LOS DEMAS


6月29日 〜 一期一会 〜

「85歳にしてついにスキーを辞めました・・・」

先日、9年前のある夜偶然出会った老紳士と彼の奥様からのお手紙が届いた。
ご夫妻は新年が明けるとスペイン南部の町グラナダに移り、
夏までを暑い暑いグラナダで過ごされて、
8月には北関東のとある町に戻られお正月までを過ごすという老後?の生活を
ずっと送っていらっしゃる。

ご職業であるとか、他のご家族の事であるとか、
諸々のプライベートについてはあまり伺ったことがなく、
実際にお会いしたのは、9年前の今時分、6月末のある素晴らしいコンサートの宵と
その後、旅の途上にあった私をご自宅に招いて下さった、ある暑い日の2度だけである。

・・・
人の出逢いとは本当に不思議なもので、ほんの会釈を交わしただけでも
忘れられないものとなったり、長きに渡るお付き合いの発端となることがある。

むろん逆も、ある。
友情が壊れることも、
心通じ合いながら、連絡の行き違いから消息知れずとなることも。

これは自然や神の為せる業か、またはそれぞれの心を映すものであるか、
私はそのどちらもが作用するのであると思うのであるが。
・・・

長年続けていらした、まさに人生の一部であるスキーをやむを得ず勇退されたことは
さぞかし寂しいお気持ちでいらっしゃるであろうと心が痛んだが、
お元気で、相変わらず素敵なご夫妻であることに憧れを感じつつ
早速返信のお便りをした。


人には誰しも、それが他人に見えても見えていなくとも、
楽しさや幸福感だけではなく
抱えている悲しみや、辛い時を耐えてきた経験があることであろう。
長い人生となれば、長いほどに、それら全てが幾重にも層を成している。


高齢化社会が叫ばれているが、
ご年配の方々が元気に素敵に生きていらっしゃることは
何より私達に、社会に、大いなる希望を与えてくれる。


グラナダか、はたまた北関東のとある町か、
温かなお言葉を受けて、いつの日かまた訪ねてみたい。


4月12日 〜 おもいでのひめりんご 〜

今年も咲きました。
美しく可憐、しかも元気なひめりんごの花

この姫りんごの木と出会ったのは
私が小学校を卒業する時でした。
一緒に登校していた友達と共に
卒業の記念にと通学路の思い出であるひめりんごの
盆栽ほどの小さな鉢植えの木を買いました。

それから毎年毎年、私が他の町に住んでいた数年間もずっと
この時期には花を咲かせ続けてくれています。

20cmほどだった彼女は、何年も経って見事に大きくなりました。
今は私の背丈を優に越えるほど。
そして毎年毎年変わらぬ可憐な花をつけ
文句を言う訳でも何かを欲しがるわけでもフテクサレルことも
風邪を引いて寝込んでしまうこともなく
いつでもずっと黙々とその場所で成長しつづけています。

かまってあげたこともなく、
そればかりか膨らんだ蕾に気付くことや
時にはその花の美しさを愛でることも
家族に「ほら!」と教えてもらうまでしなかった年もありました。

人間であれば考えられないような苛酷な条件の中
細くしなやかなその体は見事な強靭さと生命力を備えています。
そして多分精神力さえも。

人の世の無常を私たちが強く感じるのは
深い山や踊る河、果てない海から
精霊の住む森、魂を宿した大木
そして一緒に暮らしている身近な木々や草花といった
不動の存在感に包まれているからでしょうか。

人間がどうしてもかなわぬものを植物はたくさんもっています。

目に見えて、みるみると、生命力が踊り出す季節になりました。
うつくしきものたちよ、万歳!


*通学途中の道に大きな大きな姫りんごの木のあるお宅がありました。
 庭に実ったその小さくて渋めの味のする姫りんごを
 ちょっと頂戴してはかじりながら家路についておりました。
 (すみません、ずっと秘密にしていました。ごめんなさい。)
 片道3kmという、子供にしては結構な距離を歩いて帰ってくる
 小学生の私たちの喉を潤してくれたその味は
 ちょっとした未知を感じさせてくれるものでした。
 子供の頃に口にした渋味のものは、グミなどもそうですが
 どうしてか、なんだか忘れられないドキドキの味覚なのです。


1月27日 〜 星の王子様 〜

本棚で光を発していたので2,3年振りに手にとって読んでみました。

初めて出会ったはるか昔より、

年を経る毎に心に染みるようになってきます。

少しずつでも自分が成長しているということなのかな?

もしもそうだったら嬉しいな。


この世で一番大切なものは、

・・・もしかしたら、その世でもあの世でもかもしれませんが・・・

本当にシンプルで、

実は壊れやすくて、

しかし誰しもが手に入れることのできる

心の中に灯っているもの。



*初めて読んだのがいつなのか覚えていないのですが、
 翻訳本(日本語)の対象が小学6年、中学以上となっていたので
 多分中学生の頃だったのだと思います。
 この本を何度目かに読んだ10代の頃からずっと
 サハラ砂漠に行ってみたい。
 サハラ砂漠に行ったら日がな一日歩いて、それから星を眺めて・・・
 という思いを抱いていました。(いつかは叶えるぞ!)

 ちなみに、“象をこなしているうわばみ”は
 私には“ノビちゃったラクダ”に見えましたし、
 今でもそう見えてしまいます。
 どなたかそんな方はいらっしゃいませんかね?


8月28日 〜 哲 〜


友人が、半年程前のあるテレビ番組を録画したビデオテープを貸してくれた。
そこに映っていたのは、私と全くもって正反対の人だった。

語り口調は穏やか、喋りに言葉巧みさや機転はないが、一番大事な心がある。
奇をてらわず、流されず、虚飾はなく、淡々。
強い意志と情熱、信じたことを実行する行動力、
最大の目的の為には、自らが選んだ手段の変更を厭わない、その柔軟性。

使命を持って道を歩みつづける人間というのは、
感謝の念 と 無私 と 自己の存在意義
が三つ巴にバランスよく保たれている。
・・・と思う。

そして、それはたくさんの人々に支えられて初めて形になる。


どうやって生きていくかはその人自身が決めること。
同時に全ての人間は自分の生と命(めい)を負う責任がある。
生まれたての赤ん坊にも、死の床にある老人にも。
それはどこに生まれようと、どこに生きようとも、どこに死すると関係なく。



*その人をよく知ろうとするきっかけとなったのは、
 やはりその友人でした。友よ、ありがとう!

 流れの速さも量も莫大かつ混沌のこの現代社会の中で、
 友人達の経験や体験、感じ方や考え方、アンテナは、
 そのかけがえのない媒体を通じて、私自身の骨の素にもなっています。


2月8日 〜 心に留めたい言葉 〜

「あなたのフィリピンに対する愛が足りないからだ。
 今住んでいるフィリピンへの感謝の気持ちがあれば、
 フィリピン人は決してだましたりしない」

フィリピン人にだまされたとののしっている来比間もない日本の青年への言葉



「あなたを可哀相だという人はあなたの敵です。
 可哀相でない人になりなさい。」

養女として迎えた右腕にハンディキャップを持った少女への言葉


*前者は、フィリピンに十代の頃から渡り住み、90才を超えて先日なくなった
 日本人の方の言葉だそうだ。最近何かのニュースで目にした。
 現実がこの言葉通りであるかは別として、この言葉に真実と誠実さを感じた。
 その位の気持ちを持っていないと、異国の地で生きていく資格はない。

 後者は、先日バラエティー番組で紹介されていた、1960年代に欧州を旅し、
 イタリアの富豪令嬢と恋に落ち国際結婚をした日本人男性の言葉。
 彼ら夫婦は開かれた家族を創ろうと、国籍性別を問わず、自分達の実子4人以外に
 子供達と相談しながら3人の養子、1人の里子の計8人を育てた方々。
 何人目かの養子となる少女が右腕にハンディキャップを持っており、その子に対し
 上のような言葉で、強くなるよう厳しく育てたという。
 弱者を救うことはとても大切であるが、チャンスを与え、自分の力で物事を
 解決していける力を育ててあげることは更に尊いものであると思った。

 心に響く言葉を受け取った時、心が動き、やる気が起こる。


11月23日 〜 言葉 〜

言葉は、コミュニケーションの為の道具の一つ。
外国語を勉強する時いつもそう思っていた。



が、いと美しき言葉に触れる度に、
言葉はやはり文化であり、ロマンでもあると思うようになった。

初めて私にそう思わせた外国の言葉は、
"Dar a luz" (ダール ア ルス)というスペイン語。
      Dar=与える、あげる
       a=〜へ、〜に
      luz=光
というそれぞれの単語が連なり、その結果”生む”という意となる。

この世に生を与える行為を”光を与える”と表すことに
何と美しい表現なのだろう!と目から鱗のおぼえあり。


他にも偶然知ったインドネシアの言葉で大好きなものがある。
”マッカン アンギン”

旅をするという意味であるらしいが、直訳すると
”風を食べる”

「風を食らうが如く旅をする」なんて、なんと自由で素敵なんだ!
  

そういった言葉達に出会った時の悦びはまるで光を発見したかのような感じ。
ロマンを感じさせる言葉を紡いだ人々は世界に無数にいるのだろう。



それぞれの言葉が生きている、生かされている文化に溶け込む。
言葉を学ぶということは、その第一歩だと今は思っている。


9月25日 〜 自叙伝 〜

レイナルド・アレナスの自伝”Antes que anochezca”(=夜になる前に)を読んだ。
彼はキューバに生まれ、独裁政権のもと、弾圧と、次々と自由の失われていく環境の中で生き、
自由を求めて亡命し、HIVを始めとする様々な病に蝕まれ、1990年代前半にニューヨークにて
故郷の自由を切望しつつ自ら命を絶った人である。

同性愛者であり、その描写があまりに”生き生きと”したものであるため、私は始めなかなか
馴染むことができなかった。
読み進めて行くうちに彼のその淡々とした経験録の中に本質や考え方、私が今まで知り得なかった
キューバの人達の暮らしぶりが見て取れ、次第にのめり込んでいった。

1998年末から1999年始にかけて、私はキューバを訪れた。
2週間の滞在で、宿泊はホテル・イングラテーラ2泊以外は81歳のおばあさんの住む家の一部屋を
間借りしてのものだった。
彼女はおそらくドイツ系の姓を持った人であり、彼女のお父様はキューバ革命の後、祖国に留まるか
アメリカ合衆国に移住するかを子供たち(彼女達)に問い、祖国に残った人であったそうだ。
私が当時全く日本から直行便が出ていず、アメリカからの便もない不便なキューバを訪ねたのは、
数年前にキューバ革命の戦士”エルネスト・チェ・ゲバラ”(アルゼンチン出身)の遺骨が
ボリビアで発見されたというニュースに端を発し、彼の旅行記や彼の生涯について書かれたものを
数冊読んですっかり”チェ”の虜になったからだ。
以前からサルサ、ソンなどの音楽やダンスが大好きで、極自然な旅先だった。

米西海岸からメキシコシティに入り4日程過ごし、翌日ハバナに発つ、という夜に日本から遅れて
到着した親友と合流した。
ものすごい大気汚染のメキシコシティーから、抜けるような青い空の広がる首都ハバナまでは
1時間と少しのフライトだった。

アレナスの著に話しを戻そう。

彼のこの自伝で私が一番衝撃を受けたのは、私の知っていたキューバ革命期及び革命後から
現在までのこの国と、実際にそこに生き、表現の自由を奪われていた彼の語るキューバがあまりにも
極端に相違していたからだ。物事を一方の視点だけで判断するということは非常に危険な事であると
頭では理解していたつもりであったが、私は今まで真実の別の顔を知らずにいたのだ。
むろん、これを読んだからとてアレナスの考えが全て正しいものだとは思わない。
それぞれに発展していくなかでのある種の犠牲が国を維持していくのに払われることはよくある事だ。
しかし、人間が人間らしく生きる。言い換えれば必要な食糧が充足しており、思想と表現の自由があり
あるレベルの平等の中に人々が暮らしていける社会を近代国家はつくりあげなければならない。

彼は、”よりよく生きる””一人の人間として妥協することなく自分自身を創造する”
ということに大いなる価値をおいていた、不自由な国にあっても志を高く持った崇高な人物
であったといえる。そして、それゆえに彼は祖国において生きにくい道を選ばざるを得なかった。
とにかくどんな状況下にあろうとも自分らしく生きることの大切さを彼から教わった気がする。
柔軟に、世相を読んで、要領よく生きることが賢い、というような風潮のこの世の中にあって、
体制に逆らってまで自分というものを認識するような時代でないぬるま湯の中につかっている私達の
現状の外では、まだまだそういう状況下に身を置く人々がたくさん存在していることを忘れないでいよう
と強く思った。
キューバは私にとって更に興味深い国になった。

!誰もが故郷に自分の本当の姿を見出そうと夢みている!
映画化されこの9月下旬よりミニシアターで上映されます。私は映画は見ていませんが、
興味を持たれた方、こちらをどうぞ↓

http://www.asmik-ace.com/Bnf/


8月16日 〜 知る、権利と義務 〜

今年も靖国神社公式参拝の是否を問う議論が各所でなされた。
観光に訪れた神戸では、三宮で参拝賛成の署名を促す老婦人達を目にした。
近隣諸国の報道も毎度変る事のない論調。
大学時代、著名な歴史学者で私の通っていた大学の名誉教授に読まされた
「靖国神社」という著書でこの問題について初めて考えさせられた。
彼は、天皇制を真っ向から批判する、戦犯を天皇だと言い切る勢いの学者だった。

ここで、靖国神社についていろいろと論ずるつもりはない。
論ずるほどに詳しくはないという理由と、非常に敏感な問題であり、
また解釈もそれぞれであるためだ。正しい答えは私にはわからない。

ただ私見としていえるのは、現在の日本のような、一貫した政(まつりごと)のできない
外交下手な国はなるべくなら諸外国との間に波風を立てないよう配慮した方が賢明で
あろうという事だ。(日和見主義で情けないと思っている諸兄よ、お許しを)
中国や米国のように自国の論理でものごとを推し進める国と、我が日本は根本的に文化が違う。
誇りを持った外交を他の面で為し得ていない日本が、この部分において遮二無二自国の論理を
掲げる事は非常にリスキーだからだ。

さて、語ってしまってこんなことを書くのもおかしいが、私が今回テーマとしたかったことは、
靖国神社ではなく、実は教科書問題である。
これは、靖国神社以上に未来に関わることであり、早急な解決が必要であるからだ。

私達の世代は、中学でも高校でも歴史は明治時代で卒業を迎えた。
一番身近で大切な昭和がぽっかりぬけている。
今でこそインターネットでいくらでも情報を検索でき、いろいろな意見
(もちろん極論も、歪曲された思想も混ざっているが)に触れる事ができるが、
つい数年前まではこんな媒体は私達の机上に存在しなかった。

義務教育において、自分達の国(というより”世界”の方がよりよいか?)の
歴史を知るという事は大きな意味を持つ。
特に、生きていく上で自分達の近代史をよく知る事は非常に重要だ。

既知の通り、教科書は民間が自由に作成し、検閲を経て、それぞれの自治体の権限で採択される
システムがとられている。つくる会の教科書が採用されたことで、隣国からの圧力がかかっている。
圧力に対し、それに屈するであるとか、内政干渉だとつっぱねるであるとかそういった次元でなく
私達は真実を知る”権利”と”義務”をもっている。
隣国は義務であるというが、私はそれを知る”権利”だと考える。

世の中の、特に先進国で、間違いを犯した歴史を持たない国はごく少数であろう。
その間違いにしても、ある時代にある視点からすれば正当化される事もあり、
また別の時代に別の視点からすれば、許されない間違いでもある。
ただ、どの視点で見るか以上に大切な事は(ここでは政治学上でなく、ミクロで見た人間として、
またはマクロでみた全世界の資産として)何が起こり、どういう経過を辿り、
そしてどういった結果を生み出し、それによって失われたモノ得られたものが何であるかを
検証することである。あの戦争は○○的には正当だったといえる。ということではなく
あの戦争はどういう状況の中、どういう経緯を辿り、どういう結果をもたらしたか。という
真実を知ることである。
その次に、現在それをどう捕らえるかを考える機会を与え、もしも二度と同じ轍を踏むべき事で
ないとするならば、どのような手段で解決を図るのか、どのような手段でそれを防止すべきか
を共に考えることの大切さを教えるのが社会教育であり、私達が国際社会で(というよりも
この世界の中で)共存していくのに必要なことである。

富国強兵の風の下、自国の発展の為に他国への侵略を、前時代の欧米列強の植民地支配を
手本に、政治的戦略を立てその役において戦争を画策して行った人々、
ましてや一兵士として、国の為と信じ、空に海に地に散った人々、
その人々が悪者であるという、であるからして我々は先人の罪を償うべきであるといった
考え方ではなく、魔女狩りではなく、その事象についてそれが必然のようになってしまった
背景を踏まえた上で、事実を直視するべきである。学ぶべきである。

本来はもっと早い時期に着手すべきであったと思う。だが、今となっては出来る限り
早期に真実を客観的に記述した教科書採用を実施するのが、大人のこれは”義務”では
なかろうかと思う。教科書だけの問題ではない。現場の社会科の教師の質は大いに子供達の
理解や考える力を引き出すという成果を左右するであろう。
だからこそ、このやり甲斐ある仕事に是非真摯に取り組んで欲しいと願う。
この国のそういった姿勢が、国内外を問わずあらゆる立場の良識ある人々の不安を払拭し、
尊厳を保ち、希望を生むのではないだろうか。

否定的な、後ろ向きな懺悔でなく、よりよい未来を切り拓いてゆくために私達には知る権利がある。
そして、それを踏まえた上で、未だ前時代の考え方が横行せざるを得ないナショナリズムの国と、
その国々を頭ごなしに批判するだけの、喉元の熱さを忘れた大国の温度差を埋め、
平和的解決の道へ導いていくことが、日本という国の存在意義を高める時代に今なりつつある。
その役割を果たす勇気と威厳と技量を持ったとき、私達は国際的に認められるようになるのだろう。
そして、それが何よりも戦禍に散った人々の命を供養することにも繋がるのではないだろうか。
私はそう考える。


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