「ほな,おっ先」
ホームルームが終わって教室で椅子と机がぶつかる音の中,ジャージの少年がいち早く教室の後ろの扉へと駆け込んで行った.
「ちょっ・・・待ちなさいよ!鈴原っ.修学旅行のレポートまだ出して・・・」
クラス委員であるクラスメートの女子生徒が彼を呼び止めようとするが,彼女が言葉を言い切る前に彼は速攻で教室を出て行った.後に残されたのは,眉の吊り上った彼女・・・このクラスで,まあそこそこの頻度で起きている光景の一つである.
「それじゃあな,碇」
「うん,また明日」
彼と彼女による一連の顛末の後,眼鏡の少年がジャージの少年とは対照的に悠然と友人に別れを告げる.眼鏡の少年が余裕で居られるのは,呼び止められるような覚えが無いからであった.
「シンジ,今日も残り?」
「うん・・・週番だから」
「今日ぐらい,相方に全部任せてさぼったら?」
「そうも行かないよ」
「はぁ〜おりこうさんなことで・・・じゃ,お先!」
眼鏡の少年が去った後,赤茶褐色の長い髪を持つ気の強そうな少女が話し掛ける.碇,あるいはシンジ,と呼ばれた少年は彼女に応える.彼の反応に彼女は少しばかりからかいの含んだ口調で話すと,帰りに就いた.
− * −
「・・・ホントごめんねっ,碇君.明日は全部私がやるから」
「べ,別に気にしなくていいよ・・・大した仕事じゃ無いし」
顔の前で両手を合わせ拝むようにしてその女子生徒は,週番の少年にお願いしていた.拝むようにして,と言ってもそれ程深刻なものではなく,むしろ気軽にちょっとした用事を頼むといった感じの方が近い.先刻,赤毛の少女の言っていたことが立場を逆転させた状況で起きていた.
「ホント,ごめんねーっ」
それから,(もう一人の週番だったはずの)女子生徒は軽いノリで少年に手をぶんぶと振って教室を去って行った.何となく“お得だな”とも思えるその振る舞いに,人の良さそうなその少年は苦笑い混じりで彼女を見送る.もし,ことの次第を先刻の少女が知ったら呆れるか怒り出すかのどちらかだろうか?
「・・・・・・・」
帰宅したり部活動に行ったりで他に人のいなくなった教室で,少年は週番の仕事を始める.
机の列を整え,黒板・・・2015年の今も教室に健在・・・を拭いて日付を明日のものに書き換える.日直ならば当番の名前も書き換えるが,週番で週末でない今日は当然そのまま.それから,溜まったチョークの粉を拭き取って黒板消しに付いた粉も取り払う.所定の場所へごみ箱を持って捨てに行く.戸締まりをして,学級日誌を付ける等々・・・・・
「・・・これ,学級日誌です」
「ああ,ご苦労さん」
約30分ぐらいで週番の諸々の仕事を終えた少年は,職員室に学級日誌を持って行っていた.彼のクラス担任である年配の老教師がねぎらいの言葉を掛ける.
「じゃ,失礼します」
「あ〜ちょっと待って」
「はい?」
日誌を渡して少年は帰ろうとするが,不意に老教師から呼び止められる.
「一つ,用事を頼まれて欲しいのですが」
「はあ・・・」
「お休みしている綾波さんの所に,溜まってるプリントを持って行ってくれませんかね?」
呼び止められて一体何だろうといった顔の少年に,老教師は一件の用事を頼んでいた.
異聞 「静止した闇の中で」 A Part
Written by VISI.
(カーン カーン)
再開発の工事音が響く中,シンジは傷みの進んだコンクリートの階段を昇って行く.行き先は,4階にあるレイの部屋.週番で,担任からプリントを彼女に渡すよう頼まれたシンジは,レイの住む団地まで来ていた.
『綾波,居るといいんだけど・・・』
他に人の気配の無い通路を,やや心許なげな表情でシンジは進む.ここまで来て居るのか居ないのかを気にするくらいなら(支給されている)携帯に掛ければ良いような気もするが,たかだかプリントを渡すだけのことで電話を掛けるのはシンジにはためらわれた・・・あるいは,電話で話すこと自体にある種のプレッシャーを感じたのかもしれないが.
(カチッ)
『・・・壊れたままだ』
その役目を果たしていないインターフォンに,シンジの顔がさらに曇る.シンジがレイの部屋を訪ねるのは今回で2度目.前回・・・初めて訪ねた時には,このインターフォンが壊れていたことから二人の間でちょっとした(?)ハプニングが起きていた.
「(コン)綾波?」
(・・・・・・・)
金属製のドアを軽く叩きながら,シンジは中に向かって声を掛ける.が,中からの反応は無かった.
『留守・・・なのかな・・・・・』
困惑の表情を浮かべながらシンジは思う.前回,今と同じような状況にあったシンジは,この後鍵の掛かっていなかったドアを開けて,ワンルームの中の部屋でシャワーから出てきた全裸のレイと鉢合わせになっている.シャワーを浴びていて(浴びていたことに),レイは(シンジは)気づかなかったのだ.
(カチャ)
「あ・・・」
ドアノブに右手を掛けたシンジは,ノブからの反応に思わず声を上げる.これもこの前と同じく,ドアには鍵が掛かっていなかった.
『・・・シャワー,じゃないよね?』
前回の失敗を思い出して,シンジは耳を澄ませて中の様子を伺う・・・水音はしてないように思われた.何となしに,シンジはほっと息をつく.
「綾波?碇だけど」
(・・・・・・・)
それから,シンジは外側に少しだけ開かれたドアから覗き込むような格好で来訪を告げる.相変わらず,中からの反応は無い.
(カチャン)
「はぁ〜・・・留守かぁ・・・ここに入れても多分読まないだろうし・・・どうしよう・・・」
レイが眠っていなければ,あるいはシンジの呼び掛けを無視していなければ,その通りだろう.シンジは開きかけのドアを静かに閉じて,ため息をつく.ドアの郵便受けに突っ込まれたままのDM(ダイレクトメール)の山に,シンジは預かったプリントをどうしたものかとドアノブに右手を掛けたまま思案する.
その時,近づいてくる人の気配にシンジは気づいてなかった.
− * −
「・・・何?」
「え?うわっ.あ,綾波っ!?」
脇から不意に声を掛けられて,僕の心臓は跳ね上がった.考え事をしていて,綾波が近づいてきたことに全く気づかなかったんだ.学校の制服姿の綾波の視線がドアノブを握る僕の右手に向けられる.
「あ・・・こ,これは・・・プリントを届けに来たんだけど,返事が無くて,ドアに手を掛けたら
鍵が掛かっていなくて,あ,プリントを届けに来たのは先生に頼まれて,頼まれたのは今週週番で,その・・・」
綾波の視線に,僕はやましいことの無いことを示そうとするが,上手く説明できない.話しているうちに,あれも言わなくちゃ,これも言わなくちゃ,と頭の中で浮かんできて,それらがごちゃごちゃになってしまう.
「?・・・何を言ってるの?」
「いや,だから・・・」
綾波が分からない顔をしたのは当然だった.自分でも何を言ってるのか分からないのだから.僕はもう一度今度こそは順序立てて話そうとしたんだけど,それは綾波の次の一言に遮られた.
「・・・中に入れないのだけど」
「あ・・・ご,ごめんっ」
綾波の前に立ち塞がっていた形になっていた僕は,謝りながら握りっぱなしになっていたドアノブを回して手前に引き開けた.そうして空いたスペースに,綾波がすうーっと中に入り込む.綾波が中に入った後,僕は半ば反射的にドアを閉じていた.
(カチャン)
「・・・・・・・」
それからようやくドアノブから右手を離した僕は,閉じられたそのドアをただ見ていた.・・・何をしに来たんだろう・・・僕は.その時間数十秒だったろうか,この一連の間の悪さと僕自身の間抜けさを自覚し始めた時,目の前のドアがまた開かれた.
(カチャ)
「・・・入らないの?」
「え?」
ドアを開けたのは綾波だった.思わぬ綾波の言葉に,僕は間抜けな声を上げてしまう.えっと・・・中に上がっていい,ということなの・・・かな?
「・・・用があって来たのでしょ?」
綾波はそう言うと,ドアから手を放して僕に背を向けてさっさと中に入ってしまう.手による支えを失ったドアが自然に閉じ始める.
「う,うん.そう・・・なんだけど・・・」
閉まりつつあったドアを手で慌てて支えながら,僕は綾波の後に続いていった.
− * −
「・・・これ,学校のプリント.先生に頼まれて」
「・・・・・・・」
部屋に入った僕は,鞄を下に降ろして預かったプリントを中から取り出して綾波に手渡す.綾波は黙ってそれを受け取ると,特にそれの中身を見ることもなく腰掛けていたベッドの傍らに置いた.
「・・・あ,あのっ,綾波の部屋に行ったら,インターフォンが壊れてて,呼んでも出てくる様子が無くて,
ドアに手を掛けたらまた鍵が掛かってなくて,こ,この前みたいなことも無さそうで,どうしようと思っていたら,
綾波が戻ってきたのに気がつかなくて・・・・・」
「・・・・・・・」
「あのっ,ホントに何もしてないから・・・」
それから僕は,座っている綾波の正面に立ったままさっきの状況の弁明を始める・・・また,変な誤解をされたくなかったから.「この前」と言った所で,顔に熱が集まるのを感じる・・・せめてドアノブから手を放していたなら,こんなに焦らなくて済んだのに.
「・・・・・・・」
「綾波がちょっと留守してた間に来てしまったみたいで・・・ホント,間が悪いよね?」
綾波の顔色を伺うように,僕は言い訳を続ける.僕の言うことを,綾波は信じてくれるだろうか?
「・・・・・・・」
「もうちょっと早くここに着いていたら,ちゃんと会えたのに」
もう少し早くここに来てたら,あるいはもう少し遅く来れば,こんな妙な鉢合わせをしなかったのに.そう思っていた僕に対して,これまでずっと黙っていた綾波が予想外なことを言い出した.
「・・・会えなかったと思うけど」
「え?」
「・・・今ネルフから戻ってきたばかりだから」
「戻ってきたばかりって,鍵が・・・」
「・・・いつも掛けてないもの」
「・・・・・・・」
僕の思考が一瞬止まった.というのも,家に居る,あるいはちょっと出掛けるだけ,なら鍵を掛けないでいる,ということは考えられた(そういう場合でも,僕は鍵を掛ける性格だけど)んだけど,いつも鍵を掛けないなんて全く考えられなかったから.僕は信じられないといった顔で綾波に尋ねていた.
「いつも掛けてないって,どうして?」
「・・・どうしてって,何が?」
「何がって,普通,鍵を掛けない?」
「・・・鍵を掛けるように,とは言われてなかったもの」
「言われてなくても,空き巣とか,泥棒とか・・・に用心して掛けるものだと思うけど・・・」
「・・・空き巣とか,泥棒とかが,ここに来たことは無いわ」
「・・・そ,そういうのって,来たことがあるとか無いとかの問題じゃなくて,
来た時にはもう手遅れなんじゃないかと思うんだけど・・・」
「・・・・・・・」
「・・・それに泥棒が来ないにしても,鍵を開けっ放しだなんて不安にならない?
いつでも誰でも簡単に知らないうちにここへ入られるんだよ?」
「・・・碇君のように?」
「う・・・ご,ごめん.あの時のことは忘れて,と言って忘れられるものじゃないと思うけど・・・
あの時のことは・・・ホント,ごめん・・・」
泥棒じゃないけど,黙って上がったのって・・・僕のことじゃないか・・・やましいことの無いことを分かってもらうつもりが,話してるうちにあの時のことを蒸し返しちゃった.これじゃ,ますます泥沼だよ・・・・・
− * −
「(あぅ)・・・と,とにかく,そういうこともあるから,戸締まりはした方がいいと思う・・・よ」
自分のことを引き合いにするつもりは無かったのに,また余計なことを言ってしまったと思いながら,シンジは言葉を続けた.頬に赤みが差し,困惑とも後悔ともつかない表情になりながら.
「・・・そう」
「うん・・・」
気の無い返事がレイから返ってくる.彼女の喋り方は万事この調子なので,今しがたのシンジの言動をどう思ったのかは窺い知れない.レイの前に突っ立っていたシンジは力無くうなずくばかりであった.
「・・・ここんとこ休んでたけど,ずっとネルフに行ってたの?」
「・・・ええ.零号機の再起動実験があったから」
すっかり凹んでしまった気をどうにか取り直して,シンジはレイに問い掛ける.一刻も早くあの話題から離れたかったのと,レイが部屋に居なかったことへの関心が,彼にそうさせていた.
「泊まり込みで?」
「・・・ええ」
「そうだったんだ・・・大変だったね.明日は,学校に出られるの?」
浅間山の戦闘で損傷した初号機・弐号機の修復と共に,零号機の再調整作業が連日ネルフ本部でが行われていた.外的損傷の二機に対して,内部的な問題を抱えていた零号機の作業には,専属パイロットの搭乗をも必要としていた.
「・・・ええ」
「良かった」
レイの返答は相変わらず素っ気無かったが,シンジの表情から緊張が抜け,ほっとしたような感じになる.そんなシンジの一部始終を,レイは表情を変えることなく見続けていた.
「・・・・・・・」
「そ,それじゃ,また明日.ゆっくり休んで・・・」
用件が済んで,また話す話題も無くなったシンジは,これ以上話の続けようも無かったので,レイに別れを告げて部屋の出口の方に足を向ける.
(コンッ)
下に置いた自分の鞄を手に取って帰ろうと踏み出したシンジの足が,灰色の事務用椅子・・・レイの部屋にある数少ない家具の一つ・・・に当たった.その弾みで,車輪付きの椅子が台座の上に置かれていたレイの鞄と共にタイルの床を滑り出す.
「あ・・・」
シンジが声を上げる間もなく,微妙な力加減で加わったその椅子はすすっと滑って,冷蔵庫脇のゴミ箱代わりのダンボール箱に当たる・・・その衝撃で,レイの鞄が箱の中へと落ちていった.
− * −
「ご,ごめんっ」
目の前で起きた出来事に,シンジの顔から血の気がさーっと引いて行く.思いっきり動揺しながら,またとんでもないことをしてしまったと思いながら,シンジは手にしていた鞄を下に取り落としてダンボール箱のある方へと動いた.取り落とした衝撃で,シンジの鞄の中身が跳ねる.
『あわわ・・・』
不運は重なるもので,ゴミ箱代わりのダンボール箱にはしっかり中身が入っていた.前に訪ねた時にも入っていた血のこびり付いた包帯.それに加えて,花束.・・・カラカラに干乾びていたので,それらが鞄にべたっと付くという事態は回避されたが.
『どうしてこうなるんだろう・・・いつも』
ロクでもないことが立て続けに起こるツキの無い自分の運勢を恨めしく思いながら,シンジはダンボール箱の中からレイの鞄を取り出す.それから汚れが付いてないかを見るため,鞄を縦にしたり横にしたりしてみる.
「ごめん,わざとじゃ・・・」
鞄に汚れが付いてないことを確認すると,シンジは謝罪の言葉と共にレイの方に向き直ろうとしたが,途中でその動きが止まる.
「・・・・・・・」
ベッドに座っていたと思っていたレイが,気配も無くいつの間にかシンジの側に来ていた.
「わざとじゃないんだ・・・ごめん」
そう言いながら,シンジは鞄をレイに差し出す.レイは無造作にそれを受け取ると両腕にぎゅっと抱え,シンジの顔をじっと見た.
「あ・・・汚れが付いてないか,見ただけだから.他には,何もしてないよ」
「・・・そう」
「うん・・・」
「・・・・・・・」
警戒してるかのようにも見えたレイのその仕草に,シンジは今しがたの行為をフォローする言葉を言い足す.人の物を勝手に触って失敗した経験が,彼の過去にはあった.そして,その過去の経験と,必要以上に他人の顔色を伺ってしまう性格が,彼に次の言葉を続けさせた.
「あの・・・あの時は,ごめん・・・綾波の物,勝手に触ったりして」
「・・・何のこと?」
「父さんの眼鏡」
「・・・・・・・」
シンジの言葉に,レイの紅い瞳が僅かに揺らぐ.それから,彼女は背後にある引き出しの上・・・熱で変形した眼鏡・・・にちらっと視線を向けた.
「・・・あれって,零号機の事故の時のものなの?」
「・・・・・(こく)」
シンジの問いに,レイは少し間を置いてからうなずく.レイの引き出しの上に置かれた眼鏡・・・それは,零号機の暴走事故の時にゲンドウがレイを救助した際に彼が落としたものをレイが拾って取っておいたものだった.
「そうだったんだ・・・やっぱり・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・綾波にとって,それは・・・大事な物なの?」
うなずくレイに,シンジは独り言のように呟いた.数十秒の間の後,シンジは言葉を区切るようにしてレイに問い掛ける・・・改めて確認するかのように.
「・・・・・ええ」
「そう・・・ごめん・・・」
これもまたいつもよりも少し長い間があってから,レイはシンジの問い掛けに答える.レイの返答に,シンジは何か息苦しさが混じったような口調で謝った.
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
それから,再び沈黙がその場を支配する.気まずそうな雰囲気の中,シンジはだらっと下げた右手を落ち着き無さげに握ったり開いたりしていた.
「綾波」
「・・・何?」
「父さんって・・・どんな人?」
シンジのその右手の動きが止まった時,再び沈黙が破られた.
2000.09.10 Ver.1.00
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