[§2]久賀・奈留島/受難の刻印
スケッチと文/渡邉義孝
   
     福江島からの渡船の上からも、浜脇天主堂ははっきりと見えた。
 海を見下ろす丘の上に、真白な躯体と緑の尖塔が聳えるその姿は、まるでおとぎ話の1シーンのようだ。
 ゴシック風アーチ、正面入口上の円形ステンドグラスも美しい。1931年、鉄筋コンクリート造。

ミ浜脇天主堂(久賀島)
 02 Mar.1993
 

   
     浜脇天主堂には花が多い。
 両側廊前部には花が生けてあり、教会を花壇が廻り庭の木蓮の木は今にも咲きそうであった。青い海と対岸の福江島が一大パノラマとなって広がる。
 この美しい天主堂が一面黒く塗りつぶされていたことがあった。戦争中「敵機の攻撃対象になる」と、外壁を墨で塗ったのだ。当時の心理としては解らなくもないが、その旗振り役が仏教徒たちであった、というところに何がなし問題の深さを感じる。「お父さん(夫のこと)が子供のころは“非国民”といじめられたんだよ」と民宿のおかみさんが話していた。

ミ浜脇天主堂の告解場(久賀島)
 02 Mar.1993
 

   
      一粒の麦 地に落ちて死なずば、ただひとつにてあらん
  もし死なば、多くの実を結ぶべし  (ヨハネ伝12章24)

 秀吉の時代以来、二百数十年の潜伏に耐えてきた五島のキリシタンにとっての最大の試練は、実は明治維新から禁制解除(明治6年)までの僅か数年間の間に起きた。
 長崎が開港しフランス人神父との“再会”を果たした信者たちの喜びもつかの間、集落丸ごとの弾圧が襲ったのが1868年。水責め火責め、吹雪下での海中放置の拷問にも棄教しなかった農民ら200人が、たった6坪の小屋に押し込められ転向を迫られた。排泄物もそのまま、身動きとれぬ牢の中で、背の低い者・幼な子から息絶えていった。2年間で犠牲になった42名が、その霊名とともに石に刻まれている。

・パウロ助一 79才 最初の牢死者、短躯のため窒息死
・カチリナそめ 9才  ・ルチアすゑ 59才
・クララふい 22才   ・姓名不詳 幼児
・マリアたき 10才「これからバライゾに行くから、父さんも母さんもさようなら」

ミ久賀島・牢屋の窄
 02 Mar.1993
 

   
     自動車で入れる最後の集落からさらに山道を50分歩く。こんな所に本当に人が住んでいるのかと思って下を覗き込んだ時、やっと小さな入江が目に入る。
 久賀島五輪、全戸5軒。碧い海のせいか何となく明るい。網を洗っている漁師たち。
 不便さとはしかし、密かに信仰を守り続ける隠れキリシタンにとっては、大きな味方であったのだろうか。
 山がそのまま海に落ち込むこの急峻な海岸で、人びとは今もこの天主堂を大切に守っている。
 1881年(明治14年)設立。現在は廃堂となり、7年前にRC造の新教会が並んで建てられた。ただし、神父は月一回やってくる巡回教会。

ミ久賀島 旧五輪天主堂
 02 Mar.1993
 

   
     文字の消えかかった木札をくぐり扉を開けると、木造瓦葺きの外観からは信じられない、ダイナミックな肋骨天井がひろがる。後部の五角形の窓付塔屋は、丁度祭壇の吹抜けになっていて、その尖塔アーチの採光窓からの光が十字架のキリスト像を静かに包む。  三百年を経てこの力強い宗教空間に出逢った信者たちも驚き喜んだだろうが、外人神父の指示を頼りに、初めての西洋建築「らしきもの」に懸命に挑んだ島の棟梁たちの思い、苦労はどんなものだったのだろう。

ミ久賀島 旧五輪天主堂
 02 Mar.1993
 

   
     鍵を預る江村さんに頼んで中に入れていただいた。信徒席が無く、パイプ椅子が9体。伺うと、集落にカトリックは3軒に減り、ここも月1回の巡回教会(神父非常駐)となってしまったと言う。隣接する小学校も生徒30名の由。でも彼女が乳飲み子を負っているので「それでもこうして新しい生命が生まれているんですねぇ」とぼくは言った。たくましい彼女は、日焼けした顔で微笑していた。
 フランス人神父から西洋建築学を吸収した五島の大工・鉄川与助の設計施工。1918年設立。両開き窓の金具は、今でも上下にスライドする。

ミ江上天主堂(奈留島)
 02 Mar.1993
 


[§3]上五島の信仰と建築
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