青藏(チンツァン)高原。それは地球最大最高の高原。 四年前に黄河源流を訪ねて高山病に罹った時ぼくを介抱してくれた一人のチベタン青年を訪ねて、99年9月再び東チベットを訪れた。今回は四川省アバから長征ルートを通るコースをとることにした。 ミ狭義のチベットは日本の約3倍強の面積、だが「チベット文化圏」としての青藏高原は遥かに広くなる。青海省のすべて・四川省・雲南省の一部、更にネパールやインド北部までがすっぽりと入ってしまう。 どんよりした曇り空の下、長江支流の黄濁した河に沿って列車は走った。西安から成都まで842キロを18時間。駅前では物乞いの人や、酷く汚れた半裸の身でうずくまったまま動かない少年を見る。 ミコンピュータ発券されるようになった寝台切符 成都交通飯店ドミトリに投宿すると、フロントに行方不明の日本人学生を探すポスターがある。 成都からバスで北上し、アバ州・松播(ソンバン)を目指す。四川省には青藏高原の東端辺縁山塊が浸入しており、西半分はチベット世界だ。紅軍の長征は、1935年8月、ここ松播で最大の難所を迎える。張国寿らの第四軍と分裂した毛沢東ら第一軍は、果てしなく続く湿地に踏み入る。立ったままで眠る行軍で、飢えと寒さから次々と死者が出たという。ままから ミ旅の道連れたち 松藩からの馬上トレックではポーランドとスロベニアの学生と一緒になる。辺縁山塊のダイナミックな眺望を楽しめる1〜3泊のコースだ。明け方は曇天で入山したが、峠で霧が晴れて雪宝頂が現われると歓声があがった。 ミ松藩近くからの雪宝頂の眺め。馬上トレッキングにて
黄河・長江・メコン・プラマプトラ・ガンジス・インダスの大河はみな、ここを源とする。
東西2500キロ、南北1200キロ、総面積230万平方キロ(日本の6倍)で、平均標高は4500m。酸素は平地の2/3、過酷な大地でチベタンの人びとが暮らしている。
テーブルがあるとする。そこに掛けられたテーブルクロスの下に丸い盆を差し込み、その盆ごとグーッと持ち上げる。周縁部をピークにした巨大な台地が出現する――青藏高原とはそんなイメージだ。実際にはゴンドワナ大陸(インド亜大陸)の北進による衝突で縫合線の北側が押し上げられて高原や山脈が形成されたと考えられている。

いつも思うが、四肢損傷で物を乞う人を、どうして「社会主義」が解決しえないのだろうか。駅では「なにもせずにいる人たち」が多い。ただただ座っている。又は地面に寝ている。男も女もそして幼児も。
国営企業改革で膨大な数の失業者が都市にも農村にも溢れている。戸籍制度の改定によって都市への流入に対する制約が少なくなったこともあって、産業革命時のエンクロージャーよろしく、内陸からは沿海部へ、農村からは各省の省都へと大移動が続いているのだ。家財道具を土のう袋やトランクに詰めて家族でターミナル駅に着いたものの、そこから行くあてもなくただただ駅前で「待ち続ける」人びとがいるという。
その一方でセフィーロやセドリック等の高級車に乗り、携帯電話で話す人びとが増えている。日本車などは年収の20倍に近いのに。都市で目にする「貧しさ」は、その格差を痛感せざるをえないがゆえに耐えがたい。早く田舎へ行きたいと思うのはこういう時だ。田舎の「貧しさ」には、この絶望的な断絶がないからだ。
ミぼくがこれから乗る馬

カイラス方面で姿を消したという。一人は京都大学の院生。親のメッセージ「私たちは首を長くして○○の帰りを待っています。」とある。だが、すでに1年4ヶ月が過ぎている。生存の可能性はあるのだろうか。……ふと、自分が親であれば、こんな旅をどう思うか、どう思って送り出しているのか、と考える。初めて実感する「もう一つの視点」だ。
紀元前二世紀に築造されたダム・都江堰を過ぎてバスがいよいよ高原にさしかかった時、五体投地で進む若者を追い越した。その時運転手はバスを停車させた。すると乗客たちは窓から身を乗り出して、ボロボロの衣服のその青年にお金を渡した。彼はそのままラサを目指すのだろうか。
ミ裸麦が“はさかけ”されている村。馬上トレッキングにて。

あたりはナンス(小麦)とチンコー(裸麦=主食ツァンパ原料)、フダオ(豆科)の段々畑。ちょうど刈り取りの最中。ここは標高2700mだから比較的植生は豊か。だが4000を超えると作物はほとんど育たず、人はヤクに依存して生きるようになる。
馬に揺られながらワルシャワの学生アルトゥールと、アンジェイ=ワイダの話題で盛り上がる。「灰とダイヤモンド」「地下水道」は二人とも好きな映画だ、と頷き合う。ただワレサについては「彼はいい仕事をした。だが今はもうダメだ。ぼくらの国は“これから”なんだ」と強く言う。
夜、キャンプファイヤーをかこんで皆各々の国の歌を歌った。チベットのサポータが差し入れてくれた蒸留酒は強烈な強さで、皆の顔を紅く染めた。
スロベニアのマリアとロマーナが歌った曲の最後には「美しきリュブリナ!」という歌詩があった。
ぼくの隣に座ったロマーナは、「古い町が好きならぜひスロベニアに来て! ボービン、ブリット、イゾラン、特にピーランは美しいんだから」と熱く語った。ぼくは、焚き火の炎を頼りにメモをとる。
「91年の独立の時、君は大丈夫だったの?」
「独立の時は爆弾が2つ落ちて報道施設が狙われたわ。独立は待ち望んでいたこと。改良する機会を持てたんだもの。今、国内人口のうちスロベニア人は60〜70%。セルビア人も残ってはいるけどあまりいい印象を持っている人は少ないわ。でも彼らだってスロベニア人だって、いい人もいれば悪い人もいる。それを見分けるのはむずかしい。どこの国でもそうじゃない?でも間違いなく私はスロベニアを愛している。だって私が生まれた国だもの……」
ミポーランドとスロベニアの学生たち。
左からアルトゥール、マリア、アーカーシュ。フィールドノートより
→ゾルゲから紅原への道
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