東チベット再訪 Vol.3
山上のチベット僧院にて
スケッチと文/渡邉義孝

   
   

 

 

 天気もよく卓克基(チョクチ)を離れがたく、公路に戻る橋の上で歩をとめ、欄干に座り込んでポストカードにスケッチする――。
 紅原からマルカムへの途上、美しいチベット民居があるという卓克基で下車した。「チベット民家」と言っても地方によって様式は異なる。ここアバ州のそれは、完全には塗りこめない石積みで、開口部のくま取りが下広がりの台形をなすところに特徴がある。躯体としては陸屋根の直方体だが、たいてい屋上に片流れの上屋を設けていた。ラサ近郊の極度の乾燥地帯と違って一定の降水量があるからだろう、雨仕舞には気を使っているようだった。

 どこからかチベット少年僧が3人近づき、見守ってくれていた。スケッチを終えて彼らの写真を撮らせてもらうと、「いつか写真を送ってくれますか」と聞いてくる。「来月帰国したら送るよ」と応えると住所を記した。そしてこう続けた。
「私たちの寺はこの先の山の上の洞の中にあるのですが、実は明日“祝会”があるのです。興味がありましたら遊びに来てください」
「山の洞にある僧院」というのに心が動く。「祝会」とは何だろう。よし、誘いに乗ってみよう!

 その夜は10kmほど離れたマルカムの町に投宿。マルカム賓館を訪ねると服務員の少姐はそっけなく「40元(600円)の部屋しかない」。すかさず『旅行人ノート』の同館紹介欄の「15元〜」と書かれたページを見せると、途端に「15元の部屋もあるわよ」と態度を変えるのだった。
 一泊約220円。3ベッドある部屋を一人で占有する。シャワー室は稼働していないが洗面所で夜間、熱湯が出る。旅人たちはこの時間、部屋に必ず備わっている洗面器を持っていき、皆洗濯したり器用に身体を拭くのである。

ミ卓克基の民家をスケッチする(ポストカードサイズ)
ミスケッチしていたら話しかけてきた三人の僧

   
   

 翌朝、約束の時間より一時間早く、ぼくはタクシーを走らせ、登山口に着いた。公路にかぶさるような断崖に、細いトレイルが延びている。ちょうど入山しようとしていた二人の少年僧に声をかけた。昨日の3人ではなかったが、既にぼくのことは知っていて、一緒に登ろうとあいなった。
 渓流の傍には密数行者がこもるマニ小屋があった。暗い小屋の中を覗くと、水車の動力でφ1mほどの数本のマニが回転している。経文を刻印したこの円柱は、一回転させるたびに経を唱和するとの同じ功徳があるという。69歳の行者は、わずか3畳ほどの暗い室内で昼夜を分かたず祈りを捧げているのだ。
 更に登る。少年僧たちは常に足元を見て歩き、ミミズをみつけると立ち止まり、傍の土を掘って丁寧に埋めることを繰り返す。多いときは5分間に3回も。踏まれてしまわぬための慈悲心なのだろう。……その反面、のみ終わったペットボトルはポイと山道に捨ててしまうのだが。

 約1時間の急登ののち、毘盧寺に着いた。
 僧たちの言う通り、ここは巨大な岩窟の中につくられた祠(ラカン)だった。本尊千手千眼観音が奉られている。崖がオーバーハングするラカンの後はそのまま天然の洞窟で、奥に神水が湧いている。仏や神々がレリーフされた彩色石板が並んでいる。ここはニンマ派南流の寺で、グル・リンポチェの弟子が1300年前にチベットからやってきてここに僧院を開いたという。
 部屋には共産党指導者とパンチャンラマの写真が貼られているが、ダライラマのものはない。

ミ毘盧寺の祠のスケッチ

   

   

 岩龕の右側へトラバースすると、十数戸の小屋が岩肌にへばりつくように建っている。僧房であった。一人用、二人用があるが、いずれも自分で建てたという。一つの個室でダライラマの写真を見た。そこに住む少年は「彼はインドにいるんだ」と言った。胸のブローチでラマの写真を身に付けている若い僧もいた。
 少し離れた棚状の斜面に3張りのテントがあり、そこに二十数名の袈裟を着た僧たちが集まっていた。下は十歳位から、そして最長老はドルチェランダル(62)ラマ、なんと彼は活仏であった。

 ミスケッチブックを見る少年僧たち  

   

   

 

 

 

  テントの最奥に座ったラマはぼくを手招きして座らせる。そしてやさしい微笑をたたえ「ふうん、ふうん」と低い声で相づちをうちながら相手の話を聞く。
 通常、中国では筆談で会話をしているが、ここでは皆チベット語の経典は分かるが、漢字の読み書きができる僧は数名だった。選ばれた少年がぼくとメモを交わし、次いで彼はラマたちにチベット語で伝達する。
 それによると、ラマは以前、民族学校の校長を勤め、その後パンチョンラマ10世(1989年没)が北京中央佛学院の老師として招聘したがそれを辞退し、以後この山に入り、僧院を守っているのだという。
 「彼の肖像画を描いてくれないか?」との声がかかり、おやつをいただいてからスケッチブックに描く。失礼のないように、と思うと緊張する。左がその作品、なんとか喜んでくれたようでほっとした。がそれもつかの間、全員(27名)の似顔絵大会スタートしてしまう。
 途中、日光が差してきたところで、皆が正装して斜面で頌歌曲を演奏。その写真を撮らせてもらった。これはたぶんぼくのためであろう。チベット僧は、だれもが音楽家である。太鼓・銅鑼・喇叭・シンバルなどを手に持ち、声明(しょうみょう)を唱えながら演奏する。

 ところで、修業僧である彼らがなぜ、こうしてテントに集い、茶を飲み交わし、ぼくのような者を相手に何時間も過ごしているられるのか、その疑問が溶けたのは、もう山の端に日が沈む頃だった。
 一年に一度、夏の約3カ月間、彼らは全く下界に降りず(食料買い出しもしない)、日曜の休みもなく、一心不乱に経を学び続ける期間がある。そしてそのハードな修業の終わった後の二日間、寺院を出てテントを張りそこで「無礼講」の宴――酒もタバコもないが――を行うのだ。それがちょうどぼくの訪問日であった。

 テントに戻るとラマが財布からお金を出させている。「今から誰か下山させて買い出しかな」と思っていたら、何と50元をぼくに渡そうとするのだ。
「これで写真と肖像画のコピーを送ってほしい」
 押し問答の末、断りきれず、受け取ってしまった。旅先でお金をいただくのは、アルマトイの神父以来の出来事であった。

ミ活仏ドルチェンランダル師
ミ「アラング」という喇叭を吹く僧。ブブォオーという音色  

   
少年僧の似顔絵

 

   

 大変な夜が明けた。雲は足元のはるか下にただよい、山々の頂きが続いている。
 7時。すでに外では「ザックザク」と斧で薪を割く音がする。
 ……昨夜22時過ぎから降りはじめた雷雨は次第に激しさを増し、天空を引き裂くようにすさまじい閃光(オッ)と、数秒遅れで大地をふるわせる雷鳴(ムジク)が響く。白いテント布からは水滴が滲み落ち始める。僧たちは一番良い毛布と布団をぼくに与えていたが、やがてそれも濡れ始めたため、別のテントに連れていかれる。床は草地の上にカーペットを敷しているだけなので、テントのすその方から滲みてくる。少しずつ背中が濡れてくるのがわかる。毛布を畳んで半分を下に敷きこんで体を横にして眠った。30分毎に僧が頭上の布にたまった水を押し出してくれる。彼らの献身のおかげでもあったが、「それでも人間は眠れるものなのだ!」と驚いた。まあ、長征の苦労を思えばなんてことはないのだが。

 朝になると僧たちはケロリとしていた。
 もう朝食の支度はできていた。バターをたっぷりのせたツァンパをいただく。碗をそのままぺろりと舐めててしまう僧もいる。

 9時半。僧侶たちは正装してテントを出て、広く開けた斜面に並び、ブータルシュを先頭に頌楽を奏でた後、山頂に向かって五体投地し、経を唱える。それはラマと若い僧との問答形式となる。
 陽が差して濡れた草を乾かしていく。青空も覗く。高く飛ぶ鳥のさえずりと低く流れる経文。本当にこの風景は実在するのだろうかと思ってしまう。ちぎれた雲のかけらが頭上の頂きをまたいでは青空に吸い込まれていく。27人の僧たちは、これまでも、これからもこの懸崖の上で、仏と神への祈りを捧げながら仏典を学び、禁じられた思慕の思いを秘めながら生き続けていくのか。これもまた同時代なのだ。
 はるか下の公路を走る車のクラクションが遠く聞こえた。

 陽は高く登ってきた。ぼくは荷物をまとめる。一昨日スケッチ中に出会った三人、昨日一緒に登ってくれた二人と握手した。テントの奥のドルチェランダン活佛に改めて礼を述べる。たくさんの高山植物を踏み分けるようにして、一歩ずつ下界に降りてゆく。僧たちは見えなくなるまで手を振り続けた。

ミ少年僧の似顔絵
ミ僧侶たち


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