PELICULA y TEATRO


3月22日 〜 10ミニッツ・オールダー 〜

この世で最も神秘的なるもの、それは“時間”かもしれない。

時間はそれに取り囲まれるモノ達の動静に関わらず
途切れることなく、絶え間なく流れている。
普遍的で絶対、されど実体は、常に、既に、そこになし。


小さな暗がりの空間で、10分間という時間の経過を何度も意識した。
アスリートでも3分クッキングのインストラクターでもない私は
そんなタームで何度となく時間を切り取ることには慣れていない。

10分間で表現できることは人それぞれで、それにも興味を覚えたが、
それ以上に
10分間で表現したいことの様々であることに、
発見と感動を以って唸らずにはいられなかった。

個性と才能を鍋に入れ、火に掛け、凝縮した結果のエキスが
スクリーンに映し出される。
15者15様の競演は、それらのどれもが溶け合わず、
かつ反目もせずの共存共栄。
ある意味、世の中かくあるべし!と。


*10ミニッツオールダー イデアの森 
 (原題:TEN MINUTES OLDER - THE CELLO - )

 10ミニッツオールダー 人生のメビウス
 (原題:TEN MINUTES OLDER - THE TRUMPET - )

 の2本を数週間前に観ました。
 原題があまりに素っ気無いのでこのような邦題になっているようですが、
 この手の作品“集”のタイトルに色をつけるのはいやはや冒険だな〜と思いました。
 (この邦題名にも惹かれて観にいったのではありますが・・・
  イデアの森なんて言われた日には迷い込んでみたくなるというものではありませんか!)
 チェロ、トランペットというそれぞれの原題は、
 一つの作品から次の作品へのつなぎ数十秒に流れる音楽に使われた楽器の名をつけて
 テーマを同じくするこれら2つの作品集を区別したにすぎないのです。

 チェロには、ベルナルド・ベルトルッチ/マイク・フィギス/イジー・メンツェル/イシュトヴァン・サボー/
       クレール・ドゥニ/フォルカー・シュレンドルフ/マイケル・ラドフォード/ジャン=リュック・ゴダール 
       以上8監督
 トランペットには、アキ・カウリスマキ/ビクトル・エリセ/ヴェルナー・ヘルツォーク/ジム・ジャームッシュ/
          ヴィム・ヴェンダース/スパイク・リー/チェン・カイコー 
          以上7監督

 何本かは、監督当てクイズ(そんなもの、ありませんでしたが)で私でも正解を
 出せそうな程、過去の作品達と一貫した味、色の出ているものがありましたが、
 「10分間で作品を作って下さい」という条件以外、なんの制約もリクエストもなく
 各監督に依頼された(すばらしく贅沢な企画の)映画であるそうです。

 私的な蛇足ですが、私はベルトルッチの寓話と、寡作なスペイン人監督ビクトル・エリセ
 (ミツバチのささやき、エル・スール、マルメロの陽光)の10分が
 チェロ、トランペットそれぞれの好みのベスト1でした。

 さて、あなたはどの10分が・・・?
 そしてあなたが監督であったなら、10分で何を表現しましょう?


9月15日 〜 北京バイオリン 〜

なんと興味を掻き立てられるタイトルである哉!
とっても素敵な作品でした。

近年、東アジア映画というと、欧米から見たところの異文化を強調しすぎた
「素朴、売り出します!」といった感が鼻についてしまう作品や
個人的に得意といえぬ前衛的な作品に当たっていただけに、
淡々とした、そして構成にはしっかりと近代的手法の用いられた
秀作に出会えて、とっても嬉しくなりました。

微妙な匙加減とでもいいましょうか、
私にとって好くか好かぬかの「映画の香り」はそれに凝縮されている気がします。
良し悪しでなくこれはきっと生理的な相性の問題。
本質でなく、「どこを見せるか、どこを見せぬか」はまさにセンス。
そのあたりの匙加減がぴったり心地よい作品はやはりスムースに心に入ってきます。


スクリーンいっぱいに展開される最近の中国の価値観の混沌
チャーミングなお父さんの笑顔
真っ直ぐであることの力強さ

才能豊かな愛すべき少年が奏でるバイオリンに心を傾けてみて下さい。


北京バイオリンofficial site →  http://www.cqn.co.jp/violin/


4月23日 〜 ノンフィクション と 超フィクション 〜

先週は、珍しくアメリカ映画づいた。


デヴィッド・リンチといえば・・・
世間的にはツインピークス??いやいや、エレファントマン???
私にとっては切り落とされた耳・・・そう、ブルーベルベット
ツインピークスを訪れたことはあるが、ツインピークスを観たことはない。
かなり“ハマル”シリーズらしく確かに一世を風靡したのを覚えてはいる。
私はハマルのがあまり好きではない。だからハマリソウなものに警戒をする癖がある。
何モノかに占拠、占領、支配されるのが多分たまらないからだ。

マルホランド・ドライヴ(Mulholland Drive)はハマル映画だった。
ハマル映画と知っていたなら多分足を運ばなかったのだが、知らなかった。
映画の始まりから最後のクレジットが終わり“betty”というパスワードが出てくるその瞬間まで
一貫して、懸命に理解しようと、観ながら感じながら頭を働かせていた。
あっという間に2時間半程の時間が経った。が、多分何が分かったのか分からなかった。
リンチが分からせないようにしているのだから、仕方ないではないか。

わけのわからぬ映画は、実は大学時代、貪るように観たものだったが、
それは投げっぱなし、放物線を描いた後、彼方に消えてあとはお好きに・・・といった類のそれで
リンチのように観るものをもブラックホールに引きずり込んでしまうものではなかった。
慣れぬ映画を観てしまった・・・不覚・・・?
なんと魅惑的な、テンポの良さと品と妙な色気を帯びた映画だったこと!

リンチのフィクションは超フィクションです。


マイケル・ムーアといえば・・・
気骨のあるジャーナリストなのだそうで。

ボーリング・フォー・コロンバイン(Bowling for Columbine)は純粋な探求の映画だった。
そうと知っていたから、足を運んだ。
映画館で上映されはしたが、これは映画ではない。
幼い頃から銃が身近であったアメリカ人たる彼の疑問(=Why?)
「なぜにアメリカ合衆国では銃により命を落とす人がこれほどまでに多いのか?」を
突き止めようと歩き、いろいろな場所、人をしつこく訪ねる様子を
これまたテンポよく追っていったフィルムなのである。

“銃社会アメリカに対する問題提起”と端的に言ってしまうと、
非常にしかめっ面な、口角の全く上がらぬ内容に思われるかもしれないが、
いやいや、ものすごく興味深く、ユーモアも現実的スリルと真摯も体験できる。
問題提起というよりは彼の中に生じた純粋なWhy?に
彼自身がBecause・・・を明かそうとする非常にシンプルな希求の映画である。

フィルム中に語られる、過激なロックアーティスト、マリリン・マンソンの言葉
「この国の政府、企業、マスメディアは、国民を恐怖と不安に駆り立てつづけることで、
 恐怖と消費の一大キャンペーンを創り出している。」が、非常に印象的だった。
私たちのNIPPONも未知の不安を過剰に煽る事で不安を増大させ不信を呼び
果てには刺し違えて滅びるという愚かしい道を歩まぬよう、もっと平常心でいかなくちゃ。

分かったことの多いノンフィクションフィルムだった。
が、Because〜以下は空白のまま・・・



*アメリカ 11,127人 2億8千万人 133.3
 イギリス     68人   6千万人   3.3
 カナダ     165人   3千万人  16.6
 日本       39人 1億2千万人   1.0

 私が知ったことのうちのほんの一つ、
 国名  −  一昨年1年間の銃による死亡者数  −  人口
 
 一番右は、日本の銃による死亡者数の人口に対する割合を1として各国のそれと比べてみた。
 
 ちなみにカナダでは、アメリカ同様、銃を所持する権利を法律で認めている。 


3月17日 〜 The Pianist 〜

観てください。

戦場のピアニスト
ロマン・ポランスキー監督
エイドリアン・ブロディ主演

http://www.pianist-movie.jp/pianist/index.html


全国でロードショー公開中

ひとつだけ・・・邦題は戦場のピアニストとなっていますが、
私はこの映画は原題通り、“ピアニスト”という名の映画であると思いました。

是非、是非、観てみて下さい


2月2日 〜 幸せの調味料 〜

懸命に生きているんだけど、
なーんだか、しっくりこない

これじゃいけないのかな?
と何かにぶち当たったりしている

そんな方の幸せはきっと厨房にありますよ〜

ローズソルトをひとつまみ
例えばそんな調味料が
たくさんの貴女の“味”を引き立たせてくれるのかもしれません。

人生は、かけがえのないものとのハーモニーゆえ。


*マーサの幸せのレシピ(原題=Bella Martha たぶん、「美しきマーサ」という感じ?)
 というドイツ映画を観てきました。 
 主人公の女性をとても知的かつセクシーさを持った女優さんが演じており
 料理のシーンも非常に芸術的な、映像の綺麗な、私好みの映画でした。
 ドイツの港町ハンブルクのレストランが舞台となっており、
 よけいなもののくっついていない、柔らかでいながら質実な映画でした。
 映画館を出た私達3人は、美しい手捌きを披露された厨房を後に、
 遅いランチに直行せざるを得ませんでしたとさ。そんな映画です☆

 一昨年(?)に観てやはり気に入った「星降る夜のリストランテ」
 というイタリア映画とのお国柄の違いを感じてみるのも面白い見方かと思います。

 マーサ・・・の方は静岡では
 サールナートホールにおいて 7日(金)までの毎日
 12:00〜 と 18:40〜 の 2回上映になっています。 
 
 是非是非、ちょっと心が疲労気味の方、お出かけ下さい。
 軽い気持で足を運べば、心も軽く出てこられると思います*^^*
 いってらっしゃい♪


1月9日 〜 イスパニア映画特集 2002 〜

毎年恒例、サールナート年に一度のスペイン語圏映画特集!

昨年末は、裸のマハ/カット!/アモーレス・ペロスの3本が上映された。


・裸のマハ
情熱が足りなかったからか、都合が合わず行けなかった。

・カット!
原題は、Familia(ファミリア=家族)
その名の通り、家族を描いたものだ。
家族というのはラテン国家においては非常に濃く激しきものである。らしい・・・。
この映画では家族との完璧な団欒の“形”を求める
訳アリ気味の独り暮らしの中年男性が主人公である。
なんと、俳優達を自分の家族という設定で誕生日の日に雇い、
そこで偽の家族の団欒を催させるという一風変わったものだった。

おもしろいといえばおもしろく、ナンセンスといわれればおそらく反論ができない
ある意味マニアックな映画だったが、私は結構楽しめた。
それは多分アレレ?というナンセンスを愛する、私がちょっと偏屈な人間だからであろう。

取り入ってオススメするであるとか、もう一度観たいというものではないのだが、
何故かここに書くことになった。
それもこれも、一昨年一つの結論として自分の中で言葉として芽生えた
スペイン映画に関する一考察、「中途半端の美学」の潮流をこれにも感じることができたからだ。

・・・と、いうことで、中途半端に楽しみたい方にはオススメです(笑)


・アモーレス・ペロス
原題は同じく、Amores Perros(アモーレス・ペロス=犬達の愛?)
AmoresはLOVEの複数形、Perrosは犬の複数形で、“愛”を修飾している。

こちらはタイトルも映画のコンセプトも大絶賛したい出来だ。役者達もいい。
3つのストーリーが1つの映画の中でオムニバスのようになっていながら
ある1つの出来事とそして1つのテーマで交錯している。
計算しつくされた“中途半端でない”メキシコ映画である。
(私が観たことのある“中南米の”映画はどれも中途半端ではない)
闘犬シーンをはじめとして、血生臭く、脈拍が激しくなってしまうシーンが
結構あるため、映画はあくまでも汚さ、エグさのないものが好きな私にとって
得意なタイプのものではなかったのだが、それを差し引いても非常に惹かれた。
何故ならばありきたりでなく、かつ非常に仕上がりがいいからである。

人間の悲しさ、弱さ、つまらなさ・・・
つまずき、不条理、悪循環・・・
そんな負の、陰の部分が露出された中にも不思議に逞しさがある。

人間とは犬達と何ら変わりがない動物であることが、
そのそれぞれの飼い主の人生と、共にある犬とシンクロしながら
次々に証明され、物語が進みそして終わっていった。

何か非常に厭世的、悲観的、希望の光もないような印象を受けるが
それは、もしかしたらメキシコの今現在の“色”なのかもしれない。
そしてこれは単なる私の想像である。

どうしたら人間らしく生きられるか!
もがき、あがいているだけでは何も解決されないということを強く感じさせられた。

・・・・・人間は考える葦である。


12月11日 〜 狼と羊 〜

舞台に立った瞬間から、観客に訳も分からないまま何か大きな期待を抱かせるというのは、
もしかしたら役者に一番大切な要素の内の一つかもしれない。

ロシアのピョートル・フォメンコ工房(*1)
という劇団の静岡での最終日「狼と羊」を観に行った。
出演している役者はそれぞれが“その芝居における自分の色”を出していて、
その色で役どころの名前など私達が全く覚えなくとも立場や性格を含め
どういう役なのか無意識の内にインプットされてしまう。
つまり、ずる賢い地主はその顔を、道楽息子は表情からして道楽息子
抜け目のない娘は・・・といった具合。

その中で舞台に立った瞬間から際立ってものすごい期待をさせられてしまった役者がいた。
殆どの役者、特に男優達は粒ぞろいだったのだが、特にインパクトが強かったのは
独身主義者の裕福な貴族、ルイニャーエフを演じたユーリー・ステパーノフ。
小太りよりも少し太っている体、決して高くない背、薄くなった(一部存在しない)髪
これだけで、もしかしたら役者としてはいい武器を持っているということになるのかもしれないが、
極めつけはその目の玉。
変わった目をしているというわけではないのだが、異様に光っている。
表情によって目が取り入れる光の量が変わる。
そしてそれに伴う口元、手、さらには足の動き・・・体の全てに表情がある。

この「狼と羊」は領地をやりくりして私腹を肥やしていかなければならぬ?地主達と
それを囲む人達が舞台の中心となっている喜劇で、風刺も利いている。
台詞がロシア語であるため、舞台両脇に流れる日本語訳を追いつつ観なければ
意味がわからないのが難点(首がとっても疲れる場所だった)でしたが、
3時間があっと言う間のとても楽しい演劇でした。
劇中に生ギターなぞもところどころ入ったりして、本当に小粋な仕上がりでした。
原作、脚本、演出、そしてその一瞬一瞬の空気を掴む役者の腕
それぞれの良さを感じられた本当に価値のある舞台でした。


♪「ロシアの舞台芸術」がこの11月から1ヶ月半の期間静岡市で催されています。
 ロシアというと世界に名だたる文豪を輩出している国で、バレエ、演劇など芸術の
 レベルも高いといわれています。
 日本においてもいろいろな劇団によってしばしばチェーホフの作品が演じられています。
 あといくつか催し物が残されていますので、ロシアの芸術や広く演劇に興味のある方は
 是非、県舞台芸術センターのサイトをご覧になってみて下さい。
 こちら  → http://www.spac.or.jp/news00-f.html
 
*1 ピョートル・フォメンコ工房
  ロシア演劇界を代表する演出家ピョートル・フォメンコが
  モスクワの国立演劇大学教授時代の教え子となる卒業生達を中心に
  1993年に創設した劇団。
  確かな演技力を基盤にロシア国内で非常に人気の高い劇団であり、
  かつ、海外公演も多く世界的にも名声を確立しているそうです。

  芸術劇場のスタッフの方によると・・・・・
  現在ロシアではこの工房の舞台は人気があり、チケット入手はなかなかに難しいらしく、
  静岡でそれを見られるのは何たる幸運!と県内外の日本在住ロシア人の方々からの
  この話題の劇団の公演に関する問い合わせが多かったそうです。
  実際当日はロシア人らしき方々が多くいらしていました。
  いろいろと教えて下さった“演劇が大好き!”というオーラを放ち
  目をキラキラ輝かせながら語って下さったスタッフの女性の方、
  名前も存じませんが、ありがとうございました。お陰様でいい時間を過ごせました。
  好き!というのはものすごいエネルギーですね♪


10月28日 〜 Tibet Tibet 〜

ダライラマ14世をご存知だろうか?
きっと顔を見ればピンと来るという方が殆どだろう。
彼はチベットの政治と宗教の最高指導者であり、
現在インド北部のダラムサラという町に住むチベット人である。

そして、チベット人の為の“チベット”という国は今ない。


50年間に渡る中国支配により、母語、文化、宗教などの心を奪い取られ
人間としての尊厳、自由と縁の薄い生活を強いられている。

民族自決、この本来であれば当然といえる権利を得るための非暴力デモに
参加した多くのチベット人が拷問を受け、
またチベット人であり続けようと、残された道である亡命を選択した人々は
十数万人に達するという。(内インド国内には10万人が居住している)
ヒマラヤを越えて亡命を果たす事は、察する通りその道非常に険しいものである。

−私が初めてインドに行った十数年前に、露店で行商をする、私たちと良く似た顔立ちを
 もった人達がTibetan(チベット人)と言われていたことを思い出した。
 彼らも亡命者だったのだろうか。
 十数年の時を経て私の中で彼らの顔とこの問題がリンクした。


このTibet Tibetというドキュメンタリーフィルムは
在日コリアン3世の才能溢れる青年(金森太郎こと金昇龍)が世に送り出したものである。

彼がこのフィルム製作に取り掛かるきっかけとなったのは、
1997年10月にチベット亡命政府のある北インドのダラムサラを訪れた際、
韓国籍の在日3世、つまり「移民」として日本に暮らす彼自身と
同様に移民として異国に暮らすチベット人との共通点や相違点を探していた時に
彼らのヒストリーが見えてきたことだそうだ。
そしてその現状をたくさんの人に知らしめるべくこの作品を作ることとなった。


この金昇龍氏の作品、チベット問題を身近に感じていなかった私には衝撃的であり、
かつそんな私にも非常にとっつき易いものでした。
また、単にドキュメンタリーフィルムとしてその真価を発揮しているだけでなく
映像、音楽全てにおいて非常に芸術性の高いものであると感じました。

是非是非、多くの人にこのフィルムを見て欲しいと私自身強く思いました。


*こちらのTibet Tibetは配給され、映画館で上映されるものではなく
 現時点では、自主上映会のような形でしか観ることができないようです。

 頂いたパンフレットの中に上映会を開きませんか?のお知らせがありました。
 主催、企画運営者を全国から募っているそうです。
 上映にかかる費用は30人の集客が可能であるとした場合、
 観賞料を1400円程に設定すれば全てペイできる程度です。
 学校、職場、サークル等で催されては如何でしょうか?
 もしも静岡清水近辺で主催されたいという方がいらっしゃって、お声を掛けて下されば、
 私も会場セッティング等のお手伝いをさせて頂きたいと思います。
 


参考サイト
TIBET TIBET 公式WEBサイト http://www.ragos.com/



後記:このTIBET TIBETは本当に素晴らしいフィルムでした。
   いろいろな角度から、視点から、学ぶことができる貴重な作品だと思います。
   先月末に静岡市視聴覚センターで上映された折りに観てまいりました。
   その際は2日間にわたり、計4回のみの上映でしたので、
   観賞後は数人の友人にしか勧めることができず、残念でなりませんでした。

   その後一ヶ月が経ちますが、その間ずっと日付の所を打ち直しては
   このLas Puertasにアップしようと文章を考えては消し、考えては消し・・・。
   普段は一気に書き上げ、大した推敲もせずにアップしている私なのですが、
   今回に関しては、ただ単に自分の感じたままを気楽に記せばいいのではないような気がして、
   頂いたチベット問題やチベット仏教に関する資料を何回も読んではトライしてみたのですが、
   結果的に、自分の感じたことを自分の言葉で表現することも出来ず、
   かといって的を得た、そしてこの素晴らしい作品に興味を持って頂けるような
   適切、客観的文章も書けずじまいで、普段と同様に駄文、拙文のまま
   こうしてアップをすることになったことを非常に心苦しく思っています。
    
   そんな気持ちをお察し頂き、是非上記にあります公式WEBサイトをご覧になって頂きたく
   末尾ながらお願い申し上げます。

                           2002年10月28日
                           seiquita@yahoo.co.jp


9月25日 〜 バスを待ちながら 〜

なんて、チャーミング!


乗合バスの事をキューバでは“グアグア”と呼んでいた。
日本のバスとは違い、サスペンションは無茶苦茶。
それもそのはず、とにかく皆総じて年老いている。半端じゃない。
ご老体に鞭打って、定員オーバーこの上ない乗客をひしめかせながら走る。
・・・と、しばし私的回想


この映画はキューバの田舎町にあるバス待合所で延々バスを待つ人々が主役なのだが
グアグアはなかなか彼らを飲み込んでいってはくれない。
そう、定員オーバーだから・・・そして老体ゆえに思う通りには走らない輩も。

バスターミナルといえども、私たちが想像するような無機的なものではない。
いわば昔の駅、とにかくまさに旅、それもトリップでなくジャーニー=人生を感じさせる場所
本来ならば小一時間を共にするだけの通り掛かりのザワメキの筈が、
この映画では文字通りバスを待ちながら起こるユーモラスな出来事たちに
上映時間の殆どが費やされてしまうのである。

随所にユーモアと、なんとも言えない“なんでもあり”が散りばめられていて
田舎町のそんなバスターミナルならば、ロブスターのテルミドール風ならぬターミナル風を
食しつつ永遠にバスを待とうじゃないか!という気持ちにすらなってしまう。


待ちながら私は一体何を見つけられるのだろうか?
待つという行為には人の性格や嗜好、歴史までもがしっかり表れるのかもしれない。

あるようなないような、結局のところ絶対にないこんな話を映画にしてしまう
ファン・カルロス・ダビオ監督に1000のキスを贈りたい。



*バスを待ちながら(原題 Lista de espera=リスタ デ エスペラ)
 2000年 キューバ=スペイン=フランス=メキシコ合作 ←でも全然超大作ではありません(笑)
 監督は、苺とチョコレート(原題 Fresa y chocolate=フレサ イ チョコラテ)で
 トマス・グティエレス・アレア監督(数年前に亡くなりました)と共にしたファン・カルロス・ダビオ
 fresa・・・で主役を演じた二人も出演している。

 筋も楽しいのですが、細部に渡る“クスッ”が非常に心地よく、
 言葉じりも大切に汲みつつ観たい退屈しない映画です。
 キュートなコーティングの中身にはキューバの人々が置かれている日常の問題が見え隠れ
 fresa・・・でホモセクシュアルの芸術家を演じたホルヘ・ペルゴリアが
 イキナリ太って登場してきたことに驚きました。

 オススメしたいのですが、今年の春まだ浅き頃(かな?)に東京辺りで上映され、
 今回は清水で1日のみの上映会でしたので、どこに行ったら観られるものかわかりません。
 もしもいつかどこかで通りがかったら、待合所で足止めをくってみませんこと?


1月20日 〜 ティロノリンコ 〜

もはや昨年となってしまった2001年のクリスマスの夜。
夏に首都圏で公開され、心待ちにしていた”蝶の舌”(La lengua de las mariposas)という
スペイン映画に静岡でやっと逢うことができた。
ファシズムが台頭していくスペイン内戦直前がこの映画の時代背景だ。

モンチョ少年、家族、仲間、近隣の大人達・・・
そして、グレゴリオ先生という町の小学校の老教師。

グレゴリオ先生が大切な事を彼の子供たちに伝える一番の術は自然の中にあった。
自然の営みを通して、人間もその自然の営みの中に存在しているということ
そして、あくまでも押し付けられた条理、不条理でなく、
自然と仲良くすることこそが人間の一番大切な姿につながるということ
そんなことを子供は本能の中に取り込んでいった。

作りものの人工的な国家体制よりも大切なことを子供に肌で理解させるのに
自然界は恰好の学校であったのだろう。

最後に、赤狩りの車に連行されるグレゴリオ先生を含む人々に対して、皆が浴びせる
「裏切り者!犯罪者!無神論者!アカ!」という罵声を主人公のモンチョ少年もまた彼らに浴びせる。

その後去りゆく車に投石をしながら、周りの大人達にはわからない、グレゴリオ先生にだけわかる言葉を
彼が”心から叫んだ”のがこの映画のラストシーンである。

”ティロノリンコ”
=雌に蘭の花を贈るオーストラリアの鳥の名 
がその言葉であった。

私が印象に残ったものの一つに、モンチョ少年の「死んだら人はどうなるの?」の問いに対する
グレゴリオ先生の応えがあった。
「あの世に地獄などない。地獄は人間が作った」というのが先生の応えだった。
自分自身が子供の頃に一番不思議だったことだから印象深かったのかもしれない・・・



*ご覧になっていらっしゃらない方には何が何やらわからない文章になってしまったかもしれませんが、
 鑑賞された方も比較的たくさんいらっしゃる映画ではないでしょうか?

 昨年は幸運にもスペイン映画もしくはスペイン語圏の映画を映画館で観る機会に恵まれました。
 その4,5本の中で、前評判も良く、私の心にも一番深く残った一つを取り上げてみました。
 今までにも出来うる限りのスペイン映画を観てきたのですが、共通していえることは、

 「中途半端の美学」に尽きると思います。
 
 この”蝶の舌”も例に漏れず、中途半端の美学、即ち我々が自由に思いを巡らす”隙間”の
 たくさんある映画だったと感じます。

 評価を得るスペイン映画の中には、過激なペドロアルモドバル監督作品などもあるのですが、
 よくも悪くもスペイン映画は何故か中途半端。
 粋、洒落、コマーシャリズムを全く無視した自然体のものが多いのです。
 
 捉え方は幾通りもあると、人の数だけ感じ方はあるとそんな自由さを感じさせられます。
  
 この押し付けがましい所の全くない地味な作品はキーとなる台詞も、世の中の情勢も
 交えつつ、あなたの大切なものは何ですか?
 と優しく問い掛けてくる温かいものでした。
 懐の深い、愛情に溢れた人との出会いは一生ものです。


 ちなみに原作を後に読みました。
 短編で、まるで詩のようなものでしたが、マヌエル・リバスという
 スペイン北部はラ・コルーニャ出身の作家のもので、角川書店から発刊されています。
 友人のアドバイスに従って、映画を鑑賞した後に読んだのが正解でした。

 さてさて、今年もたくさん素敵な映画を観たいものです*^^*


11月1日 〜 ブラックボード −背負う人− 〜


チケットもぎりのおじさんに、「あ、貸切りですよ。」と声を掛けられる。
百人劇場に一人。


人間は、どの時代にも、どこにおいても、何かを背負って、
そして歩を進めている。


その普遍的な行為が、荒れ果てたイランとイラクの国境で、
重い運命や生命、黒板、闇物資を肩に行われる。
ただひたすら、巡礼者のように・・・

それは戦禍に変わり果てた故郷の大地へ命を返す老人達であり、
職を失い所有するのは商売道具の黒板一つの教師達であり、
これから生き延びて行かねばならぬ子供達であり・・・


それが彼らの日常であると、誰が納得できるだろう。
誰がその生き様をこの世の日常であると想像できるだろう。

見渡す限り荒涼とした大地と荒れた丘と冷たく乾き吹きすさぶ風の中、
そこにあるのは、真実と本能と習性。

啓示的な映像は、娯楽や優雅さの対極にある苦痛を通して人間の存在を必然のものと確信させる。


*ブラックボード −背負う人ー 
 イランの新鋭女性監督サミラ・マフマルバフ作品
 彼女は若干20歳でこの映画を撮り、昨年のカンヌ映画祭審査員賞を受賞した。
 映像の力強さと、逃げることのない目をもって描かれたこの作品を、楽しめるとは言い難いが、
 彼女の伝えたい事を受け取る機会を、この映画をおいて他に私達はそう得ないだろう。
 別の世界は、しかし存在する世界であるのだ。

 この映画に出演した人間は3人の役者を除き、その地域に住む普通の人であることを、
 観た後に知り、驚きと納得を同時に覚えた。

 興味のある方は、オフィシャルHPが紹介されていましたので下記をどうぞ!

 http://www.office-kitano.co.jp/blackboards/


7月27日 〜パラジャーノフ祭〜

それは数年前。よくぞ来てくれた。静岡へ!
市中のお寺さんが所有するホール(その名もサルナートホールという)で
旧グルジア、トビリシ生まれの映画監督、セルゲイ・パラジャーノフの映画が4本ほど上映された。

  *因みにサルナートとは釈迦が初説法をしたインド北部の町の名。
   生誕の地ルンビニ(ネパール)、悟りを開いた地ブッダガヤ(印)、
   涅槃の地クシナガラ(印)と合わせて四大仏跡とされている。

その中で私が胸躍らせ見に行ったのは、ざくろの色という作品だった。
この一本だけで、パラジャーノフの、美に対する並々ならぬ、卓越した完璧主義を
前頭葉に写し込まれた。
のっくだうん・・・これまた完璧に。

何も考えられなかった。
ただただそこに展開される映像にたゆたうしか術がなかった。
ここちよい揺りかご。
青への憧れ。
アルメニアの詩人サヤト・ノヴァを演じた
白塗りの見目麗しき初対面の男優の神がかり的なまなざし。

私は幸か不幸か?ある一定の温度の中に座っていれば、まるで催眠にかけられたが如く
十五分は眠ってしまう習性がある。映画館は格好の場所。
どんなに素晴らしいものであろうと、8割方、何故か眠りに落ちてしまう。
ざくろの色はこれまた類稀なくらい幾度となく私を安眠へといざなった。
安眠なのだ、安眠・・・安。
ストーリーはよく覚えていない。ただあまりの夢のような美しさが残り香の
ごとくまとわりついた。


映画館を出て外が明るいのはとても興醒めだ。考えものなのだ。
最低でも夕闇程度の寛容が欲しい。
太陽光は纏っている空気を強引に剥がすからだ。



故セルゲイ・パラジャーノフ
この現ロシアの超感覚監督”貴方は何者なのだ!”氏は、ソ連時代に弾圧を受け、
ペレストロイカによってやっとこの世に作品が公開されることとなった。
ありがとうサルナートホール。いつかまた会いたい、ざくろの色。
次はご一緒しませんか?


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