人は人の中で生き続ける
〜北千島写真展を見て〜

 

 人は人の中で生き続ける――このことを生々しいまでに感じる展覧会を見た。

 東海大学校友会館で開催された「時ノカケラ〜北千島写真展」(東海大学探検会OB主催/霞ヶ関ビル)。これは、今年4月にクリル諸島(千島列島)最高峰アライド山登山中に滑落死した若き日本人探検家・島崎聡・菅原知樹両君の、遺品とした発見されたカメラ・ビデオに収録されていた映像の展示であった。二日間という短い日程ながら、会場には彼らを知る多くの仲間や親族が集まった。

 密集した東京のまちなみを見下ろす部屋の壁には、濃い青空に浮かぶ雪峰や、入り組んだ寒々とした入り江、そしておそらくピークで互いに撮ったのであろう、彼ら自身の写真【※】などが貼りだされていた。コーナーに置かれたテレビには、彼らが遺したビデオが編集されて上映されており、野営の焚き火の炎が映し出され、さらに氷原をアイゼンの音を立てて進む姿をバックに「さぁ、がんばって登るぞ!」という言葉が流れる。そしてそれはやがて「映像はここで終わっていた」とのテロップで突然終わる。生と死のあまりの近さを、見る者はいやがうえにも追体験せざるをえない。追悼、というにはあまりにも生々しく痛々しい「遺言」のようである。

 そんななかで印象に残ったのは、この手作りの展覧会を企画し、設営し、来場者に説明を繰り返す、二人の友人たちの姿であった。

 遺体の身元はまだ未確認だという状況で、同会の或るOBは、事故を知らせる手紙にこう書いてきた。
「ぼくもつい最近まで待たせる側にいた人間でありました。待つ人間がこれほど心苦しいことだとは想像もしていませんでした。とにかく、信じるしかないようです」
 探検会のOBたちは、旅への思いを共有した者同士であればこそ、この悲しみの前に立ちすくみ、残された家族の気持ちに思いをはせ、その家族の前に立つ自身をまた思い、苦悩したのではなかろうか。
 そんな友人たちのせつないほどの真剣さが、この会場には充ちていたように思う。それはまた、島崎聡・菅原知樹両君を決して忘れないという強いメッセージとして伝わってきたのだった。
 テレビモニタの脇に、「二人に届けます」と記された、二冊のノートが置かれていた。来場者はそのページに、ゆっくりとメッセージを書き込んでゆく。

 結婚したばかりであった菅原知樹君の奥さんは、事故の後になって、新しい命を身ごもっていることがわかった。その彼女が会場で、「今日は夫がここにいるようです」と喜んだという。
 OBメンバーは続いて追悼文集の作成にとりかかる。

2002年12月 渡邉義孝

※……この写真が発見されたことで、彼らがアライド山登頂に成功したことが証明された。
写真はともに「北千島写真展」ハガキより部分転載

島崎聡・菅原知樹両君は、アジア横断(1995年)の途上フンザで出会ったT氏の、大学の後輩として紹介されたのが出逢いの始まりで、その後個展や出版記念パーティにも出席していただきました。ともにユーモアのある、実直で意志的な青年であったことを思い出します。ご冥福をお祈りします。


島崎 聡氏 略歴

菅原知樹氏略歴

1974年、東京都生まれ。4歳より獅子舞の稽古を始める。
1993年、私立錦城高等学校から東海大学工学部光学工学科入学。 探検会入会、のち代表を務める。菅原知樹氏とは同期。

1993年7-8月、知床半島縦走。
1994年2月、九州縦断自転車旅行(2/16-3/16)。8月中国・モンゴル探検行(8/17-9/2)
1997年、東海大学工学部光学工学科卒業、4月(株)堀内カラー入社。
1999年、インド、ネパール旅行。
2000年 8月 親子3人で獅子舞を奉納。カムチャッカ半島へ
2001年 7月 アラスカ旅行。

2002年 4月 19日、新潟空港よりカムチャッカへ向け出発。
28日千島列島最北端、阿頼度島、アライド山登頂。下山中探検会の同期生菅原知樹氏とともに遭難。翌29日遺体発見。

新潟県生まれ。
1993年 4月 東海大学入学、探検会入会のち会計を務める。

1993年7-8月、知床半島縦走。
1993-94年、マウンテンバイク、6ヶ月間、月1回耐久レース、3位
1994年2月、九州縦断自転車旅行(2/16-3/16)。日本リバーベンチャー選手権大会出場。8月中国・モンゴル探検行(8/17-9/2)。12月 、八ヶ岳天狗岳、寒くて敗退。

1997年、東海大学工学部光学工学科卒業、(株)堀内カラー入社。
2000年、富士樹海。

2002年4月 19日、新潟空港よりカムチャッカへ向け出発。
28日千島列島最北端、阿頼度島、アライド山登頂。下山中探検会の同期生島崎聡氏とともに遭難。翌29日遺体発見。