「・・・ママ!」
青い瞳,栗色の髪の幼い女の子が勢い良く駆けて行く.
可愛らしいおサルさんの人形を抱き抱えながら.
上品で,外遊びにはちょっと向かない服装.
その子は,利発な子供だった.
あまりママに構ってもらえずにいたけど,駄々をこねたりしなかった.
ママのお仕事が,大変で忙しいことが分かっていたから.
一所懸命,手の掛からない「いい子」でいようとした.
本当はもっと甘えたかったけど,ママを困らせたくなかったから.
その子は,ママのことが大好きだった.誰よりも.
・
・
・
・
・
「ママ・・・・・」
薄闇の中で,眠りにあるアスカの唇からその言葉が漏れた瞬間,彼女に唇を近づけつつあったシンジははっと我に返った.
『何やってるんだ・・・僕は』
今しがた行おうとした行為への後ろめたさから,シンジは自己嫌悪に陥る.彼のそばには寝間着姿のアスカが身体を横たえ,眠っている.夜中に目を覚まし洗面所に行っていたアスカが,戻って来た際,寝惚けてシンジの寝床へ(実に絶妙な位置関係で)転がってきたのだ.
使徒との決戦前夜,シンジとアスカはミサトの居ない夜を過ごしていた.
異聞 「瞬間、心、重ねて」 E Part
Written by VISI.
「自分だって,子供のくせに・・・・・」
後ろめたい気持ちを誤魔化すかのようにごちりながら,シンジはアスカに背を向け頭からタオルケットを被る.常に攻撃的な日頃の態度からはちょっと想像の付かないあどけない寝顔・・・妙な気を起こした自分が,恥ずかしかった.
『僕は,最低だ・・・・・』
ここ数日間の猛練習の甲斐あって,一時はその雲行きが危ぶまれていた二人のユニゾンはほぼ完成域にあった.それは,レイに交代されるという危機感からアスカがシンジを今回の作戦のパートナーとして(とにもかくにも)認めて(スパルタ式ながらも)進んで彼を引っ張って行った成果・・・と言ったところだろうか.
『ちっとも変わってない・・・何も』
自分のことが,嫌いだった.シンジは.流されやすく,逃げてばかりいる自分が.何の取り柄も無い,弱い自分が.だから,誰もまともに相手をしてくれない,優しくしてくれない・・・・・そんな自分が,嫌だった.
「ママ,か・・・・・」
被ったタオルケットの中で,シンジは小さく呟く.3歳の時に“事故”で母親を亡くしたシンジには,その面影や記憶が殆ど無かった.
− * −
簡素な造りのベッドの上で,少女は身体を起こしていた.窓の外は,月明かりが照らす夜の時間・・・真夜中を少し過ぎたあたりだろうか.コンクリート打ちっぱなしの壁に,カーペットの敷かれていないタイルの床,目につく家具は,ベッドと冷蔵庫と衣装用引き出し,それにゴミ箱代わりのダンボール箱,といった殺伐としてかつ所々に紙屑などが散らかる雑然とした部屋.
「・・・・・・・」
ベッドの上の少女・・・綾波レイは,下着にシャツ一枚を被った格好で起き上がると台所の方にすたすたと歩き出す.水を飲むためだ.コップ代わりのビーカーに水道水を注ぐ.
「(こくこく)」
水を摂ると同時に,レイの喉が動く.明日・・・既に今日に入ったが・・・は,N2爆雷で足止めされた使徒が侵攻を再開する日.出撃予定に無いレイもまた,本部に詰めて待機することになっている.そんなレイが時間までに今するべきこと・・・できることは,休息を取ること・・・眠ることぐらいである.
『・・・なぜ?』
再びベッドに潜り込んだレイは考える.いつの頃からだろうか,ベッドで横になってから意識を失うまでに時折時間が掛かるようになったのは.怪我の痛みで眠れなかったという場合はあったが,それ以外においては殆どすぐに眠れていたはずだ.
『以前は・・・何も,考えなかったから』
眠れない原因を,レイは冷静に分析する.頭の中で,何かが引っかかるような感覚.以前には,無かったものだ.何事にも,自分のことですら考えることは無かった.考える必要も無かった.
『笑うこと・・・絆・・・』
過去に,シンジが第3新東京市に来る少し前の出来事だが,レイの乗機である零号機が起動試験中に制御不能で暴走するという事故があった.その際に,エントリープラグ内のレイを危険も顧みず救出したのは,碇司令・・・ゲンドウである.朦朧とした意識の中,レイは自分に向けられるゲンドウの安堵の笑みを見ていた.
『泣くこと・・・』
過粒子砲で加熱されたプラグ内で見たシンジの顔.自分に係わることで,あのような激しい感情・・・レイには実感の湧かないものであるが・・・を見せられたのは,初めてだった.最初,どうして泣いてるのか,分からなかった.自分は,作戦通り“盾”の役割を果たしただけだというのに.
『笑うこと・・・』
その時に彼が言ったこと,それから彼が見せた泣き笑いの顔は,今でも鮮明に覚えている.レイのシンジに対する認識が,“碇司令の息子”から“碇君”に変わったのはこの時からだった.
『明日・・・』
自分にできることは,何も無い.彼と弐号機パイロットの訓練の成果に全て,ことの成否はかかっている.自分が考えてもどうしようもないことなのに,なぜだかレイは得体の知れない引っ掛かりを覚えていた.
「・・・・・・・」
眠りを得るため,レイは目を瞑って意識を闇に落とそうと試みる.自分の中で芽生え始めている得体の知れない何か・・・その正体を,彼女はまだ捉えていなかった.
− * −
「何で,アンタがここに寝てんのよ!?」
「何で・・・って,ここは僕の寝るところじゃないか!惣流が寝惚けてこっちに来たんだろ?」
朝から早々,騒々しい言い争いが葛城家で展開される.あれからそのままシンジの寝床で寝ていたアスカが目を覚まし,ことの状況に気づいて騒ぎとなったのだ.
「じゃあ,何で『間違ってるよ』ってアタシを起こさなかったのよ?」
「そ,それは・・・」
アスカの指摘に,シンジは引き気味になる.昨夜の自分の行動が,ただでさえ少ないシンジの心の余裕を削り取っていた.
「き,気が付いた時には,良く眠っていて起こすのも悪いかと思ったんだよ.
だから,布団の外に移ったんじゃないか!」
半分嘘,半分正直にシンジは言い訳する.彼にしては,これは上出来だろうか.
「はん!どーだか?正直に言うなら今のうちよ!?アタシには,ぜーんぶ分かってるんだからっ」
「な,何のことだよ〜」
眉を吊り上げながら,アスカはシンジに詰め寄る.自信ありげな態度を取っているが,あの時のアスカは本当に夢の中であったため,その出来事を知らない.ただ,詰め寄られていたシンジは内心かなり焦っていた.
(ピロロロロロ)
「で,電話」
「分かってるわよっ」
電話のベルが鳴ったのは,まさにその時のことだった.この場を逃れたくて,シンジはアスカの注意を電話に逸らさせる.アスカはずかずかと電話に歩み寄り,受話器を取った.
「はい・・・ミサト?・・・何?」
電話は,作戦準備のため 昨夜からネルフ本部に泊まり込んでいたミサトからだった.
「・・・シンジ?起きてるわよ・・・わかった.着替えたらシンジを連れてすぐ下に行くわ.それじゃ」
先程の口論で喧嘩腰になっていたアスカだが,ミサトの電話に出ているうちに声のトーンが落ち着いたものに変わって行く.
「ミサトさん,どうかしたの?」
「迎えを寄越したって.これから,本部で今日のリハーサルをするそうよ」
受話器を置いたアスカにシンジが尋ねる.シンジの問いに,アスカは険の取れた表情で答える.出撃の時間が,これまでの訓練の成果を周囲の人間に知らしめる時間が,まさに来ようとしていた.
「さっさと着替えて出発するわよ.シンジ!」
「う,うん」
気合いのこもった声で,アスカはシンジに言い渡す.彼女のブルーの瞳は,この上なく充実して,輝いていた.
かくして,アスカからの“疑惑”の追及は一時的に回避されたのだが・・・・・・・
− * −
「はぁ・・・・・」
朝の第3新東京市の坂道を,ため息つきながら一人でとぼとぼ歩く制服姿の少年がいた.シンジである.
使徒との決戦は,シンジとアスカ二人のユニゾンによる二体同時コア荷重攻撃が決まってその殲滅に成功した.だが,その後が良くなかった.コア攻撃後の着地に失敗してEVA両機が動けないまま折り重なってしまったのだ.それだけなら,ミサト一人が頭を抱えるだけで済んだかもしれない.何にせよ使徒を倒すことには成功したのだから,数日前のてんでんバラバラの状況を考えれば十分な成果である.
問題はさらにその後で,着地の失敗に腹を立てたアスカと言い争っているうちに口が滑って,決戦前夜の出来事・・・キス未遂事件がアスカにだけでなく発令所内に居た人間全員にばれてしまったことであった.
良からぬ事は,するものではない.正確には,しようとした,ではあるが.
『ミサトさんなんか,自分が面白ければいいと思っているんだ・・・きっと』
事の顛末にその時は頭を抱えたミサトだったが,ひとたび落ち着いて立ち直るといつもの(?)お気楽モードに戻って,ことある毎にシンジをからかいまくっていた.また,訓練終了後も同居を続けているアスカからもしつこく責め立てられている.そんな葛城家の状況にシンジは堪りかねて,学校を口実にそくさくと家を出たのだ.
『・・・いつになったら,ほとぼりが冷めるんだろう・・・みんなにも,聞かれちゃったし・・・・・』
アスカとの同居は,なし崩しにこのままずっと続きそうな雲行きである.あのキス未遂事件が無ければ,ここまで気を重たくすることも無かっただろうが.また,本部における自分を見る視線も何となく寒々しい・・・これは,彼の意識し過ぎなのかもしれないが.
「あ・・・・・」
坂道を歩き終え,歩道橋を渡ると,シンジは見知った顔に出会った.ベンチに座って本を読むレイである.
「お,おはよ」
少し気後れを覚えながら,シンジはレイに声を掛ける.あの時,直接顔は合わせていなかったが,レイもまた本部に待機していた.あの一連の会話がどの範囲まで“放送”されてたのか分からないが,彼女も聞いていた可能性は少なくない.レイとは,付き合っているとかいないとかの関係ではないが,たとえ付き合っていなくてもそれを知られて平気でいられる程シンジの神経は図太くなかった.
「・・・おはよ」
本を手にしたまま,レイは短く挨拶を返す.素っ気無い調子はいつもと変わらない.その声・表情からは,彼女が何を考えているのか全く読み取れない.
「今日は,早いんだ」
「そう?」
「うん・・・」
シンジは立ち止まり,レイと話を続けようとする.ミサトとアスカから逃げるようにして出かけたので,今日はいつもよりかなり早い時間に着いていた.
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「あ,あの・・・」
その後,二人の間に沈黙が訪れる.レイは必要以上のことは殆ど話さないし,シンジも会話一般に関して不得手である.何か奥歯に物の挟まった感じでシンジが次の言葉を紡ぎ出そうとした時,とげとげしい声が彼の背後に突き刺さった.
「なーに,やってんのかしら?変態男」
声の主は,アスカだった.そくさくと家を出たシンジだったが,とぼとぼ歩いたり,レイの所で立ち止まっているうちに彼女に追いつかれたのだ.
「うっ・・・」
「気をつけた方がいいわよ?ファースト.コイツ,大人しそうな顔してるけどすっごい変態男なんだから!」
憤懣やる方無い,といった顔でアスカはシンジをこき下ろす.変態男・・・あの時以来,ことある毎にアスカが使っている呼び方・・・どこぞの物語では“事故”で“パンツ覗き魔”と呼ばれた少年がいたが,さすがに この場合は“事故”とは言い難い.また,たまたま運が悪かった・・・というのも,きっと非難が来るに違いないだろう.
「そ,そんなぁ・・・だから,あの時は,本当にしてないんだってば!」
「しようとしたこと自体が,問題なのよ!」
「そのことは,謝ったじゃないか!それをいつまでもネチネチと・・・」
「あー,そうやって開き直るの!?」
「開き直ってなんか無いよ!ただ,お願いだから もういい加減 “変態男”って呼ぶのをやめてよっ」
「アタシは,事実を言ってるだけよ!」
立ち止まったアスカとシンジの間で口論が始まる.自分が悪かったとシンジは思うものの,ミサトにからかわれ,アスカに責められ続けているうちに,相当参ってしまい謝り続けることにうんざりし始めていた.そんなシンジとアスカによるいつまでも続くかと思われた言い争いに,思わぬ所からストップが掛かる.
「・・・変態男って,何?」
「「え?」」
それは,レイからの問いかけだった.予想だにしていなかったレイの質問に,虚を衝かれたアスカとシンジは全く同時に固まる.ただ,そこから立ち直るのはアスカの方が少し早かった.
「寝ている女の子にキスをしようとしたり,着替えを覗いたり,
身体を触ったりするような奴・・・具体的には,コイツのことよ!」
アスカは,そう言いながら人差し指でビシッとシンジを指す.彼女の言っていることは事実である.ただ,彼の名誉のために言っておくと,キス未遂事件以外の2件は事故,もしくは止むを得ない状況でのことである.
「・・・・・・・」
アスカの言葉を聞いたレイは本を膝元に置き,彼女にしては珍しく何か思い出しているような様子を見せる.そしてそれから一呼吸の間の後に,ぽつりと言葉を発した.
「そう・・・そうかもしれない」
「あ,綾波まで,そんなぁぁぁ」
レイのその一言は,決定的だった.いつもの一本調子で発せられたまさかの一言に,シンジはショックで頭を抱え,アスカはほれ見なさいといった顔になる.この時のレイは今まであった事実・・・押し倒し事件・・・をただ単純に照らし合わせただけなのだが,シンジがそのことにまで考えが及ぶはずも無い.
『うぅ・・・・・』
・・・その後数日間,葛城家の家事進行が停滞する事態を重く見たミサトが取り成しを計らうまで,シンジは凹んだまま立ち直ることは無かった.そしてこの一件は,シンジの心の奥底で 後々まで長く引きずることになる.
なお,その後 レイがシンジを形容する言葉に,「変態男」を新しく追加したかどうかは,定かではない.
2000.03.11 Ver.1.00
TOP INDEXに戻る/管理者作品 INDEXに戻る