シルクロードの西の果て

キムチ売りのアジュモニ

   

 

 ぼくは思い切って声を掛けてみた。
「アンニョンハセヨ、アジュモニ(おばさん)」
 その女性は一瞬驚いた顔をして、キムチを皿に盛る手を止めた。
「ヴィ、カレーツ?(あなたは朝鮮族?)」
「ニェット、ヤー、ヤポニエッツ(いいえ、日本人です)」
 潮騒のようなバザールの雑踏の中で、ぼくはコリアンの女性に出会った。
 トルクメニスタンの首都アシガバートでは、町中で時折東アジア系の顔に出会うことがある。彼らの殆どはコリアンであった。

ミアシガバード郊外の日曜バザール  

   

   

 その女性は、バザールの屋台で、ビニール袋に入れた自家製キムチを売っていた。客寄せの声を上げることはないが、その前には客が途切れることがなかった。暖かそうな毛皮の帽子で頭をすっぽりと覆っている。ぼくは、いくつかのハングルの言葉を思い出して口にしてみたが、挨拶以外ほとんど通じないらしく、ただロシア式の名前を聞き出すことしかできない。
 なぜ彼女はここにいるのか。なぜ半島ではなく、トルクメンで生きているのか。ぼくは彼女のことを知りたいと思った。前に立ってアジュモニを走り描きしはじめると、周りに人が集まってくる。人垣の中から英語を解する若者が現れ、通訳を買ってでた。アジュモニは仕事の手を休め、ゆっくりと語り始めた。

ミバザールで描いたノートより  

   

 

「私はハングルは話せない」そう言って彼女は淋しそうな顔をした。私の父も母も朝鮮人だった。タシケントの人だった。その前……、その前は沿海州だよ、まだ若い父はある時、列車でシベリアを越え永い旅をしてやってきた、母とはそこで結婚し私が産まれた。その両親も、故郷を再び見ることなく亡くなった。私がここに来たのは1974年、夫もコリアンです。
「ハングルを使うことはなかったのですか」
「家で祖国の言葉を喋ることはほとんどなかった。私は産まれた時からロシア語だった。両親から言葉をもっと聞いておくんだった。でもハングルを捨てた親の気持ちも今は解るよ。私は朝鮮に行ったことはない。でもね日本の方よ、私は今は十分幸福なんです。家族と一緒に暮らしているから」

ミアシガバードの絨毯工場  

   

 

 そう言って彼女は、ぼくの方を見て微笑んだ。(話すことはこれで全部よ)とでもいうように。
 そういえば、本で読んだことがあった。第二次大戦中の朝鮮人の強制移住のことであろう。日本の侵略に危機感を持ったスターリンによって、「スパイ予備軍」とされたコリアンたちが、生まれ育った地から引き離され貨車で(!)中央アジア各地に連れ去られた。いわゆる「三七年問題」である。サハリンやロシア極東部から、或る人びとは田畑の収穫を目前にして、或る人びとは家族の安否の確認すらできぬままに、五千から七千キロの旅に――有無を言わせず、その行方すら聞かされずに――出たのであった。その数、およそ十七万人。沙漠地帯では、苛酷な自然の中で綿花栽培や潅漑など慣れぬ仕事に就かされて、倒れた人も少なくないと聞く。

ミヒヴァのホテルでのノート  

   

 

 バザールの雑踏の中で彼女は、キムチを一掴み包むと黙ってぼくに差し出した。
 慌てて「ジェニギ?(お金は)」と訊ねると、(いらないよ)とゆっくりと首を振った。
 キムチは冷たく柔らかい感触で掌に乗った。ぼくは思った。1910年の日韓「併合」がなかったら、彼らコリアンの受難は、或いはなかったのかもしれない。それ以降の離散や北部への逃亡が極東ロシアのコリアンの多くの部分を生んだとすれば、日本人は無関係といえるだろか――と。
 アジュモニはもう黙っていた。
「カムサハムニダ」
 ノートを閉じてぼくは彼女に礼を言った。
 バザールの出口で振り返ると、ぼくが来る前と同じように、フローラさんの屋台の前には人影があり、その中で忙しそうに、しかし確かな手付きでキムチを詰める彼女の姿が見えた。

ミ中央アジアを行く国際列車の車両  


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