− A.D.202X年 6月某日 −
梅雨の合間の初夏の強い陽射しが照りつける平日の午後,今の時代においては少し古風な作りの家の縁側に一人の若い男性が目を瞑って庭に向けて座っていた.年の頃は24か5くらい,ぼっちゃん風に黒い髪をおろしたその姿は顔立ちのあどけなさもあって彼を年よりも幼げに見せている.夏だというのに白のさらっとした布を肩からすっぽりと被っていて暑苦しそうだ.実際,頬のあたりに汗が流れている.だが,彼は暑さに不平を言うことも無くただじっと座っていた.
というのも,今の彼は櫛で髪を梳かれ鋏を当てられているからだ.櫛と鋏を持つその手は男性のそれと異なって細くてたおやか,後ろに立って彼の髪を散髪しているのは光の加減で空色に見える短めの髪と透き通った紅い瞳が印象的な若い女性だった.白の半袖のブラウスに紺のスカートの上にクリーム色のエプロンをまとった小柄で華奢な体躯のその女性は手慣れた感じで彼の髪を捌く.縁側にはさみのかち合う音が響いていた.
「ねえ…シンジさん.」
「なに?レイ?」
髪を捌く手を止めて女性がその男性にそっと声を掛ける.声を掛けられてシンジ・・・碇シンジは瞑っていた目を見開き庭の方を見たまま穏やかな声で彼女に応えた.
「やっぱり暑くない?中に移る?」
「・・・大丈夫だよ.レイ.それよりレイの方こそ汗を拭いたら?」
「うん…そうする.」
陽射しの強さにレイはじっと暑苦しい姿で座るシンジを気遣う.初夏の空気に少しばかり暑苦しさを感じていたシンジだったが妻の気遣いにちょっとだけ事実と異なることを告げた.シンジの言葉にレイはエプロンのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭う.それからレイはシンジの前に出てシンジの顔を流れる汗を拭き取った.
「あ,ありがとう.」
「…どういたしまして.」
レイの整った顔を目の前にしてシンジは何となく照れくささを感じて夫と妻の間柄にも関わらず頬を紅潮させる.そんなシンジにレイは目を細めて微笑みながら言葉を返した.それからまた,レイはシンジの髪を切り落としていく.
「(クスッ)」
「どうしたの?」
しばらくの間シンジの髪を切り落としていたレイだったが,何を思い出したのか突然クスッと笑いを漏らす.レイの思い出し笑いにシンジは目をぱちくりさせた.
「…こうしてシンジさんの髪を散髪していると子供の頃のあの時のことを思い出しちゃって.」
「あ…あの時のこと・・・」
シンジに問われて,レイは昔のことを思い出したと語る.レイの答えにシンジは得心する.この二人には,子供の頃に共有した忘れることのできない思い出があった.
− さかのぼること十数年前 −
(カラーン コローン)
表に “碇 理髪店” と書かれた扉が開いて,扉に付いている鐘が来客を告げる.開いた扉から,空色の髪のおかっぱ頭の女の子がてくてくと入ってきた.年の頃は小学校二・三年生ぐらいといったところだろうか.女の子の傍らにはゴーグル状のサングラスをつけたペンギン・・・普通の皇帝ペンギンとはちょっと変わった風貌のペンギンがついてきていた.
「いらっしゃーい.あら?レイちゃん.」
白の床屋の制服姿に身を包んだ若い女性が訪問者に気が付き手を休めて声を掛ける.この小さな訪問者と店の人とは知り合いのようだ.茶色系統地の細かい模様のワンピースを着た小さな女の子の名は綾波レイ,レイに声を掛けた女性の名は碇ユイでこの店の実質的なオーナーだった.
「こんにちは…」
「はい.こんにちは.ペンペンも一緒なんだ…こんにちは,ペンペン.」
「クエーッ」
レイはユイを見上げて挨拶をする.ユイもまたレイ,そして連れのペンギンにも挨拶を返す.ユイに挨拶されたペンペンは一声鳴いた.
「…シンちゃんいますか?」
レイはユイに“シンちゃん”の所在を尋ねる.“シンちゃん”とはユイの息子でフルネームを碇シンジ,レイとは近所同士で幼稚園以来の仲良しだった.
「いるわよ.・・・シンちゃーん,レイちゃんが遊びに来たわよ.」
「えーっ?レイちゃんが!?はーい!」
レイに尋ねられてユイは大きな声で息子を呼ぶ.母親に呼ばれてシンジは元気に返事をする.仲良しの訪問にシンジは嬉しそうだ.
「こんにちは!レイちゃん.」
「…こんにちは.シンちゃん.」
店の奥から帽子を後ろ向きに被ったレイと同い年の黒髪の男の子が出てくる.長袖の紫のアンダーにフード付きの水色のシャツ,黒の半ズボン姿のシンジはレイに挨拶した.レイもシンジに挨拶を返す.
「二人共,奥で遊んでらっしゃい.レイちゃん,ゆーっくりしてていいからね.」
「はーい.」
「…はい.」
「行こっ.レイちゃん,ペンペン.」
「うん…」
「クエッ」
「・・・お待たせしました.」
「いいえ.いつも仲が良くていいですわね.」
「ええ・・・そうですね.」
ユイは子供二人に奥・・・碇家の居住領域で遊ぶよう指示する.レイとシンジとペンペン,二人と一羽がが店の奥の扉から出ていくとユイは手を休めて中断していた仕事に戻った.
「レイちゃん,今日は何して遊ぼうか?」
「うんとね・・・TVゲーム.」
「じゃ,この前買ってもらった『エヴァン★プリンセス』やろーよ.」
「うん!」
家の中でシンジとレイが何して遊ぼうか話し合う.レイの希望で二人はTVゲームで遊ぶことにした.『エヴァン★プリンセス』とは,デフォルメされた可愛らしいキャラクターが沢山登場する多人数プレイ可能なファンタジックマジックアクションゲームで小さい子供達とマニア層(笑)に人気のソフトだった.
「ぼく,ミサちゃん.」
「わたし,りっちゃん.」
「・・・・・クエッ」
シンジとレイ,それぞれお気に入りのキャラクターを選んでゲームをスタートする.ペンペンはペンギンだからゲームをプレイをすることは無い.ペンペンは二人がコントローラーを握ってプレイする傍らで部屋の中をうろうろ歩き廻っていた.
「あ.お母さんだ.何だろう?」
「さあ?…ペンペン.」
「クエッ」
それからしばらくの間二人はゲームに興じていたが,最終面を前にゲームオーバーになっていた.そこへ二人を呼ぶユイの声が飛び込んでくる.シンジはTVゲームの電源をOFFにして立ち上がる.レイはペンペンを呼んで傍らに引き寄せた.それから二人と一羽はユイのもとへどたどたと歩いていく.
「お母さん…どうしたの?」
「シンちゃん.お母さん,用事が出来たんで店閉めて出かけるから.夕方帰ってくるまで留守番お願いね.おやつはいつもの戸棚の中に.レイちゃんと仲良く半分こするのよ.」
「はーい.」
シンジ達が店の方に向かう途中,ユイと鉢合わす.ユイは理容師の服から“お出かけ”で着るようなやや改まった服装に着替えていた.ユイは詳しい事情をシンジに話すこと無く必要なことだけをシンジに話す.どうやら急用らしい.母の様子にシンジもあれこれ詮索すること無く素直に返事した.
「はい.それじゃ,行ってきまーす.留守番,お願いね.」
「いってらっしゃーい.」
「…いってらっしゃい.」
「クエーッ」
それからユイはいそいそと玄関に向かいシンジ達に出かけの挨拶をする.こういった状況に慣れているのかシンジ達はごくごく普通にユイを送り出した.二人と一羽に見送られてユイは出ていった.
「(もぐ もぐ)・・・シンちゃんのお母さんって,すごいよね.」
「(はぐ はぐ) えっ?どこが?」
「シンちゃんのお母さんって,はさみをちょきちょきと動かしてあっという間にかみをきれいにそろえるんだもの.まるでまほう使いさんみたい.」
「そうかな?」
おやつの饅頭を分け合いながら二人はユイのことについて話す.ユイのことを誉めるレイはシンジは首を傾げる.床屋の子供としてユイの仕事姿をずっと見てきたシンジにとってレイの言葉はちょっとピンと来なかった.
「…うん.そうだよ.シンちゃんのお母さんってすごい….」
「う…ん,ありがとう.レイちゃん.」
首を傾げたシンジにレイはもう一度ユイのことを誉める.母親のことを重ね重ねレイに誉められて,シンジはちょっとはにかむ様にして笑顔を浮かべた.
「・・・そういえばレイちゃん,かみ,ちょっと伸びてるね.」
「うん…そうだね.」
ユイのことが話題に出て,ふとシンジはレイの髪に気がつく.このあたりは床屋の息子といったところだろうか.シンジに指摘されてレイは前髪に手を当てうなずいた.
「あ.そうだ!ぼくがレイちゃんのかみを切ってあげる.」
「えっ?シンちゃんが?」
「うん!」
「シンちゃん,できるの?」
「できるよっ.ぼくだって床屋の子供なんだから.」
「やったこと・・・あるの?」
「うん・・・ちょっとだけ.お母さんのかみに,はさみ入れたことあるんだ.」
「そうなんだあ.」
それからシンジがはたと思い付きを口にする.シンジの思い付きにレイがちょっと驚いた顔をした.レイの問いにシンジはほんのちょっとだけ自慢げに答えていた.
「でも一人でやるのは初めてなんだ.」
「それじゃ,わたしがシンちゃんのさいしょの “お客さん”?」
「そうなるね.」
「・・・・・わたしのかみ,きってくれる? シンちゃん.」
シンジは“一人で”髪を切るのは初めてだと告白する.普通そんな告白をされたら引いてしまうものなのだがレイの反応はちょっと違ったようだ.レイは嬉しげな顔をしてシンジに髪を切ってもらうよう依頼した.
「うん.レイちゃん.お店の方に行こっ.」
「うん!ペンペン.」
「クエッ」
レイの嬉しげな顔をどういう意味で受け取ったか分からないが,シンジはレイの反応に気を良くしてレイを店の方にいざなう.レイは元気に返事をするとペンペンを手元に呼ぶ.このペンギンはレイの大のお気に入りで学校の時以外はいつも連れ歩いていた.
「うんしょっと.まずは,はさみにくし,きり吹きにかみの毛が付かないようにカバーと・・・」
シンジはレイを小さめでひじ掛けのついたパイプ椅子に座らせると,クローゼットから店の商売道具を一つ一つワゴンに乗せていく.レイはペンペンを膝の上に乗せてシンジの用意を待っていた.
「・・・それじゃ,始めるよ.さいしょ,冷たいけどがまんしてね.」
「…うん.」
シンジは持ってきたカバーをレイの肩口からすっぽりと被せて服に髪が付かないようにする.それからペンペンをレイの膝の上に乗せたままでシンジは霧吹きを手に取った.霧吹きは髪を濡らして櫛の通りを良くするために使うものだ.シンジの開始の言葉にレイはうなずいた.
(すぅーっ すーっ)
霧吹きによって濡れたレイの髪を梳くシンジの左手の櫛は滑らかに後ろに流れる.空色のレイの髪は艶やかでさらさらとしていて触感の良いものだった.ユイもレイの髪について「奇麗でいい髪質」と誉めていた.もっとも今のシンジは結構真剣な表情でその感触を楽しんでいるようには見えなかった.
(ちょき ちょき ちょき)
シンジは櫛を当てがって長さを測りながらレイの髪にはさみを入れていた.元が器用なのか,それともユイの仕事を良く見ていたのかシンジの髪を捌く手つきは結構堂に入っている.レイは仰向けになってその紅い瞳をぼんやりと天井に向けながらシンジのなすがままになっていた.
(ちょき ちょき ・・・ ぱた ぱた ・・・ すぅーっ)
『ちょっと曲がってる・・・』
(すぅーっ)
一通り前髪を切り終えて,シンジは切り落としたレイの髪を払って出来上がりを見る.それは7・8歳児にしては上出来のものだったが,シンジは髪のバランスが少し崩れているのを見つけまた髪を後ろに梳きなおす.
(ちょき ちょき)
(ぱた ぱた)
(すぅーっ)
(ちょき ちょき)
(ぱた ぱた)
(すぅーっ)
(ちょき ちょき)
(ぱた ぱた)
(すぅーっ)
レイの髪を切っては払い落し,出来上がりを見ては不揃いが気になってまた髪を梳きなおす・・・という過程が何度か繰り返された.素人の仕事なのだから適当なところで妥協すれば良いのだが,根が几帳面なシンジにはそれができなかった.そしてその繰り返しの果てに・・・・・
泣きべそ状態のシンジと彼を慰めるレイとペンペンの姿があった.レイの前髪はすっかり切り落とされておでこ丸見えの状態になっている.そう,シンジは生え揃いを気にする余りに前髪を切り落とし過ぎたのだった.今のレイを見たら恐らく10人中9人が笑い噛み殺すのに必死になるだろう.そして,事の重大さに気が付いたシンジが大泣きに泣いてレイに謝っているというわけである.その光景は,用事を終えたユイが家に戻ってきて事の次第を目の当たりにして目を丸くするまで続いた.
− 再び A.D.202X年 6月某日 −
「・・・あの時,大泣きだった僕をレイが慰めてくれて.本当はレイの方が泣きたかったはずなのに.」
「あの時はシンジさんの方が凄く大泣きしちゃったんでかえって落ち着いてしまって・・・それにあの頃は今ほど自分の髪型を気にしてなかったし.」
「あの後,母さんに凄い剣幕で怒られてまた大泣きして・・・そこに今度はレイが泣いて僕をかばってくれて.」
「それから,お義母さんが私の髪を何とか見られるように整えてくれて・・・」
「母さんと二人でレイの両親に謝りに行って・・・」
「・・・髪が元に戻るまで私の床屋代,タダにしてくれて.」
「その後も何か事ある度に『・・・あの時は夏休み中だったからまだ良かったけど・・・あの事件は私の床屋人生の中でも5本の指に入る難題だったわ・・・(ぶつぶつ)』 と言われて・・・あの時以来,母さんは僕にレイの髪をいじらせようとしなかったもんなあ・・・理容師の資格を持ってる今でも.」
「・・・そうね.」
シンジとレイ,若い夫婦二人して昔のほんのちょびっとだけ苦い思い出話に花を咲かせる.幼なじみだった二人はそれから成長後,共に理容師の資格を取って,初恋を実らせて結婚して・・・今ではそれぞれ外の理容店で働いていた.いずれはユイの店に戻ることになるかもしれない.今日は二人共,勤め先が休業日でレイがシンジの髪を切っていたというわけである.
「・・・そう言えば,私が理容師の資格を取った時にお義母さん,『一回だけならシンちゃんのこと,思いっきり虎刈りにしていいわよ.』 とも言ってたわね.」
「え?」
思い出話の中でレイはユイの昔の発言を思い出す.今,髪を切られている立場のシンジとしては何とも心臓に悪い話であった.驚いて後ろを振り返ったシンジにレイは微笑んだ.それからレイはシンジに言葉を紡ぐ.
「安心して.虎刈りになんかしないから.」
「・・・お手柔らかにお願いします.」
「(クスッ)…散髪,続けるわね.」
「うん.」
レイの言葉にシンジは神妙な表情で“お願い”をする.そんなシンジにレイはもう一度微笑むと散髪の続きを始めた.シンジは穏やかな表情で目を瞑って事をレイに任せる.
「…できたわ.洗髪は自分でやってね.」
「うん.ありがとう.」
「どういたしまして.」
それからしばらくしてシンジの散髪が終わった.レイは鋏と櫛を傍らの箱に置くとブラシでシンジの髪の毛を払い落とす.ほうきとちりとりでシンジの髪の毛を集め終えるとレイはちょっと甘えるような声でシンジに話し掛けた.
「・・・ねえ…私の髪,散髪してくれない? “シンちゃん”.」
「えっ・・・いいの?」
「うん.」
久し振りの昔の呼び方と突然のレイの“お願い”にシンジは驚く.レイの“お願い”の内容にシンジは思わず聞き返してしまう.シンジの問いかけに対してレイは静かにそしてはっきりとうなずいた.
「・・・それじゃ中に移ろうか?」
「ううん…いい.ここでして.」
「・・・うん.わかった.」
初夏の陽射しの強さにシンジはレイに空調の効いた店内に移るか尋ねる.それに対してレイはここでいいと答えた.うなずくシンジ.レイは今ここにある雰囲気を今しばらく感じていたかった.レイが持ってきた理髪道具を今度はシンジが手にする.
「今日は・・・失敗しないからね・・・」
「…肩の力を抜いて・・・シンジさん.」
櫛と鋏を手にしたシンジは真剣な面持ちになる.力入れ過ぎのシンジにレイは何とも言いようのない複雑な笑みを浮かべながら彼の“力み”を牽制した.
「シンジさん・・・」
「なに?レイ.」
「何でもない・・・」
「うん・・・」
目を瞑ってレイはシンジの手による散髪を受ける.十数年振りのシンジの手による髪を梳かれ鋏を入れられる感触に,リズム良くかち合う鋏の音に,レイは心地良い感覚を覚えていた.思い返せば自分はあの時から男の子と女の子を意識し始めたのかもしれない.シンジの鋏を受けている間ずっと,レイは幼かったあの頃の日々を少しばかり振り返っていた.
(fin)