東チベット再訪 Vol.6
4年ぶりの再会
スケッチと文/渡邉義孝

   
 

市場ではこんなものが……

 四年ぶりに再会したチベット青年・カマコンボは、美しい妻を得て、民族中学の敷地内の教員宿舎に暮らしていた。前触れのない訪問だったが、ちょうど授業が終わったところだと言い、ぼくを部屋に迎え入れてくれた。

 1995年、黄河源流を見るために青蔵高原深くに入り高山病で倒れたことがある。その折にバスで下界に降りようとするぼくを看病し面倒を見てくれたのが彼だった。恢復したぼくは、別れ際に彼の顔を描いた。その時の「肖像画」を本人に手渡したい――それがこの度のチベット再訪の目的であった。

 四川省西部からここ青海省玉樹まで1750余km。ヒッチハイクとバスを乗り継いで13日の旅であった。海抜4000前後、峠では5000に近く、峨々たる雪山を背景に、高山植物の咲く草原には、巨大なヤクが群れなしている。地表ではあちこちでのナキウサギが走り回っている。世界最大最高の青蔵高原は、一面こんな風景が続いている。

ミ玉樹のマーケットで売られているもの

   

 

 不思議だったのは、カマコンボもその妻も、突然の来客にさして驚きもしないことだ。さっそく額に入れたカラーコピーの肖像画と写真を手渡す。双方見比べてひとしきりもり上がる。日荷を降ろしかけたぼくが「宿を町中で探さないと……」と言いかけると、「宿?ウチに泊まればいい。この居間のベッドでよければ」。ぼくはそーっと彼の妻の顔を伺った。すると彼女もにっこりと頷くのだ。嬉しくて言葉に甘えることにする。

 二間のみのその家の、彼らの寝室の壁にはダライ・ラマの写真があった。ほっそりとした白い顔の妻はカンドゥォユンツォ(25)。彼女が入れてくれる茶を酌みながらぼくらは昔からの友人のようにいろいろなことを話した。カマコンボは今年29歳、貧しい遊牧民の子として生まれた。隣家が数キロ先という土地柄から就学率は低く、小学校入学時に80人いた同級生は、卒業時にはゼロだったという。父の熱心な支援もあり、彼は一人で町師範学校に進み、95年に数学教師としてここ玉樹に赴任。

「ぼくを助けてくれたのは新米教師になった直後だったんだね」「そうだよ。君はバスの窓から吐いてばかりで弱っていたよなぁ」と笑う。

 

ミカマコンボとその妻、妻の弟と妹
ミカマコンボの家系図 

   

 夕食時には生徒が次々に顔を出す。遊牧世帯の生徒は寮に暮らしているのだ。現在でも玉樹州は全国でもっとも就学率が低く三割程度だという。
 「放牧生活だと通うのも大変だからなぁ」と言うと、「いや、親の思想観念が足りないんだ。このままじゃだめなんだよ」と真剣な表情になる。県政府に勤めているという妻は話には加わらないが、それでも筆談の文字につまるとそっと紙に漢字を書いて夫に差し出す。そのサポートで会話が復活すると彼女も満足げにほほ笑むのだ。

 彼の家での二日間はあっというまに過ぎた。カマコンボのバイクでぼくを案内し、チベット寺院を巡ってくれた。チベット仏教ゲルク派の活佛を訪ねた時は、彼は別人のように緊張し、二分間の面会を終えるとぼくも一緒に肩から大きなため息をつき、二人で顔を見合わせて微笑した。

ミ玉樹のジェグ・ゴンパ

   

 彼はまた、自分の上司である民族中学の校長先生の家にも案内してくれた。
 こういう時、電話がないから訪問は常に突然である。校長もカマコンボのそれと変わらない規模の教員宿舎に、妻と子どもと共に住んでいた何をおいても歓迎してくれるのはカマコンボの人徳のせいだろうか。
 「彼はどんな先生なのですか?」ニヤニヤするカマコンボを見ながらぼくが尋ねると、「わが校でもっとも熱意のある、そして生徒に慕われる教師です」と言う。
 この崔玉文先生(43歳)は漢族の父・藏(チベット)族の母を持つが、自身は「藏族だ」と言う。ちなみに中国人は、身分証としての「工作証」を携帯しているが、そこには民族を書き込む欄が必ずある。中国各地でこのように、少数民族との混血で生まれた場合、その少数民族の側に自身を位置づける人に出会うことが多いように思う。
 別れ際、「いつかまた玉樹に来ることがあったら必ず連絡しなさい。必要な援助をしますから」と言って握手してくれた。

ミ民族中学の校長先生


→カマコンボの妻からの手紙
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