼女は最も近しい人のはずなのにまるで遠くの人であるかのような感覚を覚えた.
思わず戸惑いの声を上げた僕に,レイは首を軽く横に振って笑みを僕に向ける.
その瞬間,先程までの感覚が急速に薄れゆく.僕に向けられるレイの笑顔にはそんな不思議な力があった.
「・・・レイ一人だけの身体じゃないんだから.」
それから僕は,身重の女性に対して周囲の人間が必ず一度は言いそうな言葉を口にしていた.
あまりにも使い古されたその言葉にもう少し気の利いた言いまわしは無いものかとも思うけど,
レイ,そして生まれてくる僕達の子供のことを考えると他には思いつかなかった.
「…わかったわ.」
レイは静かに,そして簡潔な言葉で入院を承諾してくれた.彼女の言葉を受けて僕は持参した荷物を取り出す.
ここに来る時に,僕は4・5日の入院にさし当たって必要と思われるものを持ってきていた.
「えーと,着替えと洗面道具はこの袋の中に.足りないものがあったらすぐに言ってね.持ってくるから.」
「…あなた.」
「何?レイ?」
「…ありがとう.」
感謝の言葉と共にレイが僕に微笑む.彼女の視線を受けて僕は一瞬動きが止まる.
レイの優しさに溢れた顔は何年も見てきているけど,僕の気持ちは初めて間のあたりにした時と変わらない.
むしろ,共に歩んできた時が積み重なるにつれてその想いはより深いものとなっているのかもしれない.
彼女の気持ちに応えるために,そしてその想いを表わすために,僕もまた微笑んで彼女に言葉を返す.
「・・・どういたしまして.」
「明日も来るからね.レイ.それじゃ.」
「…気をつけて.」
「うん.レイもちゃんと休んでね.」
「ただいま〜」
家に着いて玄関に入ってその言葉を発した時,僕は苦笑いを浮かべた.
レイと二人きりで暮らしている今,僕の言葉に応える人は今日はいないのに.
ここ第3新東京市で初めてその言葉をぎこちなく口にした日が遠い昔のように思える.
子供の頃,求めていながら得られなかったもの.今はここにある.
「・・・・・・・」
ブラインドを下ろしていない窓から月明かりが病室に射しこんでいる.
あと半時間もすれば看護婦さんが締め切ってしまうだろう.
独りきりの部屋で何をも分からずに月夜を見上げて過ごしたのは昔のこと.
ここはその昔を私に思い出させる.あの時,自分の想いを言葉にできなかった私.
今は言葉にすることができる.伝えるべき人がそばにいる.
・・・早く,明日が来ないだろうか.話したいことがあるから.伝えたいことがあるから.