− コンフォート17 葛城家 −
「ただいま.」
「おかえりぃ.シンジ君.」
僕がその言葉を玄関で口にした時,日はすっかり暮れていた.
家の中から,のんびりとした声が返ってくる.今日はミサトさんが先に帰っていた.
「ミサトさん,帰ってたんですか.早いですね.」
「シンジ君の方こそ今日は遅いわね.どっか寄ってたの?」
「ええ.トウジとケンスケと3人でトウジの妹さんのお見舞いに.」
「え? 鈴原君の妹さん?」
「・・・はい.」
帰りが遅くなった理由をミサトさんに尋ねられて僕は答える.僕の答えにミサトさんは驚いたようだった.
確認を求めるミサトさんの問いに僕は少し間を置いてから答えた.
「そっか・・・行って来たんだ.シンジ君.」
「・・・ええ.」
「で,どんな様子だったの?妹さん.」
「元気そう・・・でしたよ.回復には少し時間がかかるみたいで・・・まだベッドからは動けないんですけど.」
実際,彼女はベッドから動けないことを除けば元気そのものだった.終始,明るくてはきはきしていて
どんな顔をして会えばわからなかった僕に対してもその態度は全く変わらなかった.
・・・どうしてそんなに明るくいられるのだろう?
口には出さなかったけど僕はそう思わずにはいられなかったくらいに.
「そう.早く回復するといいわね.」
「ええ.そうなるといいんですけど・・・」
「シンジ君.」
「はい?」
「あんまり思い詰めない方がいいわよ.」
「・・・大丈夫ですよ.ミサトさん.妹さん,良くなると・・・思いますよ.」
この時,僕は妹さんの怪我は順調に回復に向かっているものとばかり思っていた.
・・・トウジもその時は僕と同じ考えだったと思う.恐らく.
そう思えるくらい,病室での妹さんの様子はしっかりとしたものだった.
「あ.これ,学校からの連絡・・・です.」
「ふーん,進路相談ねえ・・・」
「・・・・・・・」
それから僕はややためらいがちに通学鞄からプリントを取り出す.
僕の手から渡されたプリントをミサトさんはざっとなめるように見ていた.そこにしばらくの“間”が発生する.
「・・・分かったわ.時間,調整するわね.」
「え・・・ミサトさん.今,何て?」
「進路相談,出席するわね.」
「そんな・・・いいですよ.ミサトさん,無理しなくても.」
「こういうことは遠慮しなくていいの.大事なことなんだから.」
「はあ.」
意外なミサトさんの返答に僕は生返事をする.確かにミサトさんは今の僕の保護者ということになっているけど,
こういった場に来てもらうことは全く考えて無かった.
「ミサトさん.」
「ん?」
「忙しかったら本当にいいんですよ.」
戸惑い半分で僕はミサトさんに無理してまで来なくてもいいと口に出す.
ミサトさんの時間を使ってわざわざ来てもらうのは気が引けるし,
それに先生と保護者と僕の3人でという状況は何となく苦手で・・・好きじゃない.
「子供はそんなこと気にしなくていいの・・・それとも何かな〜,私と先生が会うと何か困ることでもあるとか〜?」
「そ,そんなの・・・別に・・・無いですよっ.」
当たらずとも遠からずのミサトさんの言葉に僕は途中言い淀みながら答える.
学校で別に問題があるわけじゃない.・・・最近,成績が全般的に下降気味なことを除けばだけど.
「本当かな〜?」
「ほ,本当ですよっ.」
「本当?嘘ついてない?シンジ君.」
「本当ですっ!」
「じゃ,行ってもずぅえ〜んぜん問題は無いよね〜.」
「うっ・・・」
「面談の日,楽しみだわ〜.」
「・・・・・・・」
疑いの眼差しを向けるミサトさんに僕はついむきになって答えてしまう.
むきになる程のことでも無いとも思うけど,妙に勘繰られるのも何となく気分が悪い.
・・・そう思った僕だったけど,この手のことに関してはミサトさんの方が僕よりも数段上手だった.
「あ.そうそう,シンジ君.今晩から食事当番復活ね.今日は私が作るから.」
「え?」
今日は驚かされてばかりだ.食事当番を復活させるなんてミサトさん,一体どういう風の吹き回しなのだろう.
ふと台所の方を見ると,スーパーの袋に入った大量の食材が置かれていた.
「い,いいですよっ.僕が作りますから.」
僕は慌ててミサトさんを止めようとする.何を思い立ってそんな事を言い出したのか分からないけど,
ミサトさんが料理を作るのだけは阻止しなければならない.後片付けが大変だし,何よりも僕の胃袋が心配だ.
「いいから.いいから.シンジ君はそこに座って.」
「一体,どうしたんです?・・・何かあったんですか?」
「なーんにもないわよ.ここんとこ忙しくてシンジ君に任せきりだったから元に戻しただけよん♪」
「・・・それだけでは無いでしょ.」
・・・怪しい.そんな理由だけでミサトさんがわざわざ家事を分担しようとするとは思えない.
絶対,他に何かあったに違いない.僕は疑いの眼差しをミサトさんに向けていた.
「さーて,料理.料理・・・っと.」
「ミサトさーん!」
「今晩はカレーだからねん♪ シンジ君.」
「カレーなら僕が作ります.ミサトさんは何もしなくていいですからっ.」
疑惑の視線をあからさまに無視してミサトさんは夕食の準備を始めようと台所に向かい出す.
僕はミサトさんを止めようと強い調子で声を上げる.すると,ミサトさんの体が一瞬ビクッと震えた.
そして次に,ミサトさんはゆっくりと僕の方へと振り返る.ミサトさんの声が急に強ばったものに変わっていた.
「何もしなくていい・・・ですって?」
「・・・ミ,ミサトさん?」
確認するように僕に尋ねたミサトさんは笑みを浮かべていたけど,目の方が何とも言えない凄みを帯びていた.
その視線に僕はたじろいでしまう.何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか?
「シンジ君.」
「は,はいっ.」
「そこで休んでて.」
「わ,わかりました・・・」
理由はよく分からないけど,ミサトさんの据わった目を前にして僕はそれ以上の抵抗をすることができなかった.
普段はのほほんとしているのに,ミサトさん,時々全く近寄れない顔をする.
「さあーっ,作るわよぉーっ!」
それから,ミサトさんの気合の声と共に荒々しい物音が台所から聞こえ始める.
果たしてちゃんと食べられるものが出てくるのだろうか?・・・かなり不安.
・・・・・同じ家事なら風呂掃除とかの方がまだ良かったのに.
「ううっ・・・気持ち悪い・・・」
僕の不安は的中し,お腹をさすりながらベッドで仰向けに横たわっていた.胃の中が逆流しそうな感じだ.
一緒にあれを食べたペンペンは大丈夫だろうか?何だか汗が一杯吹き出ていたみたいだけど.
ミサトさんの気まぐれと行き当たりばったりにも困ったものだ.それに振り回される方はたまったものじゃない.
台所の後片付けは明日にしよう.今動く気力は無いし,ミサトさんの整理整頓は殆ど期待できないから.
『お兄ちゃんったら,私宛てへの見舞いの果物,片っ端から食うてしまうんよ.』
『な,何を言い出すんや.ハルカっ.ワシはただ,ハルカが食べきれない分を片づけとるだけで・・・』
『その割にはお兄ちゃん,うまそうに食うていたなあ.』
『そ,それは,美味いものは美味そうに食わんと食いもんに失礼やないか.』
『また訳の分からんことを・・・・・ほなこの前,日持ちのする桃の缶詰をわざわざ開けたのはどうしてなん?』
『それは,そう言えばハルカが入院してから桃を食べてないからと思うたからやないか.』
『そう言う割にはお兄ちゃん,私の倍食べとったやん.』
『うっ・・・何もそないなこと,ケンスケやセンセの前で言うことないやんか.』
『こんなん兄ですけどよろしゅうお願いしますわ.』
『ハルカ〜.』
寝転がっていると,病院での出来事がふと甦る.見舞いの間終始,トウジは妹さんにやり込められていた.
ケンスケの言ってた通り,妹に全く頭が上がらないといった感じで.妹さんの方もトウジに遠慮が無かった.
でもそれは,トウジが妹さんのことを可愛がってるからで・・・妹さんもトウジのことを信頼してるからなんだと思う.
『お兄ちゃん,シンジ兄ちゃんを苛めたらあかんよ.』
『わかっとるがな.第一それに今は,センセとワシは親友なんや.』
『ロボットの操縦,頑張ってね.シンジ兄ちゃん.』
「頑張ってね・・・か.」
病室で妹さんが言っていた言葉を僕は反芻する.
その言葉は僕がここに来るまで,EVAに乗る前まで,殆ど掛けられたことが無かった.
誉められることもそう.
期待されることもそう.
前の家に居たときはそんなことは全く無かった.
邪魔にさえならなければいい,といった感じで.
面倒を起こさなければ学校の成績もあまり関係無かった.
習い事のチェロが弾けてもできて当然,という感じで.
逆にできなかったからって叱られることもとりわけ無かった.
EVAに乗れば期待してもらえる.
任務を果たせば誉められることもあるし,命令を無視すれば怒られる.
でも,それは僕がEVA初号機のパイロットだから.
じゃあ,EVAが無ければ?
僕がEVAのパイロットで無かったら?
そうでなくても他に優れたパイロットが出てきて僕が乗らなくても良くなったら?
・・・・・・・
『私には,他に何も無いもの・・・』
決戦の直前,綾波が残していった言葉.
その言葉を耳にした時,得体の知れない何かざわめきみたいなものが僕の中から湧き上がって来ていた.
EVAに乗ること以外に価値のあるものが自分には無い・・・多分そのことが悲しくて,堪らなくて,嫌で・・・・・
『自分には・・・自分には,他に何も無いなんてそんなこと言うなよ.』
だから綾波にあんなことを言ったのかもしれない.
あの時,綾波に言った言葉は・・・・・僕自身への言葉でもあったんだ.きっと.
「将来の夢・・・か.」
枕元に置いてあった白紙のプリントを僕は手に取り,それをぼんやりと眺める.
・・・僕は何を望んでいるんだろう?・・・何が望めるんだろう?
「ふぅ・・・・・」
その時,僕が覚えた得体の知れない息苦しい感覚はミサトさんの料理のせいだけでは無かった.