8月16日 〜 ハンガリー狂詩曲 〜
列車はブダペストケレティ(東)駅に到着した。
アンドリューは私の旅の幸運を、私は彼のビジネス成功を祈って別れた。
プラットホームを進んでいくと、プライベートルーム(民宿のようなものです)
の勧誘が後を絶たない。
私は、とある安めのホテルに既に電話予約をいれておいた為、これに取り合う必要はなく
そのままやり過ごしていった。
新しい町、第一印象は「拍子抜けするくらいモダン!」であった。
パリでのある出来事により(恥ずかしながら、後日ご披露致します)
毎度の緊縮財政に更に磨きのかかった私の旅は、タクシーなどという選択肢はなく、
目いっぱい活用しようと即刻3日間バス&メトロ乗り放題のパスを購入した。
この大きなブダペストの町の中に、文字通り覆い隠されている小さな通りの名しかわからないまま
ホテルへ辿り着くという任務が次に待ち構えていた。
春というより初夏の日差し照り付ける中、メトロを適当なトコロで降り、まずホテルに電話をし
自分の現在位置を告げる。(しかし、発音がややこしい言語の場合、固有名詞を読んでみても通じず、
スペルアウトもままならずでかなりキツイ状況だ。筆談が一番手っ取り早い)
市民公園の中に顔を出し、道行く親切そうな人を探して怪しいハンガリー語で挨拶をしては、
通りとホテルの名前を記したメモを見せ、少しずつホテルに近づく方向を目指していった。
何度も行きつ戻りつしながら、非常に親切で英語の堪能な大学院生らしき男性が
結果的にホテルの場所を突き止めるアクセスを尋ねて通訳してくれた。
「クスヌムセーペン(=ありがとう)」
ホテルの近くでバスを降り、バッグを肩に担ぎ歩きつつ通りの名を見ていった。
やっと辿り着いた時には、ケレティー駅を出てから1時間半程経っていた。
時間がなければお金を使う。
お金がなければ時間と体力を使う。
どちらかでなんとかなるものだ。
そしてなんとかなった時はそれがちっぽけな、例えばこんな宿の場所を探し当てる
なんということであっても、初めての地での自信になり、妙な充実感を生むのである。
美味しいことに副産物付き!
町の概略や公共交通機関の雰囲気、システムが見えてくること。
これは大きい。
さ、もっと町の中に溶け込んで行こう!
7月7日 〜 プスタをゆく列車 〜
ウィーンから一人旅が始まった。
2002年欧州旅1ヶ月の締めくくりはひとり。
ウィーン西駅からEC(ユーロシティー)国際特急列車に乗り込む。
自由席の6人掛けコンパートメントを覗きつつ座る所を探し歩く。
アンドリューというウィーン在住、旅行会社マーケティング所属の
30代前半位だろうか、ビジネスマンと席を隣り合わせた。
他の4人は全員徴兵中の、軍服を着用したオーストリア青年達で、
早々に、国境の町、ジョールで降りていった。
ウィーンからブダペストへは約3時間の旅。
車中の2時間をアンドリューとのお喋りで過ごした。
彼は昨年まで仕事の関係でドゥバイに奥様と共に1,2年住んでいた
という経験を持つ、非常に紳士的で親切な話しやすい人だった。
現在は週に2度程この列車に揺られ、ウィーン−ブダペスト間を往復し、
プロモーションの仕事をしているそうだ。
なるほど、車窓からの景色に詳しく、時折停まる町について説明をしてくれたり、
左手に流れるこの河の向こうに見えるのはスロヴァキアだよ
などと教えてくれるわけである。
国境という響きにはやはりどうしても胸が踊ってしまう。
島国ゆえのこの感覚を彼に説明すると、
それは彼にとって新鮮なものであったようだ。
そう、私達の国ニッポンは海に囲まれているんだよ・・・。
繊細で、少し神経質そうな横顔を持つアンドリューと、
いろいろな話をした。
彼の奥様の家族がフランスに住んでいることから、
今回のWカップでも夫婦揃って王国、フランス代表を熱烈応援すること。
オーストリアという国はアウトバウンド(自国民の海外旅行)よりも
インバウンド(外国人がオーストリアを訪れる事)の方が多いこと。
そして、日本が誇る世界のオザワについて。
旬な話題である。
小澤征爾氏がウィーンフィルのニューイヤー・コンサートで今年の
幕を明け、この2002年シーズンからウィーン国立歌劇場の
音楽監督に就任する事になり殊に日本人観光客の来訪が増えること。
などなど・・・。
旅は道連れのコンパートメントでは大抵いつでも会話が弾む。
一人旅の一つの効用、「袖振り合うも他生の縁」
こんな事をとってみても、旅はいい。
“点”でなく“線”の旅は特にいい。
プスタ(平原)に少し町らしき風情が注がれる。
そろそろ、列車がブダペストに到着するようだ。
7月1日 〜 ウィーンの朝の別れ 〜
.....I had very good time with you in this
trip.
I was so happy to see you again. And we could
have so much time to talk together.
..So, please take good care of yourself.
see you in ジャパン ネクスト イヤー ……
Hug
and kisses...
午前7時、真っ赤なキャリーバッグを引く彼女の背中を見送った。
数えてみると、今までに私達は日本で2度、パリで3度、お別れをしてきた。
何度も経験した別れは、何度も再会できたという事実の紛れなき証拠。
6度目の別れは2002年ウィーンの朝、五月晴れ。
彼女とは何度も一緒に旅をした。
日本国内、フランス国内の小旅行達、
初夏の北京、西安
夏のシッポのマヨルカ島
そして、春のプラハ、ウィーン...
=たくさんの共有財産の所有
私達はまたその素敵な、具沢山の“包み”を増やして朝のウィーンにいた。
別れる時はものすごく淋しい気持ちが心に押し寄せる。
その波は眼球を覆いつくし、溢れる寸前で別れの“動作”が完了する。
別れは一瞬のことで、次の瞬間は再会へのプロセスに踏み出すのだ。
“動作”の完了と次への踏み出しの間隙
その波はハラリハラリと舞い落ちて、全画面が一時滲む。
約、四分の四拍子、1小節分の、小休止。
ハラリハラリ・・・、落下運動の数秒の間に、
熱を奪われ、体温から気温に近づく間に、
別れの“儀式”は完了する。
私達は、お互いのハラリ、ハラリ、を向き合って見たことがまだない。
6月26日 〜 プラハの春 〜
いや、春のプラハ。
チェコの首都プラハは、”それはそれは美しい街である”と多くの人に聞いていた。
2002年5月上旬、パリからプラハへAnne-Laureと二人で飛んだ。
私にとって東欧(最近は中欧というらしい)は初めての地だった。
チェコ、そしてハンガリーは数多い私の憧れの地の一つであり、
本当ならばもう少し早く、例えば1990年代前半に訪れたかった場所である。
空港から市中へ向かう乗合タクシーからは、チェコ独特と思える家を見ることができ、
可愛らしいがどこか垢抜けない色使いと、積雪の多さを想像させる急斜面の屋根が
印象的だった。
町に着いた途端、まるで御伽の世界にいるような雰囲気に包まれ、
歴史の息吹をそのままに、人、文明と伝統文化とが上手に共存している
素敵な街を予感させてくれた。
”プラハの町へ来たりなば、町を隈なく歩き廻りて、路地裏をサマヨイ給へ!”
これはこの町を訪れる方への私の推薦の詞です。
私達は歩きに歩きました。それこそそぞろにぐるぐると・・・
特に旧市街の小途を、広場を抜けて、重厚で荘厳で美しいカレル橋を渡り、
プラハ城へと坂を登るこの道はまさしく観光ルート。
そしてこのルートを1往復もしたならば、プラハの虜になること間違いなし!
の魅惑のエリアです。
欧州一美しき町という形容も全く大袈裟なものでなく、私が今まで訪れた町の中で
プラハは間違いなく最も美しい街の一つです。
そんな美しき街のもう一つの魅力はここに住んでいる人々。
観光地特有のかさかさ、ツンツンが全くなく、礼儀正しくて、且つ温かみを
感じる事も非常に多い旅でした。
共産主義国というと、旧、現問わずどことなくホスピタリティーを感じにくい国が
多い気がするのですが、真面目で誠実な人々がここ10年、外国からの観光客を
たくさん迎え、いろいろな影響を受けつつも自分達の誇りを忘れず、傲慢にならず、
上手に観光産業を発展させているように思いました。
過去の遺産を上手に生かしつつ、産業に発展させている成功例ではないだろうか、
と一観光客として感じました。
観光をする上で少々物価が高い(現地の方の所得と旅の物価のギャップが激しいと思われる)
のが難点ですが、それでも余りあるほどに魅力的な町です。
私達が3日目にとっていた宿はアメリカ大使館のすぐ近くに位置していました。
ゆえ、側には常時警官が2人か3人体制で配置されていたのですが、
ある昼時に私が一人歩いていると警官の一人が近寄って話し掛けてきました。
名前をヤンさんといい、日本語をほんの少し話し、英語はどうも理解できない
ようでしたが、日本人の奥様と結婚してプラハに住んでいるのだということが
わかりました。
彼はポケットからプラハ旧市街で撮ったウェディングの時の写真を取り出し、
「○○○、私、夫婦・・・」と何度も言っては金色のマリッジリングを見せ、
幸せそうに微笑みながらいろいろな事を話そうとしていました。
つぎはぎの言葉をつなぎ合わせると・・・
○○○さんという彼の奥様は用宗(静岡の西方にある海辺の地区です)出身で、
ご両親、妹さんとその旦那様が家族で、仕事でプラハに来て知り合い結婚した。
一度日本のご両親の所にヤンさんも行って駅の近くのセンタウリーホテルの26階に泊まった。
素敵だった。○○○はとっても素晴らしい女性だ。
ということでした。センタウリーは多分センチュリーの事だと思われます。
私は偶然にも同じ静岡の女性がここプラハでこの誠実そうなヤンさんと
生活している事の偶然になんだか嬉しくなってしまったのと、
彼がほんの少しの日本語しかわからないのにも拘わらず、
お父さん、お母さん、素晴らしい、気を付けて
という単語と、非常に覚えにくいと思われる、日本の家族の名前を片っ端から
覚えていることに感激してしまいました。もっと時間があればヤンさんの奥様と
御会いしてみたかったのですが、それは時間が許しませんでした。
末永く御幸せに!と心が温かくなる気持ちがしました。
プラハの観光の中心ともいえるカレル橋、ここは橋の鑑のような橋でした。
車は通行できませんが、たくさんの人が往来しており、大道芸人もいて、
そして何よりこの橋の欄干に立っている彫像達が風雨に晒され尚その芸術性を
高めている事にハッとしました。
価値ある美術品というものは得てして美術館、博物館のガラスケースの中に
鎮座し、人々との間にそれ相応の敷居を持たされているものですが、
このカレル橋の芸術はそこにあり続け、橋を通る人々を何年も見続け、
町や人と、そして自然とも共存しているのです。
これほどに芸術が芸術として存在するにふさわしい方法はないだろうと
思わせる寛容さがこの町にはありました。
そして、このプラハで私達はオペラのチケットを手に入れ、
カルメンを観劇することができました。カルメン役の女優さんがすばらしく
素敵な歌声を持っており、十分に堪能することができました。
またまた言葉は全く理解不能でしたが、ストーリーを良く知る演目であれば
それは全く気にならないものです。
2階席で、もちろんテラス席ではありませんが、約1000円程で鑑賞できました。
プラハに行かれたら是非この室内装飾も素晴らしい、派手やかではなく
少々小さいけれど本格的なオペラ座で観劇される事をお勧めします。
現地のホテルなどにおいてある新聞を見れば演目がわかります。
年中かはわかりませんが、毎日演目のローテーションを組み何かしら上演されて
いるようでしたので、(他の欧州同様秋から春にかけてだけかもしれませんが・・・)
チェックして見て下さい。オーケストラの演奏も素敵でした*^^*
*束の間のプラハ滞在でしたが、プラハの美しさは私の心にしっかりと焼き付けられました。
例えばパリの町のような統一美ではなく、様々なものが自然と調和している、
アーティフィシャルでないごくごく自然発生的であり微妙なバランスの下に
落ち着いた厚みのある美しさを感じさせられました。
パリの街としての美しさも捨て難い魅力ですが、どこか土臭いものの好きな私には
このプラハ体験は欧州の美を違う角度からみる良い機会となりました。
パリからはオーストリア航空などを使いますと、ウィーン経由で2時間程で
アクセスできますし、同額で往路又は復路で音楽の都ウィーン滞在を兼ねることも可能です。
2月22日 〜 ひとり旅、秋の倫敦 〜
「ふらんすへ行きたしども金はなし。」
高校時代の教科書の萩原朔太郎を何故かふと思い出す。
しつこいが、手持ちが底をつき始めたのにロンドン。
ひとりきりでロンドン。
パリはオルリー空港からロンドン、ガトウィック空港へ
当時はサマータイムから通常時間への切り替え日が異なっていたフランスとイギリス、
ちょこっと混乱。
ガトウィックからヴィクトリア駅への快速エアポート(←そんな名なわけではない)は
田園風景を車窓に迎えて一幅の絵を見せてくれた。
空港駅でだったろうか?トーマスクック旅行社のブランチが出ており、そこで
一番安いB&B(1泊朝食付き)を予約したいのですが・・・と手配してもらう。
チューブ(ロンドンの地下鉄の愛称)でアールズコート駅まで行き、宿に到着。
確か一泊3500円位だったと思う。高い!
荷物を置き、まず第一日目は翌日からの更に安いB&B探しと、
ロンドン版”ぴあ”のようなTimeなんちゃら(Time
Outだったか?)という情報誌をゲット。
1週間、とにかくロンドン以外の都市を巡るのは諦め、ダブルデッカーとチューブで動き回る。
わけもわからずバスに乗り、東へ西へ南へ北へ。思い付いた場所で降車し、歩き回る。
道に迷えばその辺りの人に聞き、少し危ないニオイがすればそこからは立ち去る。
そんな何の計画性もない行き当たりばったりを楽しみつつも、見たいものはきちんと見た。
観光地
テムズ河沿いの散策、ウェストミンスター寺院、ビッグベン、タワーブリッジなどなど
やはり・・・の大英博物館
何故か辿り着くのに非常に迷った。しかし、昔勉強したロゼッタストーンなどを
目の当たりにすると、ヒエログラフを解読したシャンポリオンってすごいなぁ〜とか、
後世に自分達の文明を伝えようとする昔人の熱意を感じたりした。
もうあまりに沢山の展示品で、有名なものと、あとは興味のあるインドを中心に
見て回った。
もちろん・・・の観劇
ドレスコードを確認して、ボロ着でもOKな劇場にチケットを買いにいった。
演目はシェイクスピアのリア王。
苦手な英語に、難しいと言われるシェイクスピア独特の言い回し。古典英語というのか?
舞台装飾と衣装を楽しみ、理解しようともがいても全く無理であったため、
サウンドとして耳を遊ばせた。延々4時間に及ぶ理解不能な観劇は体力も消耗するものだ。
その後町歩きをしていて知ったのだが、市中のレスタースクエアでは人が列を成しており、
そこでは当日分の劇場チケットが半額で販売されているそうだ。お試しあれ!
おー!・・・のナショナル・ギャラリー
所蔵品全てを見ることはできなかったが、確かトラファルガースクエアに面していた
この美術館は英国の誇る風景画家ターナーや他国の有名画家の絵画が展示されていた。
ほほーっ・・・のナショナル・ポートレイト・ギャラリー
私は、上記の美術館よりもこのポートレイトを集めた美術館に非常に感銘を受けた。
人のカオというものはかくも芸術的なものであろうか・・・とさまざまな肖像画に
見入ってしまった。
やはり私の芸術作品における好みは老人の顔であるらしく、
名家の老婦人の顔写真や、彼女のその細く長い手の骨や皮、皺に、
なんともまぁ美しいものだと惚れ惚れした。
多分今でもどこか私の持ち物の中にその”手”と老婦人の白黒写真のブックマーカーが
ひっそりと眠っている筈である。暫くはあの栞ばかりを使って読書をしていたのだった。
旨い!・・・のギネス黒ビール
パブで、1パイントのギネスを頼み、立ち飲み。
女性一人というのはこういう時に少し不便だ。地元のおじさんが話し掛けてきて、
適当にあしらいながらおしゃべりをする。彼らから見ると私は成人しているとは
思えない小娘に見えるらしい。
別の夜は、ヴァイオリンの音色につられて入ったレストラン兼バー。
店の玄関には”今宵、ジプシーヴァイオリンの演奏”と掲げられていた。
ジプシーといってもそれはハンガリー地方の事で、中に入ると親しみを感じさせる顔をした
二人のハンガリー人のおじさん達がヴァイオリンとアコーデオンを弾いていた。
あなたは日本人ですね。リクエストを・・・と女主人が声を掛けてくれたので
ベタだなぁ〜と思いつつも、ツィゴイネルワイゼンをお願いした。
ここがどこであるのか錯覚させるような郷愁を帯びたエキゾチックな音だった。
女主人は「私もハンガリーが故郷なの。」と言ってウィンクしてみせた。
小一時間を食事と音楽で過ごし、勘定を頼むと、帰り際に二人組のおじさんは
”荒城の月”を演奏してくれた。これもまたいかにも日本人好みのものであるが、
私は純粋に嬉しかった。そんな夜だった。
ほ・・・の公園たち
リージェンツパーク、バッキンガム宮殿の横の公園。
何より気に入ったのは、ハイドパークだった。とにかく広い。
薔薇園に遊び、
紅く染まった樹木を眺めながら芝生に寝転がり、リスとお喋りし(嘘)、
英国老紳士がステッキをついて一人散歩をしている図に微笑み、
ウェディングのカップルが写真用のポーズを決めている光景を祝福し、
水鳥が一生懸命に進んでいくその水面の波紋の広がりを眺め、
道すがらすれ違うジョギングの集団に心の中でガンバレーと言い。
ハイドパークはとっても好きだな・・・と感じた。
欲しいっ・・・のポートベロー
アンティークの市が立っているポートベローであれ欲しい。これ欲しい。
しかし、買わない。
そんなこんなの日々を過ごしていた。
5泊ほどを過ごした安宿はやはりアールズコートの駅から近く、一泊2000円弱だった。
朝食は冷めたトースト2枚にジャムとバターそれにイングリッシュティー。
宿の主人はインド人と思いきや・・・パキスタン人。
インド風訛りの英語にまたまた反応しおしゃべりが弾む。人相と手相で占いをしてくれた。
過去の事を異様に当てたこの宿主が私の未来に起こること、と告げたのは、
「あなたが住むのに日本は合わない。ロンドンもだめだ。アメリカがいいだろう。
スペイン?それはいい・・・。」
「近い将来イタリア人の年の離れた大金持ちの男性と結婚するだろう。程なくして彼は
死に、あなたに莫大な財産が残され、幸せな日々を送るだろう。」
いやはやその後何年かが経つが、イタリア老紳士とのご縁は幸運にもない。
遺産によって幸せな日々を送るとは、おっちゃん何てこと言ってくれるんだ。と当時思った。
今後ともこの占いが当たらないことを願っている。(笑)
ロンドンは、私が今まで行ったことのある街の中で一番コスモポリタンな街だった。
パリとは明らかに違うニオイがした。それが、欧州の魅力の一つだろう。
ロンドンに別れを告げ、アンロールの元へと戻る。
2月1日 〜 再会!紅葉のチューリッヒ 〜
チューリッヒ中央駅に着くと、デニスが出迎えてくれた。
まずは駅に隣接する銀行に寄り、初めてのスイスフランを手にする。
路面電車を足代わりに、スイス経済の中心地チューリッヒの街を隈なく散策。
ゲーテの住んだ家、素敵な小途、街が一望できる高台、デニスの通う研究室、
繁華街などなど・・・
デニスと彼の両親の住む家はチューリッヒ中央駅から電車で更に1時間ほど
いったチューリッヒ湖畔の町。
静かな駅を下り、10分程夕闇の中を歩くと彼の家が見えた。
彼のお母さんは休暇で旅行中であったため、お父さんとお姉さんが歓迎してくれた。
よく手入れされた庭があり、3階建ての家に地下シェルターがある。
このシェルターはスイスの全ての家に、ある時期設置を義務づけられたものらしい。
彼の家では食糧の貯蔵庫として有効に使われていた。
デニスとはやはりマラガで知り合った。
一緒にスペイン語を学び、飲みに行ったり語り合ったりした友人の一人で、
その後も手紙のやりとりが続いている。
非常に真面目で、教養のある穏やかな好青年である。
日本に帰る前に是非スイスを訪れて、僕の両親の家に滞在するといいよ!
と誘ってくれた為実現した
初めてのスイス訪問であった。異常な物価高のスイスにあって、現地に居候
させて頂けるのはまことにもってありがたいことである。でなければ実現し得ないスイス体験。
丸4日間彼のホームグラウンドで、大きなそして小さな、たくさんの経験ができた。
・ハイジの住むような山をロープウェイで登っていき、連なる山並みを眼下に見、
壮大な自然を感じた
・村のマーケットに行って野菜を買う時にもスイス人らしい彼の厳格な性格に驚き、
ちょっとした言い合い
・雨上がりの森にお父さんと3人で出かけお散歩。
黄、赤、緑のコントラスト素晴らしきその森を3人でゆっくりと歩いていると、
見ず知らずの人たちが「グルエッツィー ヴィッテ ナム!」(ご機嫌如何?の意の
スイス訛り独逸語らしい)と声を掛けてくる。白馬に乗った女性まで現れたりして・・・
・彼の自宅での食事は普段なかなかに質素なもので、食にはその国の人々の
考え方や暮らし方が表れて興味深いと感じた。堅めのパンとチーズ
(多分に、穴の空いた塩気の少ないエメンタールチーズ)それに何がしかの
野菜、自家製のピクルス。といったラインナップであったが、彼はお料理も上手で、
驚くほど多彩で美味しいサラダを作ってくれた。
・近くの住民で結成されるオーケストラに彼が所属しており、その練習場にも連れて
行かれた。田舎町といっていい環境で、一般の人々がこんなにもたくさん
クラシックを愛し、自ら演奏することを愉しんでいる光景は、食の楽しみの少ない
この国の別の面での文化的豊かさというか暮らしのゆとりを垣間見た思いがした。
そして何より私にとって新鮮で嬉しい初体験だったのは、本場のオペラ鑑賞であった。
ある夜、手持ちの中では一番コギレイな格好をして(といってもそこそこ小汚い)
靴だけはしっかりと磨き、彼が予めとっておいてくれたオペラのチケットを手に二人で出掛けた。
チューリッヒの中心地にあるオペラ座はハードも素敵で、またソフトもその生演奏に
心行くまで酔うことができた。
歌も素晴らしく、これが、私がその後も年に一度あるかないかの鑑賞しか
できないながらもオペラに憧れる発端となった。
内容はドイツ語の喜劇であり、何を言っているか全くわからなかったが、
筋書きがシンプルで初心者向きであった。
幕間も日本のコンサートのそれの2倍以上の十分な時間を取ってあり、
こういう所にもゆったりとした時間を持つことの贅沢さを感じられた。
デニスは自らも楽器を演奏するせいか、クラシック音楽をこよなく愛し、
短期の休暇があるとパリやらプラハに
ただオペラを見る為だけに出掛けたりするようであり、旅先から”今日はマダム・バタフライに感動した!
何度見てもマダム・バタフライはステキだ・・・”なんというポストカードが届いたりする。
この4日間、いろいろなことを漠然と考えさせられた。
それまでは、自分自身が強い興味を持つ、または惹かれて止まない国や
地域のみに足を踏み入れていたのだが、
おおよそ自分の趣向とは違うこの経済的にも豊かなスイスに来て、
”友人がいる”というその偶然の事実だけでその国を知るきっかけとなる素晴らしさであったり、
エコロジーの進んだこの国のまことにもって徹底した節約主義を体感することで、
本当に多様なヨーロッパの国々が国境を接していることの不思議さであったり、
そして、移民を多く受け容れたり、一つの国でありながら地方によって隣接する
他国の言葉を話すこの国の特殊性であったり、ひいては自然に形成されていく国際的感覚、
その副産物としての差別。そのようなものだったと思う。
何から何までお世話になって、いろいろなことを語り合うこともできた美しきスイス滞在。
デニスと彼の家族への感謝の気持ちとともに、私を乗せた電車は国境の街バーゼルを
経てパリへと戻っていった。
*デニスとのその後の再会は、今度は日本に舞台を移し、彼が私の家を訪れること
となるある初夏のこと。
機会があれば、彼にその時の初めての日本の印象をインタビューして、日本語に訳しこの
”ラス・プエルタス”に登場させてみたいと思う今日この頃である。
ちなみに私の実家に滞在した彼は、自宅で、外で、毎食魚を所望し、
1日3食の魚料理に付き合う私は少々閉口したものだ・・・。
両親、弟、皆が彼をとても気に入り、2年程たった今でも時折家族の話題に上る彼である。
今度はいつ会えるかな?
1月5日 〜 ノルマンディー上陸作戦 〜
いやはや、上陸ではありませんで、パリはサンラザール駅からまずは電車で1時間半。
車窓を楽しむ筈が、日本に居る時と同じく睡魔というものは襲ってくるわけで・・・zzz
ルーアンに着いた時、可愛らしい小さな男の子に起こしてもらい、サササと電車を降りました。
プラットホームでは、スペインで1ヶ月程一緒に勉強したまだ10代のアンサラ
(私はアンという名に縁があるようで・・・)がものすごくミニヨン(可愛い)弟君と
お父様を伴って出迎えてくれていました。
車で市中を案内して頂きながら、彼女の自宅に到着。
それはそれは、緑溢るる素敵な所。お家は日本人のそれとそう変わらない大きさ。
御両親は学校の先生。彼女と弟は柔道をやっているので日本の文化に非常に興味を持っています。
お母様お手製のランチを頂いて、彼女の部屋に行くとマラガでの思い出話に花が咲きます。
ノルマンディーといえば、エトルタという景勝地を見なくては!
とのことで、車で随分と北へ行き、フランスの北の海に出ました。
かのクロード・モネも描いている面白い形の断崖を見物。
10月のノルマンディーは言ってみれば、冬の日本海のような面持ちで、
寒いながらも美しいものでした。目の前に広がるドーバーを越えればグレートブリテンが・・・
エトルタの景色も素敵でしたが、アンサラとの再会が何より嬉しかったのと、
とってもとっても可愛らしい齢8つの弟君が私にとてもなついてくれて、
キャッキャと恥ずかしそうに遊ぶ姿が非常に印象的でした。
ルーアンではあまり時間がなく、有名なカテドラル(大聖堂)なども車から見ただけに
なってしまいましたが、十分当初の目的を果たせました。
アンサラに別れを告げ、パリに戻りアンロールのアパルトマンに一時帰宅。
*Anne-Sarahは、昨年秋に結婚しました。パーティーに招待してくれたのですが、
仕事の関係上、私はパーティーには行けませんでした。
当時18歳だった彼女はその後大学で物理を勉強し、今はパリで仕事をしています。
彼女の弟(実は名前を忘れてしまった...)はその後、何度も
「Seiquitaはいつうちに遊びに来るの?」とアンサラに尋ね、その事が彼女の手紙に
書いてあるたび、愛らしくて仕方がない気持ちになりました。
今頃はさぞハンサムな青年になっていることでしょう。*^^*
また彼女は柔道をやっているため、”心”という言葉の意味を調べたのだがもっと
精神的な意味がきっとあるはずだから教えて欲しい!といったようなことも
よく手紙に書いてきました。
フランスという国は、19世紀のジャポニズムでも見られるように、
ゴッホ、モネ等の画家が浮世絵の影響を受けたり、異文化に対する美意識が
非常に発達した国ですが、外国にあって日本の文化に興味を持ってもらえる事は
日本人としてこの上なく喜ばしいことであります。
ただ、日本人の私達が往々にして自国の文化についての知識が薄いため、
これから国際化していく上ではもっともっと自国の文化を大切に、深く知る事が
必要だと痛感する次第です。
ちなみに彼女と私のコミュニケーションはいつもスペイン語です。
彼女はスペインの南東アルメリアに御両親のピソ(アパート)があり、
毎夏スペインで休暇を過ごし、スペイン語をブラッシュアップしています。
母国フランスのスノッブな人々よりも土臭いスペインの方が好きなんだそうです。
陸続きで国境のあるヨーロッパならではの利点だと極東島国の私は少し羨ましく思います。
1月3日 〜 番外編・パリでアレンジ 〜
これから1ヶ月強のあらゆる旅の手配をすべくパリのトラベルエイジェンシーを巡る。
英語を全く受け入れてくれようとしないツンツンおばさまや、あまり親切でないお姉さんとの
コミュニケーションは結構難儀だった。
○まずは日本への片道航空券。
あらゆる店舗をまわり、一番安かったのがMH(マレーシア航空)のKUL(クアラルンプール)経由。
つまり、地獄のEH(南まわり)。
とにかくもう手持ちが底を突きつつあった為、安さに勝るものはなし!
割高の片道切符でありながら、日本円にして4万ちょい。よっしゃ☆
・・・しかし実際この便はひどかった・・・。
パリ→ケルン(1時間の機内待ち)→クアラルンプール(空港にて約2時間待ち)
→コタキナバル(1時間の空港待ち)→成田=20時間以上
いやはや、20年前の日本人ビジネスマンのような旅で、
普通の北まわり直行便の2倍の時間を費やした。
○そして、チューリッヒの友人を訪ねる為のTGV(フランスの新幹線)の手配を
友人所有の、フランステレコムが無料で配布していたミニテルという家庭用端末で行う。
後日談だが、欧州の他国に比べフランスでなかなかインターネットが普及しなかったのは
フランス語を擁護する、英語を排除するという文化的な運動と共にこの無料配布の
ミニテルの存在が原因となっていたらしい。
○最後は一人旅のロンドン往復航空券=3万円弱
これらの手配を各地の友人達と連絡をとりつつ2日位のうちにまず済ませ、
晴れて欧州探訪の準備が整った。
タイムリミットは11月中旬のパリCDG(シャルルドゴール空港)出発日。
そこまでの4つの旅。さぁー出発!!
12月17日 〜 フランス 巴里・秋 〜
三度目のパリは、すっかり秋を迎えていた。
スペインはアンダルシアの港町、マラガから飛行機に乗った。
早朝、珍しく曇った空に太陽がぼんやりと浮かび、私の涙でぼやけているのか
はたまた太陽がぼやけているのか?という10月初旬の旅立ちの朝。
パリまでのフライト中、愛しいイベリア半島の航空写真よろしく、地形を眺めていると
前日眠れなかったせいか熟睡の間にフランスとスペインとの国境となるピレネー山脈を越え、
パリはオルリー空港に降り立っていた。
何よりもショッキングだったのは、降機後ターミナルに向かうバスの中で行き交う言葉が
急にトーンダウンした柔らかでクシュクシュしたフランス語にすっかり取って代わってしまっていたこと。
威勢の良い、土の香りのする愛するスペイン語の響きはもうどこにもなかった。
大袈裟でなく、体の力が抜けていく思いがした。
”ココハ モウ スペインデハナイ”というアナウンスが聞こえたようだった。
オルリーからバスと地下鉄でODEONに向かう。
身を寄せる親友のアパルトマンにである。
特大のスーツケースを引きずって、ファサードで彼女の部屋の暗証番号を押す。
センスの良い彼女の部屋に着くと全身の力が抜けるようだった。
乾いたオレンジの香りがし、彼女の笑顔がそこに浮かんでいた。
パリの秋は薄ら寒い。
街角に焼き栗屋がたくさん出ており、新聞紙に入れられた小粒のそれを、パリパリと皮を剥きながら、
口にポンと入れると香ばしい香りが広がる。秋の香りなのだろう。
再々この気侭な町を歩く、歩く。
かさかさ落ち葉を踏みながら、日向ぼっこをしながら、街角のパフォーマンスを楽しみながら・・・。
街というのはそこにいる人々が形成しているものだと再確認。
*今回のパリは彼女に会うためと、他の友人を訪ねたり一人旅をする拠点にさせてもらう為の滞在で、
1ヶ月半程のもの。
そんなに居候して・・・と申し訳なく思いつつも、彼女からのありがたい申し出を受けさせてもらうことにした。
身軽に欧州を旅するにはどこか拠点があるといい。
この秋にはいろいろな所へ出かけた。
パリのサンラザール駅から1時間強のノルマンディー地方の美しい都市ルーアン
パリはリヨン駅からTGV(フランス国鉄の新幹線)でスイスの経済の中心、チューリッヒ
一人旅のロンドン
彼女の実家ディジョン、そこから家族旅行に同行して南フランス、国境を越えてスペイン日帰り。
それぞれの旅はこれまたとても嬉しく楽しく懐かしい旅で、それについてはまた次の扉で!と致しましょう。
11月18日 VIAJE 〜 フランス 巴里・春 〜
二度めにパリへと旅をしたのは、春のことだった。
もうすぐイースターというまだ寒風のパリはODEONのアパルトマンにフランス人の親友を訪ねた。
滞在中、彼女の友人達とパーティーをしたり、真っ白な猫のネージュ(フランス語で雪という意味)
と遊んだり、彼女のお父様が勤務するSenat(セナ)というフランス上院議会の内部を
見学させてもらったり、彼女が仕事に出かけている間はモンパルナスやリュクサンブール公園、
セーヌ川の川沿いを思う存分散歩したり、重厚な雰囲気の本屋さんというよりは書籍屋さん
という風情のお店で写真集や画集や植物図鑑などを眺めて楽しんだり、
マルシェで買い物をし、せめてものお礼に仕事から帰る彼女を待ちながら夕食を作ったり、
日本のあられをスーパーで買ってビールのつまみにしながらポンデザール
(セーヌにかかる唯一の木製の橋、芸術の橋という意)のベンチで
今までの事や将来の夢について語り合ったり・・・。
パリの春は陽光とは程遠かったが、次に控える大仕事のための休息にはピッタリの、
友と語り合う貴重な時間だった。
日常のパリがそこにあった。
毎早朝に、彼女と近所のパン屋さんに焼きたてのバゲットやクロワッサンを買いに行くのが、
なんだかとてもお洒落で贅沢に感じたものだ。
パリに春がやって来るのはとっても時間がかかるようだ。ゆっくりとゆっくりと・・・。
*彼女はAnne-Laureといってブルゴーニュはディジョン出身のとても素敵な女性である。
私が以前勤めていた会社に研修生としてやって来たのが出会い。
一度帰国し、再来日後は、日本企業誘致の仕事を任され、故郷ブルゴーニュの東京事務所を
切り盛りしていた。
フランス人には珍しく(失礼!)スノッブでない親しみやすい性格で、私達はすぐに仲良しになった。
飲みに行ったり、いろいろな企画を考えたり、フランス大使館のクリスマスパーティーに連れて
行ってもらったり、お正月には私の実家に来て二人で着物を着せてもらい、神社に行ったり、
写真家になるため勉強をしていた同級生に実寸大の写真をとってもらったり・・・。
中国へ二人で旅行に行ったりもした。
今は地元を離れパリで一人暮らしをしている。
ここ4年程は会えずにいるのだが、時々電話をかけてきてくれては、お互いの近況などを
報告しあっている。
仕事の都合で結婚式に来日出来なかった彼女は、素敵な絵とかわいらしいチョーカーの
プレゼントを航空便で送ってくれた。
「早く旦那さんを紹介しに来て!」とのリクエストにそろそろ応えたいから、
次の春辺りには是非また”春の巴里”に彼女に会いに立ち寄りたい。
彼女はノスタルジックな気持ちになるとあられを食べながらビールを飲んで元気を出すそうだ。
そういえば、彼女が日本を発つ前々日に、パーティの後私達は寒い晴海埠頭でせんべいを
食べながら ビールを飲んで別れを惜しみあったのだった。
つんとした空気と美しい夜景とせんべいのミスマッチが心地よかった。
10月29日 〜 フランス 巴里・冬 〜
初めてパリへと旅をしたのは、冬のことだった。
12月、クリスマスイルミネーションが風物詩となる季節。
初めてゆえ、思い切りスタンダードに・・・
例えば凱旋門、エッフェル塔、カルチェラタン、オペラ座界隈、ヴェルサイユ宮殿・・・そんな所を歩き回った。
凱旋門の上から望むシャンゼリゼ通りのイルミネーションは、まるで旅行会社のパンフレットのようだった。
エトワール(星)というその名の通りに放射状に広がるアヴェニューは、
都市計画の完成度を日本人の私達にみせつけているようだった。
私が一番美しいと感じたのは、バトームーシュ(バトー=船、ムーシュ=蝿)という名の
セーヌ川遊覧船から眺める冬枯れた川沿いの木々だった。
どの木も全ての葉を落としており、その幹と枝の直線または曲線だけが、
どんよりとした冬空に黒々とその存在感を放っていた。
生命の息吹を抜き取って尚、その生命力の存在をしっかりと体現している、
木という植物の普遍性というか、逞しさ、力強さを誠に美しいと感じた。
鋭角の風を顔面に突き刺しながら歩く・・・。
一年の最後の月という若干の感傷と、これからやってくるクリスマスの賑わいと、
町に溶けるカフェでの人々の日常が、旅というよりは、散歩という風情で、
初めての街とは思えぬ気軽さを増長させた。自由を感じたといってもいいかもしれない。
パリは「花の都」といわれるが、私の第一印象は、「気侭な都」
*私達の母娘旅は、この、冬の巴里が第一弾でした。
これだけ人気のある有名な街なのでいろいろな穴場をご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、
私はセーヌ河畔が非常に気に入りました。
また、母娘共々絵が大好きなため、美術館巡りに精を出しました。
美術館には学校の先生に連れられた子供達がたくさんおり、熱心に絵の前でいろいろな話しを聞いていました。
模写をする画学生とおぼしき人も多く、美術館が全く特別な場所でなく、生活に密着しているのを感じました。
現代における文化というのは、決して特定の人達のために存在するのではなく、
私達のような普通の人々の間で育ち、培われていくものなのだと納得したものです。
中学生の頃に憧れていたモネの睡蓮の間のある「オランジュリー美術館」
これぞ美術館という「ルーヴル」
駅舎だった建物を流用し、印象派の粋を集めた「オルセー」
静かな佇まいの邸宅の中にある「マルモッタン」
そして、私が最も惹きつけられる画家の、絵に限らずオブジェも収蔵した、マレ地区にある「ピカソ美術館」
巴里の冬は、歩き、カフェで体を温め、また歩き、美術館を巡るのに最高の季節。
12月上旬から中旬にかけては欧州へのフライトも、非常に安価なものが出ているためお薦めです。
10月23日 〜 印度 6 〜
長旅の夜行列車はついにカルカッタに吸い込まれた。
私達の旅の終着地に、である。
1等の相方と合流し、駅より、濁流のガンガーを渡って市中へと移動。
とりあえず、いつものように安宿の集まる界隈に向けてリクシャーは走る。
さすがに長旅の疲れで、どこでもよいから昼間の内に寝床を決めようと、
ボラレルのを覚悟で敢えてドライバーに宿を紹介してもらう。
着いたホテルの前庭で、相方が「あっ!」と声をあげ指をさした。
目をやると、なんとなく見覚えのあるような後姿の二人組・・・
嗚呼、なんということか、この広いインド亜大陸で、大学の同じ学科の○野君、星○君に遭遇!
彼等は、私達の友人でもある。非常に面白い輩で、この上なくバイタリティー溢れる両君である。
偶然の再会を異様な程喜び合ってしまった。
彼等もインド亜大陸に卒業の記念を刻んでいたのである。
彼等は上半身裸、下半身にインドの男性が身につけるサロンを巻いたりしている。
顔も体も真っ黒に焼け焦げその上若干?薄汚れた風貌。
彼等の旅も存分にインドの太陽に晒され、埃にまみれたものであったことは一目瞭然。
しかし、この懐かしい気持ちはなんだろう・・・
聞けば、帰国日が同じであった。
さもありなん。帰国直後に卒業式を控えているのだから、当時はそうそう便のないインドの地、
帰国が重なるのは大した偶然ではない。しかししかし、この広いカルカッタの町で・・・
この時、記念にと撮った4人の○大生の写真は、なんというか、
”灌漑の未発達な地に井戸掘りに行った同志達”のようである。
彼等の一人はいわきの名門進学校出身の硬派な高校球児で、大学ではモダンダンス部のエンターテイナー。
もう一人は、愛媛出身の猛者、どう見ても体育会系なのに、なぜか落研。
私達は夕暮れの町へと食を求めて出て行った。
カルカッタの町は聞きしに勝る混沌。多種多様な人々が渦巻いていた。
南と違い、ゆったりとした雰囲気はなく、物乞いもさらにその執拗さを増し、
ライ病とおぼしき人達の多さに驚きを隠せなかった。
北にのぼって来ただけに、チャイにはコクが出て美味しくなっていた。
南インドではカレーのお供がほぼ米であったのだが、北にくるとそれが、ナンであったり
もっと薄焼きのチャパティーになる。
カルカッタでは時間がなく、全く見るべきものを見ずに帰国前夜となってしまった。
そして、この地が私達の今回の旅で最初で最後のガンガー(ガンジス川)を見せてくれた。
聖なる聖なるガンガーを・・・
帰国の途に着かねばならぬ朝、妙な安堵感が私を包んでいた。
大袈裟であるが、苦しい旅でもあった。
潔癖症の気がある自分にとって、溢れ出る好奇心と潔癖症の葛藤が、
いつも目の前にぶらさがって私を困惑させた。
印度訛りの英語が、私の人生初のネイティブイングリッシュ?との長期間の接触だった。
今でも”R”を強い息の巻き舌で発音されると、頬がゆるんでしまう。
さて、搭乗した飛行機は抗うこともできずに上昇してゆき、魅惑の大地が遠くなる。
安堵の直後に、涙がとめどなく溢れ出た。
悲しくて泣くことはほとんどない私の涙は、いつでも心の高ぶり、感動の為に用意されている。
かすむ大地を眺めつつ・・・その後のことは覚えていない。
*長きにわたった印度紀行にお付き合い頂いた皆様、ありがとうございました。
この後、バンコクで8時間のトランジットがあり、その間の空港内の冷房ですっかり風邪を引いたのか、
緊張が解けたからか、タイから成田へのフライトはジュースを飲むのも大変な程衰弱しておりました。
汚い風貌で実家に着くと、清潔なお風呂と1ヶ月心配してくれていた家族の笑顔が私を待っていました。
弱った体のまま、久々のお風呂でとにかく垢を落とし、横になると、体力の限界を突き破った気がしました。
熱が39度以上出ており、昏々と眠りました。
後日聞いたところによると、○大生は4人とも発熱等の症状が出たそうな・・・。
ほどなくして、4年間一人暮らしをした某県のアパートに母と共に行き、袴を着せてもらい出席した卒業式。
袖口から出る手が異様に黒かったのが笑えました。
慌しく過ぎた大学時代の最後の時間。仲間は各地へ散っていき、新しい生活がすぐそこに迫っていた。
10月10日 〜 印度 5 〜
マドラス(現チェンナイ)は南インド最大の都市。
トラブル発生。相方のお腹に異変。
微熱もあるということで、病院に行くことにする。
今までオートリクシャー(三輪バイクに箱がのったようなもの)しか使っていなかった我々が、
初めて、その名も”アンバサダー”というインド製の黒塗りのタクシーに乗る。
当時はインド政府がまだ外国に市場開放をしていなかったため、車といえばこのイカツイ、アンバサダーだった。
ドキドキしながら安ホテル(しかしこの旅で一、二を争う高級な一泊一人約400円)で紹介してもらった診療所へ向かう。
医師は大きな眼鏡をかけた小柄な男性で、施設は近代的とはいいかねるものだが、不安に感じるようなレベルでもない。
彼女が診察室に入り、ベッドに横たわる。私は急場しのぎの通訳として彼女の傍らに立つ。
問診とたしか触診をして、薬の処方箋を書いてくれる。妙に簡単に済んだ。
S:「ヴィールス性のモノですか?」
D:「ええ」
S:「だ、大丈夫でしょうか?」
D:「ノープロプレム」
そんな会話の後、少し離れた薬局に医師の処方箋を持っていき、水薬を受け取る。
彼女はこの日より数日間マドラスのホテルで日がなゆっくりしており、その間私は一人町をほっつき歩いていた。
ビーチで、おじさんが何ルピーかをとって自力で動かす手動式のメリーゴーランドで遊ぶ子供を眺めたり、フォート(要塞)、教会なぞへ行き、
またまたコロニアルなこの大都市をくまなく歩いた。
予定ではマハーバリプラムやカーンチプラムという村々を訪ねるつもりであったが、彼女の体の具合を考えマドラスに逗留していた。
ゆっくり足止めを食らえる旅はある意味究極の贅沢だ。
彼女のお腹がなんとか回復した頃、私達は北へ向かう夜行列車に乗った。彼女は1等、私は2等。
2等の夜行列車は三段式の寝台で、女性専用だ。板の上に寝ているような硬さで、何より夜の寒さに耐えるのが大変だった。
36時間程で私達の出国地カルカッタ到着の予定が遅れ、42時間かかってようやく着いた。
すっかり同じコンパートメントの女性達と意気投合し、夜行の車中は妙に安心できる場所となった。
昼間は駅毎に物売りが乗り込んできて、幾つか先の駅で降りていく。その間車内でサモサを売ったりチャイを売ったり。
なかには足のない子供もいて、両腕で自分を支えながら小銭をねだっていく。
車窓から見える景色は南インドの豊穣な水田と南国らしい椰子の木から徐々に荒涼としたそれに変わっていく。米作から小麦へと。
9月10日 〜 印度 4 〜
居心地の良いゴアを後にし、さらに南へ。
コーチンというかつてスパイス積出港として栄えた港町に到着。
ここではカタカリダンスという、南インドはケーララ州の踊りを何やらこじんまりした建物の
屋上にて鑑賞。なかなかのものであった。
コーチンを発ち私達が到達したのは、カニャークマリというコモリン岬の先端にある町。
北緯8度。これより先はインド洋とそこに浮かぶスリランカしかない。
まさに、インド亜大陸の最南端である。
ここはインドで唯一、海での沐浴の見られる場所、そしてベンガル湾アラビア海インド洋が
交わる場所、太陽が海から出でて、海に沈む場所である。
南下してくるに従って人々の顔はホリが浅くなり、肌はより黒く、鼻なんぞは私達と同じ位の
まん丸。アーリアからトラヴィタ系の顔へ移ってきているのがわかる。
チャイ(ミルクティー、当時一杯6円程)の味わいは北部のそれより薄く、コーヒーが台頭。
さて、そんなカニャークマリの町。小さく、一回りに1時間とかからない。町外れに
灯台があり、その灯台のてっぺんに登ると三方の海からの風が心地よい。優しい風だ。
毎日のカレー攻めにすっかり食傷した私に、チャイとオレンジは栄養補給の二大柱。
それでもこの町のカレーはなかなか美味しかった。メニューはマドラスミールといい、
ベジタリアンとノンベジのみ、どちらかを選ぶとまず大きなバナナの葉っぱが置かれる。
そしてパサパサご飯とスープ状のカレーが盛られ、おかわりは好きなだけ!
手でかき混ぜて食べる。自らの手が一番衛生的に信用がおける。
これにラッシー(飲むヨーグルトみたいなもの)を付け、約50円。
ゆったりとした町で、特別する事はない。
朝早起きをし日の出を見、灯台に登り暑さをしのぎ、サリーの鮮やかな色が海風になびくのを
眺め、夕方太陽が海に沈むのを見るだけの毎日。
さて、そろそろ・・・とマドラス(現チェンナイ)行きの夜行バスに乗る。
マドラスで相方が腹痛に倒れ、病院に行くという事態になるとは露知らず・・・。
9月8日 〜 印度 3 〜
飛ぶカニの話をしよう。
ボンベイから南下、ゴア(ポルトガルの植民地だった町)に電車、バス、船を使って入る。
アラビア海にのぞむこの町は旅行者のオアシス的な所である。
欧米のヒッピー達が集い有名になった為インドにしては西欧的である部分と、ゆったりインドが混在している。滞在し易い場所だ。
ある夜、私達二人はそこで知り合った日本人の同じ卒業旅行のK大生達と共に海辺の散歩をしていた。月夜・・・だったと思う。
砂浜にあいた無数の穴から小さなカニが顔を出しては波と戯れていた。
カニをちょっくら驚かせてやろうと、ダッシュでカニに近づきカニの傍でストップすると、
彼らはなんとポーンと5m程空を飛んで避難するではないか・・・
空飛ぶカニなんぞ、生まれて初めてだ。私達総勢6名は我が目を疑った。
彼らの足にはそんなバネが付いているとはとても思えず、かなり華奢なのだ。
何度も何度も繰り返し数多のカニ達をダッシュで追い込む。
飛ぶ、飛ぶ・・・ものすごい。カニが飛び交うカラングートビーチの夜。
ちなみに昼間は牛たちが捨てられたニュースペーパーをもくもくと食んでいた。
恐るべし!ゴア・・・
ゴアを去る前にもう一つ真夏の湘南でも静波でも(←誰も知らんか・・・)なかなか味わえないエピソードを・・・
まずビール。ここではキングフィッシャーというキツツキ柄?のラベルの瓶ビールを飲んでいた。
冷たく冷えたそれはおいしいのだが、ビーチの物売りのおばちゃんたちはものすごく正直者らしく、
頭の上のカゴにのせて売り歩くそのビールを、
「ホッビアー、ホッビアー(Hot Beerですね、ハイ)」と言いながら売りにくるんです。←意味深な笑顔つき。
そして、その通り、ホットなんです、ハイ。味は・・・不味いです。
そんな彼女達、海から上がって現地調達したばかりのビーチサンダル(現地価格200円位=ここではかなり高価です。
ボラレタのかもしれません)を脱いだ場所でキョロキョロ探す私の所に4,5人集まってきました。
私の真新しいビーサンは見当たりません。近くにあるのは擦り切れた、そして黒く足型のついたビーサンのみ・・・
彼女達は英語がしゃべれないらしく一生懸命私にジェスチャーで情報提供をしてくれます。
曰く、「男が、あなたのビーチサンダルと履き替えて、あっち(バーガービーチの方)へ逃げて行った」
・・・唖然・・・
やけた砂は熱く、私は術なくお古のビーサンを取り敢えず履くことにした。妙に足に馴染んだが、黒い足跡は気になった。
その後、結局新しいビーサンを買う太っ腹さはなく、帰国までそれを履いていた。
習うより慣れろ?とはこのこと、ではない。
しかしまあ、履き替えて自分のお古を残していくあたり、律儀といえないこともないではないか・・・。
実際、この数年後に再度訪れたインドの北部の町では、街角で、擦り切れたタイヤを切ってサンダルの底に
貼り付けている靴屋さんを発見した。インドのリサイクルは半端じゃない。
さて、もっともっと南へ行こう!
*インドにおける動物について
牛はとても神聖なる動物です。なんでも神様の乗り物だそうで、
よく聞く話ではありますが、本当に彼らの牛に対するケアの仕方はすごいのです。
そして、その牛さん達なのですが、漆黒の毛並みが美しく、まなこは純粋そのもの
ものすごく愛らしいんです。かつ崇高な感じなんです。それはもう・・・
あの瞳を見ただけで此処へ来て良かったななんて思っちゃうんです。
ヤギさん達は細い塀の上を器用に歩いています。悠々と・・・
でもヤギさんのまなこはやっぱりヤギで、上瞼は直線的で動かず、下瞼が弓形をしていて、なんというか、
なかなか本当の自分をみせない不気味さがあります。
そして、象さんですが、ガネーシャというヒンズー教のシヴァ神の息子がこの象の形をしています。
神様なんですね。極彩色のガネーシャの絵はまさに此処が異国であることを認識させてくれます。
ヒンズー教についてはとっても楽しいお話しがたくさんあります。今度インドに行く時は、
宗教をテーマにしたいなと思っております。
8月30日 〜 印度 2 〜
ボンベイはインド経済の中心都市だ。英国植民地時代の名残がそこかしこに見て取れる。
インド門から小船に乗り、エレファンタ島という石窟のある島へ渡る。
顔の3分の1位の大きな目を持った赤ん坊がこちらを凝視している。
インドの子供達の顔は、それはもう愛らしく、そして非常に利発そうである。
どこへ行くかは全く決めずにインド入りした私達。
限られた1ヶ月程の時間の内に出国地であるカルカッタに辿り着くよう、
次はどこに行くか?と高級ホテルであるタージマハルホテルのパティオ(中庭)で
くつろぎながら考えていた。(もちろん宿泊はしないのである。しばしの喧騒を避け
寛ぐだけ寛ぎ、清潔なトイレでペーパーのお裾分けをしてもらうのだ。)
南へ下るか?北上するか?有名な観光地が集まるのは北。
・・・素朴な漁村を巡るべく、私達は南を目指すことにした。ビーチ族への道である。
ボンベイでは、非常に親切な我々曰く”バンクオブトーキョーおじさん”の話を抜きには
できない。
ボンベイの街角で、地図を広げ仁王立ちの極東女子大生2名。T/Cを現地通貨に両替
するため東京銀行を探していた。仁王立ちの足には、それぞれ男のこと女のこが
一本の足に一人ずつしがみついて、喜捨(バクシーシ、バクシーシという)を乞う。
お金を意味無く恵むことは禁物だ。何故なら私達はこの国の状況をよく知らない。
そして、物乞いをする子供はとてつもなく多いからだ。
困っている私達を見兼ねた紳士然とした男性が、どうかしましたか?と声を掛けてくる。
人の足元を見てはいけないが、足元を見るのは旅先では結構正しい行為である場合が多い。
彼は靴下に餃子靴を履いていた。よし、大丈夫だ!
「バンク オブ トーキョーを探しています」
「umum、ついて来て下さい」
彼はものすごい速さで人ごみの中を歩き出した。途中くるりと踵を返し、
「ちょっと急ぐけどちゃんとついてきて下さいね」と眼鏡の顔が笑顔になる
スタコラサッサという表現がこんなにマッチする事は他にないだろうと思う程
スタコラサッサと歩き続ける。15分ほどの競歩の後、彼は
「ここです。では、ちょっと急いでいるので・・・気をつけてね」
と名前も言わず、またくるりと踵を返したかと思うと、今来た道を競歩で戻って行った。
8月29日 〜 印度 1 〜
24:00ボンベイ到着(現ムンバイ)
入国審査を抜け、背の高いインドの空港警備兵のような人達の間を抜け
あきらかに彼らと比べてのっぺりと平面的な顔をした極東の女二人が歩く
ここでもツーリストオフィスにてホテルを予約してもらい、
白タクの多い国らしいシステムとして、行き先を言い空港にてタクシーチケットを購入、
それをドライバーに渡すとその他の追加料金等を一切払わずに先払いの金額のみで
行き先に到着できる事になっている。これは便利だ。
私達を乗せたドライバーはインド人の中でもかなり痩せた男性で、
くせ毛の少し長めの髪が全開の窓からの、バンコクよりは涼しい夜風になびく。
風邪を引いているのか、持病なのか、頻繁に咳をしている。
どこか頼りなげな印象を持ったが、チケットを渡しボンベイのマリンドライヴの
景色を楽しみながら、街のにおいを嗅いでいた。
ドライバーは道がわからないらしく、裏の路地に入っては車を止め、
闇夜からこんな時間にこれでもかという数の白い装束を纏ったインド人が
どこからともなく現れて車を囲む。ドライバーの彼が私達のホテルの場所を尋ねているのだ。
一人の男が私達に、車を乗り換えたらそのホテルに自分が連れて行くと言う。
おかしな事を・・・小一時間車で迷った彼はその申し出を受けるよう勧める。
そうはいくものか、あなたは責任を持って私達をホテルに送り届ける義務があるのだ。
でなければ、先程のチケットを返してくれ!と主張すると、白装束の男たちが口々に
ドント アングリー マダム・・・と連発する。(マダムとはここでは敬称として使われる)
アングリーにならない訳がない・・・が、男は相変わらず空咳をしている。
不憫にも思うが、付け入る隙を見せてはいけない。人に尋ねてでもちゃんと私達を
ホテルに連れて行くようドライバーを諭した。疲れる国だ・・・これが第一印象。
何とかついたホテル、ドライバーはチケットをなくしてしまったらしくお金をくれという。
ここでも彼がウソをついているとは思えず、不憫に思うが、これも彼のミスである。
お金は払わないと強調し、タクシーをやっとの思いで降りる。
私達を待っていた安宿の天井には、湿った空気をぐるぐるとかき混ぜ続けるシーリングファンが
疲れた音をたて回っている。入国第一夜はいつも眠るのみ。
8月6日 〜 タイは微笑みの国、これホント 〜
いきなりの見ず知らずの方のお宅滞在
タイの料理は私の口に合わず悪戦苦闘
それを見かねた弟がマカロニ料理砂糖たっぷりを作ってくれた。
ああ、ありがたや〜。しかし砂糖は何にでも入れる。
コーラに、タイ版かっぱえびせんに・・・恐るべしタイ人の舌。
仕事のあるアンに代わって大学生の弟が私達を友達の家やら
観光地やらへ案内してくれた。
感謝感激の毎日。
ワットプラケオ、チャオプラヤ川、ワットベンチャマポビット...
家の裏で滞在中の汗を洗濯。タライでじゃぶじゃぶ。
庭にあるまだ青きマンゴーの実を塩を付けて食す。きしきし。固いが旨い。
午睡の後のお散歩、熱風の中毒々しい赤のミリンダ。ゴクゴク。
バンコク最後の日。
今まで私達を警戒していたかに見えたおばあさんが何かをタイ語で言っている。
別棟におばあさんと今は寝たきりのおじいさんの家があり、そこへ私たちを導く。
階段がきしむ。床は心地よく乾いており、裸足の足の裏に妙になじむ。
2階で老婆は延々タイ語で話し続ける。1時間程か、とどまることなく・・・
おじいさんの若き頃の写真を見せてくれる。何と言っているかさっぱりわからずとも
おばあさんの言いたい事はしっかり通じる。私達の思いは涙を媒介して彼女に伝わる。
これを何ラングェッジといったらよいか・・・?
ノスタルジーという言葉があまりに陳腐と思えるほど懐かしく、心震える時の流れだった。
このことは、あの乾いた床の感触と共に一生忘れないだろう。
別れは辛い。この別れはものすごく辛かった。
インドへなんか行くなという。ずっとここにいればよいと。
しかし、私達はインドへ向かう。
おばあさんが手縫いの巾着の中に幸せの9バーツ(バーツはタイの通貨単位)
を入れ、2人にそれぞれ手渡してくれた。今でも私の宝物。
親切にしてくれた家族と大学生の友人達がみんなで空港まで見送ってくれた。
ここバンコクに着いた時、途方にくれた私達が、
今出発の時、涙にくれている。
旅とは出会いと別れの繰り返し。
わかっていても涙は出る。
エールフランスは行く、じりじり熱くムシムシ暑く、そして温かきバンコクを発ち
ムンバイヘ、印度へ・・・。
8月5日 〜 印度、じゃないのだ 〜
地球儀をぐるぐる
右手の人差し指
捉えたのはインド亜大陸
卒業旅行のデスティネイション
初めての一人旅
のつもりが友人便乗
それもよかろう
格安のエアーチケット14万、旅行期間1ヶ月
荷物は小さなボストンバック1つ
成田発、バンコクでトランジット3時間
その日の夜中にボンベイ(現ムンバイ)着
のはずが、落とし穴
旅行会社のミスでバンコク足止め
タイの物価も知らなければ地図もなく、既に宵闇
エールフランスの空港オフィスで必死の交渉するも、
決裂
金曜の夜にバンコクの街に放り出され
次の便は水曜日だという。
呆然
ま、仕方あるまい格安航空券の身
なんとかツーリストオフィスで一番安いホテルを予約し、
ワゴンに乗り込む。バンコクの夜は蒸す。
ワゴンのドライバーの提案で(騙しともいう)
別の更に安いホテルに変更、到着するとホテルの部屋は天井すべてが鏡張り。
怪しい、がこちとら飛行機と待ちと交渉疲れでとにかく眠りたい。
枕元には黄色い水の入った水差し。飲用らしい。
朝起きると下に澱が沈み上澄みは飲めそうな透明をしていた。
明けて土曜日、途方にくれる女子大生2名。状況は変わっていない
ただ街が太陽の下に明るく更に暑く膨れ上がっているのみ。
仕入れた地図片手に今後5日間の滞在計画
こぎれいで親切そうな笑顔の可愛い女性に声をかけ、アドバイスを求める
いつしか昨日から今日までの身の上話に花が咲き、
では、しばらくうちに身を寄せれば・・・とありがたきお言葉
一緒に北へ向かうバスに乗る。
名前はアンといい、彼女の家はかなり裕福な層であると思えた。
姉とアンと弟、アンパンマン好きの妹の4人兄弟。
お父さんは単身赴任中。お母さん、そして寝たきりのおじいさんと
彼を見守るおばあさん。そこにいきなり極東の女2人。
7月12日 〜Granadaシリーズ3〜
満月の夜、月とアランブラの饗宴
午前三時、Plaza Nuevaで昼間交渉しておいたタクシーへ乗り込む。
目的地到着。まずは深呼吸。
月光浴のアランブラ、しかし時間がない。
全景をカメラにおさめる。
三脚もない。
シャッタースピードを長く設定し、脇をしめ、数秒動かぬこと数十回。
タクシーのセニョールに待ってもらうこと十数分。
奇妙な日本人セニョリータ。
一方、昼のアルバイシン。
コーヒー優勢のスペインで、Teteria(お茶を飲ませる店)からアラブ音楽が舞ってくる。
カップを傾け、しばしの涼。
一人旅にアラビアの調べはあまりに心地良く、髪結いの亭主の気分。
*グラナダシリーズもこれにて最終回。思い入れが強すぎるのも考えもの?
書きたいことが多すぎて多すぎて・・・
イトオシクテ仕方がない町。
危険、ここに居たらもう帰れなくなる。
人生2度目のグラナダを後にした。
♪お勧めの本♪
・「アルハンブラ物語」 W・アーヴィング著
でき得れば、このおとぎばなしを灼熱の太陽が照りつける夏、
アランブラの葡萄酒の門の日陰(La Sombra)を借りて読まれたし。
いと涼し。心地よし。
・F・ガルシア・ロルカの詩集
「三つの川のバラード」から一部抜粋
〜El rio Guadalquivir va entre naranjos
y olivos.
グアダルキビール川はオレンジとオリーブの間を流れる
Los dos rios de Granada bajan de la nieve
al trigo.
グラナダの二つの川は雪から小麦へと下る
!Ay, amor
que se fue y no vino!
ああ、愛よ。去りゆきて二度と戻らなかった愛よ。
El rio Guadalquivir tiene las barbas
granates.
グアダルキビール川は暗い紅のひげをもつ
Los dos rios de Granada uno llanto y
otro sangre.
グラナダの二つの川は一つは涙、一つは血
!Ay, amor
que se fue por el aire!
ああ、愛よ。空へと消えていった愛よ。
・・・・・
7月4日 〜Granadaシリーズ2〜
アランブラ、ヘネラリフェ。
糸杉の高く空にそびえし。
かぐわしき香り。夏の音。
満月を映し、そこに在る自然の全てをとりこんだ舞台
夕闇から宵闇へ、全てが約束されたかのような時間。
ある夜はしなやかなる身体の躍動、
そしてある夜は心の叫び、永遠に終わることなきカンテ・フォンド
またある夜は老ピアニスト、円熟のグラナドス
全ては夢、強烈な夢、華麗なる。
刻印された私の肌に、組織に、記憶に
幾年月が経とうとも忘れえぬ真夏の夜の夢
*グラナダ国際音楽祭(Festival Internacional
de Musica y Danza)
毎年6月下旬〜7月上旬にグラナダで開かれる歴史あるスペイン屈指の音楽祭。
その演目の大部分は、この世のものとは思われぬ美しき夜のアランブラ宮殿内にて。
昼間の射すような日差しを裏側において、それから全てが始まる・・・
〜1994年の音楽祭はUradimir Ashkenagy(ウラジミール・アシュケナージ)
のピアノで始まった。彼のショパンが好きな私は当然この機会を逃したくなかったのだが、
Malaga(マラガ)での授業を終え、グラナダに到着した時、それは既に終わっていた...。
第一夜、バレエローザンヌ 〜ヘネラリフェ庭園にて〜
満月(Luna llana=ルナ ジェナ)を鏡に映し、亜・前衛的な舞台は始まる。
その体躯が自然の一部となり、ヘネラリフェの庭に溶けた。
第二夜、フラメンコ100 〜ヘネラリフェ庭園にて〜
永遠に続く魂の声、心の一番深い部分を揺さぶるカンテは、
幕間に町の夜景と夏の音をつまみにいただく赤ワインを血に変えるが如く強烈な鼓動。
夏の夜風に体が冷え切ってしまうほど”宴”は続いた。
第三夜、アリシア・デ・ラロチャのピアノ 〜カルロスX世宮殿にて〜
80歳を超える彼女の堂々たる体格、細やかかつ力強いタッチのグラナドス
グラナドスのその情熱的で異端の香りのする音楽がカルロスX世宮殿を威圧する。
私が1994年にチケットを求めることができたのはこの3つ。
キャンセル待ちをしてなんとか手に入れたかったカラムス(ジャンル的には、Al-Andaluz
=アラブとアンダルシア音楽の融合=のバンド)の小さなアラヤネスの庭園での演奏は、
何度も足を運び拙いスペイン語でどうしても聴きたいのだと熱弁をふるったにも拘わらず、
チケットを手にできず聴けなかった。
悔やみ切れずせめても、とグラナダの町でCDを購入。
これを聴くと今でもあの1994年初夏のグラナダの空気を肌に感じあの香りを鼻腔に充満させ、
そして、あの空間へトリップすることができる。
次のLa puerta(扉)の向こうには、Granadaシリーズ3が…。
6月28日 〜Granadaシリーズ1〜
グラナダ2週間。
バスで片道2時間。
疲れたサスペンション、ひまわりの畑を抜けて。
眼前に海は遠ざかり、
密度の濃い重い空気。
水の音色に引き寄せられ上るゴメレス坂。
現実と夢物語が交錯する光遊び。
湧き出でる水のDuendes(妖精たち)の園。
*Granada
スペイン南部アンダルシア地方の都市。
シエラネバダ山脈の麓、乾いたスペイン南部の中で水に恵まれた情緒漂う町。
ここにはAlhambra(アルハンブラ)宮殿という素晴らしき建造物がある。
レコンキスタ(国土回復運動)でイベリア半島を取り戻せ!とキリスト教勢力が
イスラムを駆逐した15世紀、イスラムの最期の砦となったところ。
最後の王の名はボアブディル。イスラム建築の美しき宮殿の主。
そして、スペイン市民戦争に散った私の大好きな詩人であり戯曲家
F.Garcia Lorca(フェデリコ・ガルシア・ロルカ)の故郷であり天に召された地。
〜私にとってのグラナダは、
瞑想と哲学。そして、愛おしさと静寂。
迷宮は、アルバイシン、そして心。
夜のアランブラ(スペイン語では、H=アチェの発音をしないのです)
その美しき姿は満月の輝きをまとい、この世のものとは思えぬ午前3時。
真夏の夜の夢は続く、次の扉にて。