ニッセンが書いた『モーツァルト伝』は、モーツァルトの書簡に裏打ちされた最初の伝記として、それまでの伝記とは一線を画するものと評されてきた。
この伝記は、現今の学者や研究家も依然としてその内容を引用することがあるように、これまでのモーツァルト論形成に強い影響力を持ってきた。否、そう言うより、今日のモーツァルト論はこの伝記が礎になって形成されてきたと言っても過言ではないだろう。
筆者は、この伝記の編纂と共に討ち死にしたニッセンの情熱と功績を否定しようとは思わないが、これが本当に信頼足り得る、つまり今日のモーツァルト論の礎になるに相応しい著作であったかどうかには疑問を感じざるを得ない。
その疑問は、ニッセンに向けられているというより、傍に居た撹乱要因としてのコンスタンツェの存在に向けられる。ニッセンの傍らには、モーツァルトの妻でもあり、彼の妻でもあったコンスタンツェが常に目を光らせていたので、彼は思うがままにモーツァルトの手紙を編纂し、客観的な立場からこの伝記を執筆できたわけではなかったろう。
確かに、彼がナンネルから多数の家族書簡を託され、それを元に書いた伝記として、それまでの伝記と一線を画したものであったことは事実だったろうが、彼はその手紙だけでモーツァルトの伝記が執筆できたはずはなかった。ザルツブルク時代のモーツァルトは別として、ウィーン時代のモーツァルトの情報については、ニッセンはコンスタンツェに頼るしかなかったのである。それというのも、ニッセン自身は、モーツァルトの存命中に外交官としてウィーンに赴任してはいなかったので、生前のモーツァルトについては何も知らなかったからだ。
さて、これまで述べてきたように、実に多数の手紙湮滅を図ったのはコンスタンツェに間違いないのだが、そうであれば、彼女が手伝いニッセンが書いた『モーツァルト伝』での手紙の採用、不採用にも、当然その影響が色濃く出ているはずである。つまり、コンスタンツェにとって不利な手紙はことごとく外されているに違いないと思われる。
そこで、ニッセンの『モーツァルト伝』に掲載された手紙、掲載されなかった手紙を調べ、本当にそんなことになっているかどうかを調べてみよう、というのがこの章の目的なのである。
本論に入る前に、その全体を概観するために、この伝記に採用されたモーツァルト家族書簡の掲載の様子を表形式で次に掲げておきたい。
(表―8)『モーツァルト伝』に掲載された手紙
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分類 |
対象期間 |
掲載数a |
手紙総数b |
掲載率 (a/b) |
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ザルツブルク時代 |
1755.12-1777.8 |
168通 |
215通 |
78% |
|
マンハイム・パリ旅行 |
1777.9 -1779.1 |
49 |
123 |
40 |
|
ミュンヒェン旅行 |
1780.11-1781.1 |
16 |
33 |
48 |
|
ウィーン時代前期 |
1781.3 -1785.12 |
28 |
264 |
11 |
|
ウィーン時代後期 |
1786.1 -1791.12 |
12 |
120 |
10 |
|
|
合計 |
273通 |
755通 |
36% |
(註) 掲載数 この伝記で掲載された手紙の数。
手紙総数 書かれた書簡の総数(ウィーン時代の手紙には、現存する手紙に
散失したと確認できた父と息子の手紙の数が加算されている)
この表を見て一目瞭然なことは、ニッセンの伝記におけるモーツァルトの家族書簡は、ザルツブルク時代の手紙は随分丁寧に掲載されているが、マンハイム・パリ旅行以降は存在したはずの手紙の半分も掲載されていないことだ。特にウィーン時代のそれは唖然とさせられるほど少ない。その数は合計で僅か四十通、存在したはずの手紙の一割しか掲載されなかった。
この伝記に掲載されたウィーン時代全体を通しての家族書簡の数は、モーツァルトから父へ二十二通、姉に三通、妻に五通、そしてレーオポルトから娘に宛てた八通の手紙である 残る数多の手紙の存在を無視して、これだけで十一年間のモーツァルトのウィーン時代を語ったというのである。
この伝記では、こういった家族書簡以外に、ハイドンに捧げられたモーツァルトの献辞となんら重要性のないスヴィーテン男爵から彼が受信した手紙の二通は伝記に掲載されたが、モーツァルトが書き、その返事を受けたであろうヴァルトシュテッテン男爵夫人、フォン・ジャカン、プフベルクなど、知人、友人間との手紙の掲載はまったく無視されてしまった(ウィーン時代の各年毎の手紙の内訳はこの次の(表ー9)で示される)。
そのためか、この伝記では、上表にいうザルツブルク時代の記述には概ね三百ページの紙幅(これにマンハイム・パリ旅行とミンヒェン旅行を加えたウィーン時代以前の記述は約四百四十ページになる)が費やされているのに、大事なウィーン時代の初めから死に至るまではおよそ百五十ページが割かれているに過ぎない。
むろん、掲載された手紙の数や費やされた紙幅の多寡だけで、その伝記を云々するわけに行かないことはよく承知している。
伝記執筆者の編纂方針によって、モーツァルトのどの時代、どんな点に焦点をおくかによって、採用される手紙の数や記述の分量は異ならざるを得ないことは当然だ。またニッセンの伝記が作成された時期は、伝記に登場する人物やその近親者がまだ生存した頃なので、その人たちの尊厳や名誉を配慮して、採用したくても採用できない手紙があった そんな制約も考慮しなければならなかった。
そして、よく言われることだが、ニッセンの生きた十九世紀の伝記様式ということも考える必要がある。つまり、当時の伝記本のスタイルは「美しく書き上げる」ことが重んじられ、その目的にそぐわないものは容赦なく切り捨てられたということなのだ。
今日の伝記本 それが伝記という名に値するか否かは別として には、生々しいプライヴァシーや他人への中傷を恥かし気もなく平気で書いたものも見受けられるようだが、この当時のものは意識的にそれを避け、記述を省いたのである。
そして、ニッセンの心中には、これは音楽家の伝記を書くのだから、何よりも音楽活動の記述に重きを置き、その他の手紙は犠牲になるのも止むを得ないという思いがあったろう。
だがこれらすべてを考慮に入れても、ニッセンの伝記では、明らかにウィーン時代に入ってからのモーツァルトの手紙の掲載や音楽活動以外のエピソードは少なすぎる。
そこには、通常の伝記本に見られるような、ウィーンでの生活の様子も、二人の夫婦仲も、妻コンスタンツェの素顔も、彼の友人関係も、借金の原因も、フリーメイスンとしてのモーツァルトも、つまり人間モーツァルトがほとんど描かれていないのである。
筆者はその原因を、それらに不都合を感じたコンスタンツェによる手紙の掲載拒否にあったのではないかと睨んでいる。確かに手紙の中には既に湮滅されていたものも多かったから、それらは掲載の仕様がなかったという言い訳が出てくるかもしれない。だがそうならば、そこには事情をよく知っていたコンスタンツェが傍にいたのだから、ニッセンは彼女から聞いてそれを記述してもよかったのだが、それもない。どうやらこの伝記では、彼女の意向で意図的に記述が省かれたことがたくさんあったに違いない。
そう訝しく思って、これからこの伝記で隠された数々を追ってみようと思うのだが、以下の記述では、この伝記に採用されなかった数々の手紙が登場する。しかしここでは、この伝記でそういった手紙の掲載がなかった迂闊さを批判するものではない。事実を認識しながら、意図的にそれに蓋をして、自分の都合のよいように事実を歪めて後世を欺いた そう考えられることが批判の対象なのである。
これまでの説では、マンハイムでモーツァルトはアロイージアに狂ってしまい、パリからの帰途、結婚の約束を取り付けるためミュンヒェンのアロイージアを訪ねたが、そこで彼を待っていたのが心変わりしたアロイージアの冷たい肘鉄だったということになっている。
筆者はこの説に大いに疑問を感じるのだが、ニッセンの伝記では、アロイージアとモーツァルトの仲がどう進行していたかの具体的な記述はまったくない。しかし、この伝記には掲載されなかったが今日に保存されたモーツァルトの手紙に目を通してみると、そこにはアロイージアとの真剣な恋に触れたものが少なからず存在する。これらは、コンスタンツェにとってみれば、一通として後世の人の目に触れて欲しくなかったものだろう。
モーツァルトは1778年1月17日付の父への手紙で、写譜師ヴェーバーにすばらしく歌の巧い娘がいて、その父娘と一緒にオランニエ公妃を訪ねると書いた。これは手紙でモーツァルトがアロイージアに触れた最初のものだったが(但し、手紙にはアロイージアという名前は書かれておらず、十五歳の娘 実際は十六歳だった と書いてあるだけである)、ニッセンの伝記でもこの手紙の一部が掲載されている。
しかしこの伝記では、二人がこうやって出会ったことだけは書かれたが、その後にアロイージアに関する記述はまったくない。彼女はモーツァルトが真剣に婚約を考えて相手だったとか、この二人の関係がどう進行したかなどは全然書かれていないのである。しかし、マンハイム・パリ旅行の幕切れのところで、突然、あの冷たい肘鉄の場面が叙述されている。それもコンスタンツェの語りによって述べられているのである(このことはすぐ後で記述する)。
言ってみればこれは、丁度キセル乗車の切符のようなもので、両端は存在するが真ん中はすっぽり抜けてしまって空なのだ。つまり、出会いと別れの場だけごく簡単に叙述があって、その間の二人の恋の真相はこの伝記では空っぽにされている。これは相撲で言えば、立会いの瞬間と勝ち名乗りを受けている場面だけ提供されたようなもので、肝心な勝負の内容がまったく分からないようになっている。
ニッセンの伝記ではこんな様子なのだが、実際は、モーツァルトのこの時期の手紙にはアロイージアに触れたものがかなりあった しかもそれらは、二人の恋仲は芳しく順調に進んでいたことを窺わせるものだった。
だがコンスタンツェは、後世にそんな事実を知られたくなかったので、そんなことが書かれた手紙が伝記に掲載されぬよう、あるいは、抜け目なくその部分を外してその手紙を掲載するよう計らった。それは徹底したものだったので、この伝記では二人の仲がどう進んでいたのか皆目分からなくなっている。
1)順調に進んでいた二人の恋
では、どんな手紙がコンスタンツェの差し金で『モーツァルト伝』から外されたのか、それらを拾い出してみよう。これらについては既に述べてきたことなので、ここでは手紙の解説は省略し表形式で簡単に纏めてみた。
先ず、モーツァルトがアロイージアをどう捉え、この二人がどんな様子だったかを綴った次の二通のモーツァルトから父への手紙があった。
これらの手紙から、モーツァルトのアロイージアの音楽的才能に対する絶賛、彼女に対する思いの深さ、二人の仲の芳しさなどが感じ取れるのだが、2月4日付の手紙はこの伝記には採用されておらず、3月24日付の手紙は伝記に掲載されたが、下記の部分は抜け目なく削除されている。
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手紙日付 |
手紙の内容 |
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1778年 |
これはオランニエ公妃訪問後に書かれた父への手紙だが、そこには公妃 |
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1778年 |
パリからの第一信。マンハイムを発つ時に、アロイージアから心をこめ |
次に、モーツァルトはパリ滞在中にアロイージアとの結婚決意を固め、それを父(1778年7月3日付)とザルツブルクの親友ブリンガー神父(同8月7日付)に語った手紙があった。このうち、父への7月3日付の手紙は母の死に関する手紙であって、その部分は伝記に掲載されたが、この手紙の中で同時に書かれたモーツァルトの結婚決意を綴った次の部分は掲載されなかった。ブリンガーへの手紙はこの伝記には採用されていない。
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1778年 |
この手紙は既に引用したが、モーツァルトが初めて父にアロイージアとの |
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1778年 |
アロイージアとの結婚についてブリンガー神父に語った手紙。そこには、 |
パリに来たモーツァルトの心は、もうアロイージアとの結婚のことで一杯だった。そこで彼は、何とか婚約の了承を得んとして、アロイージアとその父フリードリンに頻繁に手紙を書いていた。その殆どすべては湮滅の憂き目にあってしまったのだが、実際には彼らの間で多くの手紙が交わされていた。
次の父への手紙は、モーツァルトとマンハイムの二人の間に何回も文通があったことを示すものだ。無論、これら三通の手紙は伝記に掲載されることはなかったが、二人の結婚に関して、数多くの文通があったことを悟られたくなかったコンスタンツェがその掲載を阻止したのだろう。
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1778年 |
「その翌日(ルグロを)訪ねたら、ぼく宛の一通の手紙が届いていまし |
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1778年 |
この手紙には、「おととい、親友のヴェーバーから手紙をもらいまし |
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1778年 |
「ぼくは彼女(アロイージア)のお父さんから、ミュンヒェンへ彼が |
既に書いた通り、モーツァルトとアロイージア父娘の間で交わされた手紙の殆どは湮滅の憂き目に会ったが、どういうわけか二通だけ生き残った手紙があった。この二通も伝記に掲載されることはなかったが、その手紙の中にも彼らの間の頻繁な手紙のやり取りが窺える。
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1778年 |
これはモーツァルトがフリードリンに書いた手紙だが、彼は、「たっ |
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1778年 |
これはアロイージアへの手紙だが、「あなたがぼくに送ってくださっ |
モーツァルトがフリードリンに宛てたこの7月29日付の手紙によって、彼は婚約の内諾を得たに違いないことは前に書いた。
ところで、アロイージアとの婚約に関して、モーツァルトが自分の父に承諾を求めた手紙と父のそれに対する返事があったはずだが、それは一体どうなったのだろう。そう考えるのは、父の了解も取らずに、自分の勝手な判断でモーツァルトが婚約申し入れのためミュンヒェンに赴いたとはとても思えないからだ。おそらくこれらの手紙は存在していたが、きっとコンスタンツェが闇に葬り去ってしまったのだろう。
レーオポルトが息子に了解を与えていたことは間違いない。というのは、モーツァルトは父の承諾を取り付けていたからこそ、勇んでミュンヒェンのアロイージアを訪ねたのだった。もし父が反対だったなら、コンスタンツェの場合と同じように、この父は何度もしつこく息子に反対の手紙を書き、モーツァルトもそれに反論していたことだろう。だがそんな手紙があった形跡は少しも見当たらない。
レーオポルトがこの婚約に反対でなかったことは、モーツァルトの死後に、アロイージアがノヴェロ夫妻に「両方の父親とも賛成でした」と証言していることがそれを裏付けている。実際、その証言の有無に拘わらず、レーオポルトの息子に対する次の二通の手紙は、彼がこの結婚に少しも反対でなかったことを明かしている。
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1778年 |
ヴェーバー嬢については、私がなにかこの交際に反対していると |
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1778年 |
おまえの頭をいっぱいにし、分別のある熟慮をすべておまえから |
この9月3日付の手紙自体は伝記に採用されているが、上記の一文は抜かりなく外されている。そして、もう一方の十一月二十三日付の手紙はは、手紙そのものの掲載がない。コンスタンツェは、自分の場合とまったく反対の態度が書かれていたレーオポルトのこの二通の手紙を見て、すっかり頭にきたことだろう。だからニッセンの伝記でこれらが掲載されなかったことは当然のことと言えよう。
このように、モーツァルトの手紙でアロイージアに関して書かれた手紙は、以上に引用しただけでも十一通に上るのだが、実際はこれだけに留まったわけではなかった。この他にも、貧しかったヴェーバー家を何とか救ってやりたい、アロイージアを歌手としてなんとか出世させたいと綴ったモーツァルトの手紙があって、これは後世に保存されているのだが、ニッセンの伝記ではそういった手紙も一切掲載されなかった。
かくてニッセンの伝記では、ことモーツァルトとアロイージアの関係については、アジアのある社会主義国のように、見事なまでに情報統制が行き届いていて、二人の関係の実際がどうだったかはまったく窺い知ることが出来ないようになっている。
ところが実際は、ここに書いたように二人の関係は実は順調に進んでいた。これが真実の姿だったのだが、そんなことはこの伝記で微塵も取り上げられなかった。だが、われわれはそれは仕方がないものと我慢しよう。なぜなら、この伝記はモーツァルトとアロイージアの恋物語をメイン・テーマとしたものではないからだ。それに、ニッセンがそれを書きたかったとしても、コンスタンツェの手前それを克明に書くことは出来なかっただろうから。
ただ、問題とすべきはこの後のことなのである。そこでは真実が隠されて、平気で嘘が書かれ、話はコンスタンツェの都合のよいように粉飾されて後世に伝えられるよう仕組まれたのだ。。
2)ミュンヒェンでの破局の真相
ニッセンの伝記では、ミュンヒェンでの再会時にこの二人の関係は突然暗転したとされている。アロイージアはモーツァルトの恩を忘れた冷酷な女に早や変わりし、その冷たい肘鉄でモーツァルトは奈落の底に突き落とされたというのだ。そう語ったのは他ならぬコンスタンツェだった。
この恋の顛末について、モーツァルトは、1778年12月29日付の父への手紙で、「きょうはただ泣きたいだけです」とだけしか書き残していない。一方のアロイージアも、二人の恋の中身とその結末については終生黙してこれを語ることはなかった。
その結果、これについて唯一遺された記録は、ニッセンの『モーツァルト伝』における次のコンスタンツェの陳述だけなのである。
では、コンスタンツェがこの『モーツァルト伝』でどう語ったかを述べてみよう。(以下の記述は新しく書き加えた部分もあるが、「モーツァルトの夫婦仲」と重なる記述が多いことを断わっておきたい)、
「モーツァルトが母とともにパリに旅行した折、彼はマンハイムを通ったが、そこで彼はアロイージア・ヴェーバー、のちの有名な歌手ランゲと、その両親のもとで知り合った。二人とも才能を持っていたので、彼らはやがておたがいに尊敬し合い、愛し合うようになった。彼女の父親は、二人が結ばれれば大変な評判になるだろうと思い、喜んで彼らを結婚させることを考えた。彼は政変の折、ミュンヒェンに移ったが、モーツァルトはそこに、母親の喪のために、フランスの風習に従って真っ赤な上着に黒の小さなボタンといういでたちで、パリの帰途立ち現われたものの、アロイージアが彼に対して心変わりをしているのが分かったのであった。彼が入ってきたとき、彼女には自分がかつてその人のために泣いた人物がもう分からないようであった。そこでモーツァルトはクラヴィーアのところに飛んでいって、声高に歌ったのだ。『ぼくを好いてくれぬ娘っ子なんか喜んで捨ててやるさ。』」(27)
この簡単な一文で、モーツァルトとアロイージアの恋は呆気なく幕を引かれた。だがそこには、一体なぜアロイージアが心変わりをしたのか、その辺の理由は一切述べられていない。そしてこの文章の掲載の後次の一文が続き、この伝記における本件に関する記述はすべて終わっている。
「この時から、彼女の妹コンスタンツェは、モーツァルトの人柄よりは才能に惹かれ、またアロイージアに裏切られたことに同情して、モーツァルトを慰めようと努めた。コンスタンツェはすすんで弾く生徒だったので、彼は喜んでピアノフォルテを教えた。後にウィーンで二人が再会したとき、かつてアロイージアに会った時よりも、コンスタンツェはもっと強い感動を与えたことがわかった」(28)
過去の伝記作家や学者たちは、コンスタンツェがニッセンに書かせたこの伝記の一節を読んで、アロイージア自身が冷たくモーツァルトを袖にしたと信じ込み、二人の恋愛劇はこの時幕を閉じたと考えた。そしてこの時、失意のモーツァルトを慰めた女神としてコンスタンツェが登場し、後にウィーンでモーツァルトが彼女と結ばれる必然性はこの時に芽生えていたという印象を抱いたようだ。
だが、これはそう信じてよい一文なのかと強い疑念を抱かざるを得ない陳述である。恐れ入ったことだが、ニッセンが何も知らないことをいいことにして、彼女はニッセンに出まかせを喋った。そう思う根拠を書いてみよう。
先ずコンスタンツェは、「(モーツァルトが)パリの帰途立ち現われたものの、アロイージアが彼に対して心変わりをしているのが分かったのであった。彼が入ってきたとき、彼女には自分がかつてその人のために泣いた人物がもう分からないようであった」と述べている。
これは一体真実だったのだろうか。そして、もしアロイージアがそのような態度を取ったのが事実だったとしても、それは彼女自身の意志でそんな態度を取ったのだろうか。このことは十分検討に値すると思うのだが、過去にそのことが取り上げられた気配はない。だが筆者がこのことに疑問を抱くのは、既に述べた経緯から考えると、どうしても話の辻褄が合わないからだ。
つまりアロイージアは、父フリードリンに結婚の同意を伝え、彼女自身もその気になっていたはずだった。それだからこそこの娘は、モーツァルトが死んでしまったという誤った噂がマンハイムに流れた時、毎日カプツィーナ教会に行って、モーツァルトの霊魂のために祈りを捧げていた つまり彼女もモーツァルトを愛していたのだった。これは彼らの再会の二ヶ月ちょっと前の話で、再会の時にもう誰だか分からなくなってしまうような遠い昔の話ではなかった。
それに、アロイージアにその気がなくなってしまっていたのなら、彼女あるいは彼女の父が手紙でそのことをモーツァルトに伝え、モーツァルト自身がミュンヒェンの彼女を訪ねることはなかっただろう。そんな断わりの手紙は少しも来なかったので、モーツァルトは彼女に捧げるためのアリア『テッサーリアの民よ』(K316)を携えて、期待に胸を弾ませてミュンヒェンに向かったのだった。
彼は途中のカイザースハイムから、「ひょっとすると大役を演じてもらうかもね」とベーズレに手紙を書いて、ミュンヒェンに来るよう頼んだ。彼はアロイージアとの結婚契約の立会人になってもらうつもりで、ベーズレをミュンヒェンに招いたに違いない。これはミュンヒェン到着の四、五日前のことだった。だからこの時まで事は順調に進んでいたはずなのである。
しかしモーツァルトがヴェーバー家に乗り込んだ時、そこで思わぬどんでん返しがあった。アロイージアはモーツァルトを見て、どこの馬の骨かというような冷たい素振りをしたとコンスタンツェは言っている。だが本当にこれが、自分の歌の技量を磨いてくれ、自分のためのコンサート・アリアを書いてくれた当時の有名作曲家に対して、十七歳の乙女が自発的に取った態度というのだろうか。
どうやら、これまでアロイージアはそう理解され、その結果彼女は打算的で冷酷非情な女と蔑まれてきた。では、何のため彼女自身がそうしなければならなかったのか これに疑問を抱き、説得的な意見が出されたことは今までなかった。彼女に新しい恋人でも出現したかというと、そんな気配もなかった。
筆者が思うに、話がこうなってしまったのは、実はアロイージア自身の意思ではなく、その母ツェツィーリアの差し金に違いなかった。
フリードリン・ヴェーバーは五人の子供を抱えて、長い間その暮らし向きは貧しかった。こんな子沢山だったのに、十四年もの長い間彼らは年200フローリンで生活しなければならなかった。モーツァルトが初めてフリードリンに会った時、彼の収入は400フローリンになっていたが、それでも生活は苦しく、モーツァルトは父への手紙で、何とかこの虐げられた家族を救ってやりたいと度々書いていた。
しかしその後、歌に磨きがかかったアロイージアは宮廷歌手に採用され、その上フリードリンまで昇給された結果、1778年秋の時点では、この一家の収入は1,600ローリンになっていた。その内訳はアロイージアが1,000、フリードリンが600フローリンだった。
フリードリンの妻ツェツィーリアは、長い間の貧乏暮らしから抜け出せて喜んでいたが、一抹の懸念を抱いていた。それはモーツァルトとアロイージアの間で進んでいた婚約問題だった。この時彼女はこう考えた アロイージアをモーツァルトに持っていかれると、一家は再び600フローリンの苦しい生活に戻ってしまう。それにモーツァルトは職も定まらぬ浪人ではないか、と。
そこで彼女はアロイージアに因果を言い含めて、再会した時にできるだけ冷たい素振りを示して、モーツァルトに断念させるように迫った。この時アロイージアは一家の大黒柱だったので、残る家族を犠牲にしてまで自分の幸せのためにモーツァルトと結婚するのか、という母の言葉に逆らえなかった。そこでアロイージアは自分の気持を犠牲にして、この母親の指示通りに冷たくモーツァルトを袖にした。
むろんこれは証拠に基く話ではなく、あくまで筆者の推測であることを断わっておかねばならない。だが、こうとでも考えなければ、この土壇場でのどんでん返しは、どう説明したら辻褄が合うというのだろうか。
この二年三ヶ月ほど後になって、モーツァルトがウィーンに移った直後、彼はその時すでにランゲの妻になっていたアロイージアに早速会いに行っていた。コンスタンツェの話が本当なら、これは理解に苦しむ行動だ。
もし彼自身が、あの時アロイージア自身から嫌われて袖にされたと感じていたならば、その後におめおめと彼女を訪ねたりしただろうか。彼自身は、ミュンヒェンでの破談はアロイージアの意志ではなかったと認識していたからこそ、その未練を断ち切れず、他人の妻となっていたアロイージアに会いに行ったに違いない。そして見逃せぬことは、この時アロイージアもまだ彼に無関心でなかったと父への手紙で書いていることだ。やはりこの二人は、かつては愛し合っていたに違いない。その二人の仲を生木を割くようにさせたのは、母親のツェツィーリアしか考えられらない。既に述べたように本人同志も双方の父親も賛成だったからだ。
モーツァルトは、この後のウィーン時代をずっと通して、彼女のために何曲ものコンサート・アリアを書き、演奏会で共演し、自分の作曲した歌劇にたびたび出演させるなどして、一生にわたって彼女のために尽くした。もしミュンヒェンで、彼女自身の意思によってどこの馬の骨かと、けんもほろろに扱われたとモーツァルトが感じていたなら、ウィーンでこんな優しい気配りをアロイージアに示しただろうか。
ところでここで考え直すべきことは、アロイージアの人となりについてではないかと思う。
アロイージアという女性は、コンスタンツェが『モーツァルト伝』であんな出鱈目を語ったお蔭で、現在に至るまで冷酷非情で打算的な女性のレッテルを貼られて来た。過去の研究家で、彼女をよく言った人は絶無と思うが、これこそは濡れ衣というものだろう。というのは、コンスタンツェの弁に拘わらず、実際の彼女は心優しい女性だったに違いないからだ。
そう思わせる何よりは、彼女は、モーツァルトの場合とランゲの場合の二度の結婚話の時に、家族の幸せのために自分を犠牲にした女性だったからだ。これはアロイージア・ランゲで書いたことだから、ここでは繰り返さない。
それだけではない。彼女は、モーツァルトがマンハイムを離れる時に、自ら作った手編みの袖飾りを贈る優しい気持を持っていた。また、既に述べたように、モーツァルトはもう死んでしまったという誤った噂がマンハイムの街に流れた時に、彼女は毎日カプツィーナ教会へ行ってモーツァルトの霊魂のために祈っていたというけな気な性格を持っていた。そしてモーツァルトが本当に死んだ時、自分こそ愛された妻だったと吹聴したコンスタンツェは葬儀にも埋葬にも参列せず、死後の墓参りもしなかったが、アロイージアは葬儀にも埋葬にも参列し、その哀悼の意を表した女性だった。
そうすると、アロイージアという女性が、コンスタンツェが語ったような冷酷非情な女性だったとしたら、なぜモーツァルトはウィーンに着くや直ぐ、おめおめと彼女を訪ね、その後も彼女のために尽くしただろうかという疑問が湧く。
おそらく彼女は美貌で歌が巧いだけの女性ではなく、モーツァルトを惹きつける心の優しさを持った女性だったのだろう。それがなかったとしたら、ウィーンに出たモーツァルトがあんなにアロイージアのために手厚い行動を取ったりはしなかっただろう。
筆者が思うには、どうやらコンスタンツェの虚言によって、これまでの人たちはアロイージアの人となりをすっかり誤解させられてきたようだ。
さてコンスタンツェの言及によれば、アロイージアに突き放されたモーツァルトに、その場で突如として救いの女神のコンスタンツェが現われたという。彼女によれば、彼を悲しみの淵に突き落とした姉のいる家で、モーツァルトは突如心変わりして、今度はその女神に喜んでピアノを教えたというのだ。
だが、こんな吹き出すような話もまたとないだろう。これでは、モーツァルトは女の姿をしてさえすれば誰でも構わないという、ただの女好きでしかない。これは嘘っぱちの作り話に違いないのだ。
コンスタンツェは、アロイージアをモーツァルトから引き離した母親の悪巧みを知っていた。だがコンスタンツェがニッセンにこう語った時は、もうモーツァルトの死から三十五年ほどが経過しようかという頃だった。そこで当時のことを知る人がもう誰もいないことをよいことにして、彼女はアロイージアに濡れ衣を着せた上で、冷酷非情な女として烙印を押し、自分を救いの女神に祭り上げて、要するに自分の都合のいいように出まかせを喋ったのだった。
もしコンスタンツェのこの発言が事実だったら、この後、彼がミュンヒェンを出発するまでに父に宛てた三通の手紙(1778年12月29日付、同12月31日付、1779年1月8日付)のいずれかで、彼は少しでもこの救いの女神に触れていてもよかったが、そんなことはどこにも書かれていない。
否、彼が手紙に書かなかったとしても、この後すぐ帰郷した彼は、もしそんな話があったのなら、その後のザルツブルク生活の中で父にコンスタンツェのことを話したはずだろう。だが彼はそうしなかった そんな事実がなかったからだ。
そう断言できるのは、これから三年ほど後の彼の1781年12月15日付の手紙である。これはモーツァルトがコンスタンツェと結婚したいと白状し、彼女を父に紹介した手紙である。だがこれをどう読んでも、モーツァルトはレーオポルトがまるで何も知らない初めての女性を紹介するように書かれている。もしコンスタンツェの前述の言及が真実なら、モーツァルトは、「ほら、パリ旅行の終わりのミュンヒェンで、ぼくがピアノを教えた娘ですよ」くらいのことを書いて父に説明すればよかったものを、彼はそんなことを少しも書いていない。
マンハイム・パリ旅行時のモーツァルトの手紙をよく読むとよい。そこにはコンスタンツェのコの字も見当たらない。彼女はこの時、それほどモーツァルトの目に入らず無視された存在だった。これが真実の姿であって、彼女が救世主のようにモーツァルトの眼前に現われたなどは、真っ赤な嘘なのである。
以上のようなことから、コンスタンツェは、モーツァルトとアロイージアの恋物語に関する手紙を伝記に一切採用させず、ミュンヒェンでの破局の真相を自分の都合のよいように曲げて伝記で語り、後世に事実を歪めて伝えたことは確実だ。
上記の表―8に見る通り、モーツァルトのウィーン時代に入ると、この伝記で掲載された手紙はそれ以前に比べて著しく少なくなっている。ウィーンに移住した一七八一年はたった六通、翌八二年は九通の手紙が掲載されているに過ぎない。しかも、それまでこの伝記に掲載されていた父から息子への手紙はもう一通の掲載もない。そこにあるのは、すべてモーツァルトが書いた手紙だけで、あたかも彼の一人芝居を見させられているようなものだ。
ウィーンに定住を始めたモーツァルトのこの両年は、伝記編纂上重要な出来事に満ちた年だった。それはコロレード大司教との決裂、ウィーンでの音楽活動の開始、それにコンスタンツェとの結婚問題などがあったからだ。
この三つのテーマの中で、ニッセンの伝記でなんとか満足できるのは、モーツァルトの音楽活動についての記述だけだろう。
これについては『後宮からの誘拐』の作曲経緯と上演の評判、クレメンティとの競演、スヴィーテン邸でのマチネー・コンサート、ピアノのレッスン、アウガルテンの日曜コンサートなど、この頃の彼の主要な音楽活動に関する彼の手紙がかなり掲載されている。
だがコロレードとの決裂については、1781年5月12日付の父への手紙が僅か一通掲載されているだけで、これではまったく不十分な感は否めない。これは、ザルツブルクでこれを書いていたニッセンが、ナンネルやコロレード大司教、アルコ伯爵自身やその身内の人々の立場を考えて、生々しくこれを取り上げるべきではないと考えたからだろうか。
さらに問題とすべきは、モーツァルトとコンスタンツェとの結婚問題についだろう。
この父子の往復書簡で、具体的に結婚問題として取り沙汰されたのは1781年の年末だったが、この年五月初めモーツァルトがツェツィーリア・ヴェーバーの営む下宿「神の目荘」に紛れ込んで以来、そこでの息子の女性問題を心配したレーオポルトは、たびたび手紙を書いて牽制球を送っていた。
それにも拘らず、ことはレーオポルトが心配したとおりに進行し、モーツァルトはツェツィーリアにまんまと嵌められて、遂にコンスタンツェと結婚せざるを得なくなってしまった。ヴェーバーの四人の娘の中でコンスタンツェと結婚することになったのは、福引の抽選で滓の末等を引いたようなものだった。
今日のわれわれは、この伝記には掲載されていないが、幸い保存された他の多くの手紙によって、この結婚成立の過程に様々な問題があったことを知ることが出来る。だがニッセンの伝記では、コンスタンツェとの結婚に関するモーツァルトの手紙の掲載は極力制限され、あたかもそんなことは少しもなかったかのように書かれている。
モーツァルトがコンスタンツェの名をあげて、彼女と結婚したいと初めてレーオポルトに手紙で告白したのは、1781年12月15日付の手紙だった。その一週間後の12月22日付の手紙では、実は、彼女の後見人に迫られて結婚契約書にサインせざるを得なかった、と彼は書いて父を唖然とさせた。
だが奇妙なことに、この伝記で後者の手紙を隠そうとするのは分からないでもないが、大いに粉飾してコンスタンツェを褒めちぎったモーツァルトの15日付の手紙すらこの伝記に掲載されていないのである。これはどうしたことなのか。
そう不思議に思って手紙を辿ってみると、「神の目荘」における女性問題についての父と息子の小競り合いは、モーツァルトがウィーンに出てほどなく開始されていたのだが、ニッセンの伝記では、1781年にはそんな問題は些かもなかったかのように装われている。
では、ニッセンの伝記でこの結婚問題はどんな取り上げ方がされたのだろうか そう思って、この伝記で最初に取り上げられた結婚問題の手紙を探してみると、なんとそれは次の1782年7月27日付のモーツァルトの手紙だった。
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1782年 |
「最愛、最上のお父さん! |
この手紙を見て何よりも驚かされるのはその日付である。これは、モーツァルトが父の了解も得られないままに強引に挙式してしまったその僅か一週間ほど前の手紙なのだ。
この伝記では、前の年からこの父がこの結婚に頑なに反対していたことなどは少しも触れられていない。だから事情を知らない人が読めば、この二人の結婚問題はそれまでは何ごともなく平穏無事に経過して、モーツァルトはこの時期になって初めて父に結婚を打ち明けたと読むだろう。
しかもこの伝記では、ここまで結婚相手のコンスタンツェについて何も語られていない。僅かに、この年4月20日付で、モーツァルトが姉に『前奏曲と三声のフーガ』(K397=383a)の楽譜を送った手紙の中で、「このフーガが生まれたのは、実は、いとしいコンスタンツェのおかげです」と書いた一文に彼女の名が見られるくらいだろう。
しかしこの伝記には、モーツァルトがコンスタンツェを紹介して書いた1781年12月15日付の父への手紙の掲載がないから、読者は、コンスタンツェがどんな娘で、モーツァルトがどうしてこの娘と結婚しようと思ったのかまるで分からないようになっている。何とも不可解な文章構成である。
さてこの伝記では、この7月27日付の手紙に続いて次の手紙が掲載されている。
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1782年 |
「ところで、この前のぼくの手紙は受け取ったのでしょうね。 |
以上の二通の手紙が掲載されたその後、勝手に挙げた結婚式を報告したモーツァルトの父への手紙(8月7日付)が掲載されて、ニッセンの伝記でこの結婚問題は一件落着ということになっている。だがこの時期に存在したはずの父の返事の手紙は、この伝記に掲載されなかったばかりか闇に葬り去られてしまった。
モーツァルトが父に送った結婚報告の手紙はこの年8月7日付の手紙だったが、この伝記に掲載された次の手紙は、モーツァルトが書いた手紙を忠実に再現して掲載したものではなかった。ニッセンは、コンスタンツェの立場を慮って、モーツァルトの手紙から差し障りのある文章を巧妙に削除した上で、これを伝記に掲載した。
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1782年 |
「親愛なお父さん! |
ニッセンの引用ではこうなっているが、この一文には、手紙の冒頭の大事な一行が削除されていた。
それは、「親愛なお父さん!」に続いて、原文では、「あなたの息子に悪いことができるとお考えでしたら、とんでもない思い違いです」という文章があったが、これが勝手に削除されてしまっているのだ。
これは理解に苦しむ一文だが、これはおそらく、この直前に父が息子に書いてきた手紙に対するモーツァルトの反論だったろう。だがこの時期のレーオポルトの手紙はすべて闇に消されてしまっているから、彼が息子にどう書いたのかは具体的には分からない。
しかしレーオポルトは、「そんな女と結婚するぐらいなら、捨ててザルツブルクに帰って来い」といったようなことを書き、それに対してモーツァルトが、「あなたの息子に(そんな)悪いことができるとお考えでしたら、とんでもない思い違いです」と書いたのではないかと思うが、むろんこれは筆者の勝手な憶測でしかない。
この推測は別としても、いずれにせよこの一文は、レーオポルトがなんとかこの結婚を阻止せんとするような手紙を送ったことに対する、モーツァルトの反論だったに違いない。
だが、この一行が削除された上で、ニッセンの伝記では、モーツァルトが父の寛大な同意と結婚祝福に感謝するという一文が引用されているから、この伝記を読む人は、この結婚に関して父子間でこれといった問題も何もなく「目出度く一見落着した」と読むかも知れない。
しかし実際は、レーオポルトが本当に寛大に同意したのではなかったろう。もしそうだったなら、そう書いてよこした父の手紙を保存しておけばよいものを、それすら捨てられてしまっているからだ。
モーツァルトが父の寛大な同意の下に挙式出来たのかということに強く疑問を抱く所以は、実は、ニッセンの手紙の引用には、モーツァルトが書いた次の極めて大事な部分がすっぽり省略されているからだ。
「でも、ぼくは自分の良心と名誉を傷つけることなしに、ほかの行動は取れなかったからです。 そこでぼくはあなたの同意をまったく当てにしていたのです! そこで郵便を二回むなしく待ちましたが、御返事をいただけませんでした。そして、結婚式の日取りは(それまでにはきっとすべてが分かるだろうと考えて)もう決まっていました。 あなたの同意が得られると確信し、心慰められて、ぼくは神の御名のもとに愛する人と結婚したわけです。その翌日、二通のお手紙を同時に受け取りましたが もう、後の祭です! いまはただ、あなたの父性愛をあまりにも性急に信じてしまったことに対してお許しを願うだけです」
このモーツァルトの文章は、前記の「父親としての祝福に対して感謝いたします」と「 ぼくの愛する妻は」の間に書かれていた一文である。伝記で隠されたこの一文が示すところは、モーツァルトの結婚は父の寛大な事前同意の下に執り行われたわけでなく、見切り発車で勝手に式を挙げてしまったということだ。
ニッセンの巧みに細工された手紙を読むと、誰もがレーオポルトが同意したという手紙一通を息子に送ったように思うだろう。
だが、これは第7章で述べたように、レーオポルトは二通の返事を息子に送っていた。レーオポルトは、息子の7月27日付の手紙に対して依然拒否の返事を、そしてその後のもう一通では急転直下渋々了解したという手紙だった。
最終的にレーオポルトがこの結婚に承諾を与えたことは間違いなかっただろうが、それは前に述べたように、コンスタンツェの後見人トールヴァルトがマーシャル上級裁判所事務所に勝手に結婚届を出したことを知らされて、この父が最早反対できぬと観念したからだったろう。そういう意味では、父の同意は「寛大な同意」ではなく「止むを得ずの了承」だったに違いない。
さて、ニッセンの伝記におけるモーツァルトの手紙の引用はまだ続き、この直後に結婚式の出席者の名前と簡単なその様子が記述されている。その後に次の披露宴の話が続く。
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1782年 |
「披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が用意してくれた夜食で |
既に述べたことだが、斜字体で書いた部分はモーツァルトの自筆の手紙には存在せず、明らかにニッセンがコンスタンツェから聞いて勝手に書き加えたものであって、これは真実ではない。おそらく、自分の結婚が周囲から祝福されたものであったように装いたかったコンスタンツェが、なにも知らぬニッセンにそう書かせたのだろう。
そもそも、モーツァルトの作品に十六声部の管楽合奏曲などは存在せず、彼自身がこんなことを書くはずはなかった。こんな寝耳に水の出鱈目を捏造されて、天国で安らかに眠っていたモーツァルトはびっくりしただろう。
ニッセンの伝記では、モーツァルトとコンスタンツェの結婚に関する手紙は以上の三通しか引用されなかった。しかし実際には、モーツァルト父子の間では、この問題について実に長期にわたって手紙で議論が戦わされていた。その中心問題は、ヴェーバー家とコンスタンツェに対する父の攻撃とそれに対するモーツァルトの応戦だった。これらの書簡は、ツェツィーリアとコンスタンツェの恥部をあからさまにする手紙だったので、妻コンスタンツェの手前、ニッセンの伝記ではこれらは取り上げられなかった。
だが、この伝記でどんな手紙が蓋をされてしまったのかは興味が抱かれるので、それを次に列挙してみよう。ただこれについては、第7章で詳しく書いたことなので、ここでは要点だけを箇条書に纏めた。
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手紙の日付 |
「モーツァルトの手紙」から知り得るレーオポルトの態度など |
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1781年 |
「<ヴェーバー家について>書かれたことは、事実でないと断言しま |
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7月13日 |
「ヴェーバー家から引っ越すことは、もともとずっと以前から考えて |
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9月5日 |
「ぼくよりも他人の噂やたわごとのほうを信用して、結局ぼくをまっ |
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12月15日 |
コンスタンツェと結婚したいと白状した有名な手紙。 |
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12月22日 |
結婚契約書を既に結んでいたと父に白状した手紙。文末に「やつ(ヴィ |
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同 |
姉への手紙。「わが愛する最上のお父さんから、たったいま手紙が届 |
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1782年 |
「とはいえ、(トールヴァルト氏を)ヴェーバー夫人ともども鎖につ |
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1月30日 |
「ぼくの愛するコンスタンツェが、そんな邪な考えを持っているなん |
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8月4日直前 |
ツェツィーリアが、警察を使ってコンスタンツェをヴァルトシュテッ |
この簡単な表で分かる通り、ニッセンの伝記に掲載されなかったこれらの手紙は、ほとんどすべてがコンスタンツェにとって不利な内容の手紙だった。
レーオポルトの手紙は湮滅されてしまってその具体的内容は窺い知れないが、この息子の手紙によって、この父が如何に強く、長期にわたってコンスタンツェとの結婚に反対していたかがよく分かる。それと共に見逃せぬことは、結婚式直前のモーツァルトの手紙(日付不明の上記8月4日直前の手紙)は、この結婚の背景には、後見人トールヴァルト同様、彼女の母もモーツァルトを早く結婚に追い込む策略を巡らしていたことだ。
このように、ニッセンの伝記には伏せられた真実があまりにも多く、かつフィクションまで含まれていて、著しく伝記の客観性を損なうものとなっている。だからこの伝記は、手紙という情報を巧みに操作して、読者に真実を伝えなかったと指摘されても仕方がないだろう。
そして、コンスタンツェが真実を覆うように隠し、自分の都合よいようなストーリーを築き上げたのは、ここに書いた姉と自分の結婚問題だけではなかった。彼女は、手紙を湮滅することによって、結婚後の夫婦仲、生活の様子、そして彼女自身に関する事実などを覆い隠し、これらについては、ニッセンの伝記で自分に都合よく書かせたのだった。今度はそのことを書いてみよう。
ニッセンの伝記における手紙の採用状況(表―8)をもう少し細分化して、年別にはどうなっているかを示すと次のようになる。
(表―9) 『モーツァルト伝』に掲載された年次別手紙の数
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年次 |
掲載総数 |
内モーツァルトの手紙 |
内レーオポルトの手紙 |
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1781 |
6通 |
父へ(6通) |
掲載なし |
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1782 |
9通 |
父へ(8通)、姉へ(1通) |
同上 |
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1783 |
2通 |
父へ(2通) |
同上 |
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1784 |
5通 |
父へ(5通) |
同上 |
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1785 |
6通 |
ハイドンへの献辞(1通) |
娘へ(5通) |
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1786 |
2通 |
掲載なし |
娘へ(2通) |
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1787 |
3通 |
父へ(1通)、姉へ(1通) |
娘へ(1通) |
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1788 |
1通 |
姉へ(1通) |
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1789 |
3通 |
妻へ(2通)、受信(1通) |
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1790 |
3通 |
妻へ(3通) |
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1791 |
0 |
掲載なし |
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合計 |
40通 |
父へ(22通)、姉へ(3) |
娘へ(8通) |
(註)1781年はウィーン時代に入った3月以降を対象とした。
1789年の受信はスヴィーテン男爵から。
ニッセンの書いたこの伝記は、モーツァルトの家族書簡に裏打ちされた本格的伝記で、それまでの伝記と一線を画するものという評価もあるが、この表を見るとその評価が泣くような寂しい限りの掲載数だ。しかもこの表で分かるように、死の年の1791年の手紙の掲載は一通もない。私は愛された妻だったと大見得を切ったコンスタンツェへの手紙は、四十通も保存されているというのに、この伝記に掲載された手紙はたった五通しかない。存在した筈のレーオポルトからモーツァルトへ、妻コンスタンツェから夫モーツァルトに宛てた手紙の掲載は一切ないのである。
上表では、この伝記におけるウィーン時代のモーツァルトの手紙の掲載は四十通あることを示しているが、注意すべきは、モーツァルトの手紙がまるまる掲載されていることではないことだ。これはある意味では当然のことかも知れないが、この伝記でも、ニッセンの判断に従って、一通の手紙から数行しか引用されていない手紙の掲載が少なくない。つまり四十通とは言っても、その情報量は極めて限られたものでしかないことは注意を要することである。
目を家族以外に転じてみると、この期間に採用された家族以外の手紙はたった二通、モーツァルトが自分の六曲の弦楽四重奏曲に付したハイドンへの献辞とスヴィーテン男爵から受けた手紙だけである。
このうちハイドンへの献辞は、モーツァルトのハイドンに対する敬愛の念を滲ませた文章として、掲載の価値は大いにあろうが、スヴィーテンからモーツァルトへの手紙は、なぜニッセンがこんな手紙をわざわざ掲載したかまったく疑問だ。というのは、これはスヴィーテンが、ヘンデルの『メサイア』のアリアの歌詞をモーツァルトに送ります、という用件を伝えただけの手紙でしかなかったからだ。
このスヴィーテンがモーツァルトに書いたとされる手紙は、ニーメチェクの伝記を出典としていて、スヴィーテン自筆の手紙は保存されておらず、その真正性には疑問が抱かれているものだ。こんな手紙を掲載するくらいなら、親しかったヴァルトシュテッテン男爵夫人、親友のフォン・ジャカンやプフベルクへの手紙を載せるべきだったろう。
コンスタンツェはこの伝記で、モーツァルトの度重なる借金のため、家族は貧乏に苦しめられたと吹聴したのだが、それならその証拠として、ニッセンは借金依頼を依頼したモーツァルトの手紙の一通でも掲載すべきだったろう。モーツァルトがプフベルクに書いた借金依頼の手紙は十五通もあるのだが、ただ一通の掲載もないのはどうしてだろうか。
ニッセンの伝記での書簡の採用はこんな状態だから、われわれが、ウィーン時代のモーツァルトの人となりやモーツァルトの家族関係の実際、それに友人との交遊関係がどうだったかをこの伝記に期待しても無駄である。これは明らかにこの伝記の欠点に違いない。
なるほど、この伝記ではモーツァルトの音楽活動についての記述は多い。『フィガロの結婚』から『魔笛』までの五つの歌劇についてはそこそこの紙幅が費やされている。オペラ以外についても、女流ヴァイオリニスト、ストリナザッキとの共演やいくつかの予約演奏会の様子、それにベルリーンとフランクフルトへの演奏旅行、ウィーン宮廷室内音楽家への採用などといったことは遺漏なく記述されている。
だが、これらについてのニッセンの記述が満足かどうかは別問題だ。確かに多岐に渡って取り上げられてはいるが、筆者などは、添乗員にあちこち引き摺りまわされて、なるほど見るだけは見たという気持にさせられる団体旅行に参加したような気にはなるのだが、本当に見たいものをよく見せて貰ったという気には少しもなれない。
それはさて措くとして、この伝記では、結婚後のモーツァルトの家庭生活やザルツブルクの家族との関係、ウィーンの友人との交遊といった話は一切出てこない。通常の伝記では、多少ともこういったエピソードに言及があるものだが、この伝記ではそういった生活や人間関係に関する話題がまるでない。また、レーオポルト、ナンネル、マリーア・アンナ、それにコンスタンツェといった身内の人物描写も見当たらない。そういったことは、あたかも「臭いものに蓋」と言わんばかりに伏せられている。
確かにウィーン時代のモーツァルトは、結婚問題で彼と父は対立し、遺産相続問題では姉に不満を抱くようなことはあった。だが、だからといって彼らの間は音信不通になったわけではなく、直ぐに平常な関係に戻ってずっと手紙のやり取りを続けていた。
1785年にレーオポルトがウィーンのモーツァルトを訪ね、二ヵ月半も息子の家に滞在したのは、親子関係が完全に修復していたからこそだった。それを、モーツァルトは独立したのでもう真面目に手紙を書く態度を失ったなどと、勝手な理由をつけて、あたかも音信がなかったかのように伝記で記述した態度は許されるべきことではあるまい。
レーオポルトの息子への手紙は、ウィーン時代を通じて、確認できるだけでも八十四通はあった。その父の発言を一切封じるなどは犯罪行為にも等しいと言って差し支えないだろう。尚、モーツァルトの姉への手紙は1788年8月2日のものが最後となっているが、これが本当に最後のものかどうか分からない。その後の手紙がコンスタンツェによって破棄された可能性も否定しきれないからだ。
モーツァルトと妻コンスタンツェの間の手紙の取り上げ方も問題だ。
この伝記を読むわれわれの関心事の一つは、モーツァルトは、果たして愛し合った幸福な結婚生活を送れたのかどうかということだろう。
そのモーツァルトが妻に書いた四十通ほどの手紙が現代に遺されているが、この伝記に採用された五通の手紙は、彼がベルリーンへ旅行した時の二通、フランクフルトへ旅行した時の三通だけで、どういうわけか、コンスタンツェが四回もバーデンに赴いた時に交わされた手紙の掲載は一通もない。
しかも、この五通のモーツァルトの手紙には、モーツァルトの優しさや二人の関係がどうだったかを匂わすような記述はまったくないのである。その五通の手紙というのは、旅で誰と面会したとか、演奏会の様子がどうだったかなどの記述だけだ。とりわけフランクフルト旅行中の三通の手紙のうち最初の二通(9月28日付、30日付)は、あたかもこの夫婦の話題の中心が借金問題だったかのように、この旅行とは関係のないホフマイスター相手の金繰りの話の手紙でしかない。
ニッセンの伝記における手紙の引用というのは、省略が多いことと、手紙の何箇所かを貼り合せた形で引用している場合が多く、そのほとんどの場合は、引用した手紙の解説などは付されていないから、読者は、どんな背景、意図の下にそんな手紙が書かれたかを推し量りようがない。この手紙でも、モーツァルトになぜそんな借金が必要だったかの説明は一切ないから、夫婦の手紙として、なぜ突然こんな借金の手紙が顔を出すのか読者は戸惑うだけだ。
こういったように、この伝記に掲載された五通の妻への手紙は、モーツァルトの人間的優しさなどとはまったく関係がない手紙なのである。だが、この伝記に掲載されることはなかったが、幸い保存された彼の妻への手紙を読むと、彼は妻への手紙ではいつも優しいいたわりと愛の言葉を書き綴っていた。
たとえば、ベルリーン旅行中の手紙では、彼は脚部を患っていた妻を案じ、「健康に注意して春の外気に油断しないこと。ひとりで歩かないこと いちばんいいのは 徒歩ではけっして外出しないこと」と書き、フランクフルト旅行での手紙では、「ぼくは時計製造師のためのアダージョを即座に書き上げて、それでいとしいわが奥さんの手のなかに、何ドゥカーテンかのお金を遊ばせようと固く決心し、事実書き始めもしたのだ」、と優しい配慮を示している。
コンスタンツェはバーデンに四回も温泉療養に行ったが、この間モーツァルトは二十三通もの手紙を妻に書いていた。そこには、彼は、「きみがもう入浴をやめたのはとてもうれしくて、なんといってよいかわからないくらいだ」とか、「たった今、恋しいきみの手紙を受け取り、きみが元気で気分もすぐれていることを確認してうれしかった」、と妻を思いやった言葉をたびたび書いている。
だがニッセンの伝記では、こんな手紙はきれいさっぱり削除されているから、この伝記を読んでもモーツァルトの人間的な優しさの片鱗も窺えない。ニッセンは、どうしてこんなモーツァルトのやさしさの一面を描こうとしなかったのだろうか。傍で監視していたコンスタンツェが、そんなことを書くことを許さなかったのだろうか。
さらに、保存された彼の手紙で見逃すことが出来ぬことは、頻繁に書かれた妻への愛情表現だが、そんな愛情表現はニッセンの伝記ではきれいさっぱり割愛されている。
彼は、「ぼくがきみを思っているとおなじくらい、たびたびぼくを思ってくれてる?」、「ぼくがきみを愛してるように、永遠にぼくを愛してくれよ」、そして、「あと二週間で間違いなくきみを抱きしめられると思う」などと書いて、いつも手紙で妻への愛を表現していた。
モーツァルトの手紙で彼女がこのように書かれたことは、彼女にとっても名誉だった筈だ。彼女がモーツァルトの愛の対象だったことを証明する有力な証拠とも考えられるからだ。であれば、ニッセンの伝記でそんな手紙の引用があってもよかったが、どういうわけか、ニッセンはそんな手紙を採用をしなかった。
それに、コンスタンツェのモーツァルトへの返事の手紙も間違いなくあったのだが、これは伝記への掲載どころか、一通残らず捨てられてもう読みようがないようにされてしまった。
筆者はこういった点を非常に訝しく思う。プライヴァシーは書かぬとするのがニッセンの伝記執筆の基本的態度だったからだろうか どうもそんなことではないようだ。
それは、もし夫の妻への手紙を掲載すれば、妻の返事も併せて掲載しなければおかしなことになるが、多分、妻の手紙はとても掲載に値するような代物ではなかったからだろう。
もし妻の返事の手紙に、「私もあなたを愛してます」とでも書いてあったなら、ニッセンはこの夫婦が仲睦まじかった証明として喜んでそれを掲載しただろう。だが彼女の手紙にはそんなことは少しも書いてなかったに違いない。だから妻の手紙の掲載がないのだろう。ある時期から、この二人の夫婦仲の実際は冷えたものになっていたのだ。
おそらく彼女はそんな関係が見て取られないように、この伝記での夫から妻への手紙の掲載はこの五通に留め、自分の夫への返事などは掲載しなかった。
それに、そんなモーツァルトの優しさをこの伝記で書くことは、次に書く「コンスタンツェが語ったモーツァルト像」にそぐわなかったので掲載できなかった。
(4)コンスタンツェの素顔と夫婦仲
最後に指摘しておきたいことは、この伝記からは、コンスタンツェという女性がどういう人物だったか、ウィーンでの二人の生活がどのようなものであったか、そしてこの二人の夫婦仲がどうだったかを窺い知ることができないことだ。
確かにこの伝記中で、コンスタンツェが自分自身のことを賢く優しい良妻賢母のように語ったくだりはある(彼女はその一方で、次で書くように、モーツァルトをどうにも手に負えないふしだらな人間と決め付けている)。過去の人々の多くは彼女のこの言をすっかり信じたのだが、これまでの記述で分かるように、これは彼女に不利な手紙をすべて隠した上で、自分の都合のよいように喋った言としか思えないのである。これは、彼女の言を証する手紙や第三者の証言を伴ったものでは全然なく、第二の夫となったニッセンの観察でもなく、客観性をまるで欠いた自己称賛の弁に過ぎず、それを信用するわけにはいかない。
この伝記からは、モーツァルトの音楽活動以外のウィーンの生活がどんな様子だったかも窺い知れない。
おそらく、否、間違いなく、結婚後のモーツァルトが自分たちはどんな生活を送っているとか、妻の様子がどうだったかを書いた父への手紙の一通や二通はあっただろう。またウィーンのモーツァルトを訪ね、そこに二ヶ月も滞在したレーオポルトが、ザンクト・ギルゲンの娘にそれらについて書いた手紙もあったはずだ。
だが残念なことに、こういった手紙は一切遺されなかった。だから、われわれは遺された手紙だけでは、二人のウィーンでの生活がどうだったか知りようがなくなってしまった。
既に述べたように、コンスタンツェは自分が書いた夫への手紙すべてを自分の手で湮滅してしまった。だからこの伝記を読んでみても、この二人の実際の夫婦仲が睦まじいものだったかどうかは分からない。
もし彼女も本当にモーツァルトを愛していて、彼の手紙への返信で、「私もあなたを愛してます」と書いた手紙の一通でもあったなら、それを後世に保存して、ニッセンの伝記でそれを引用すべきだったろう。しかし、多分そんなことを書いた手紙はなかったので、彼女は自分の手紙すべてを自ら湮滅したに違いない。
以上のようなことから、これは伝記本といいながら、人間関係の記述が隠されたまったく「人の匂いのしない」伝記となってしまったのである。
そのコンスタンツェは、自分に都合の悪い手紙はすべて闇に葬り、事実を見えなくした上で、『モーツァルト伝』の最後の方で自分と夫の人となりについて実に雄弁にまくし立てたのである。では、彼女がどう語ったかを次に書いてみよう。
こういった筆者の見方に対して、中には、主人公を美しく描き上げることを旨とした十九世紀の伝記様式の限界やニッセンの伝記執筆態度を引き合いに出して、プライヴァシーなどを含む多くのことがこの伝記に盛り込まれなかったのは、当時として止むを得なかったという意見もあるに違いない。これに関してニッセンは、『モーツァルト伝』の序文で次のように書いている。
「声望のある人物の名望ならびに尊敬を損うことなしに公衆に提供しうるところの興味深く、特徴のあるものを見い出すためには多くの取捨選択が必要だった」(29)
つまり彼は、「あらゆる真実によって、彼の名声、彼に対する尊敬の念、彼のもろもろの作品の印象が傷つけられうる」と考えたので、「主人公がくまないかたちで叙述されることはない」(同)という態度で執筆したというのだ。
むろん現代のわれわれは、古い昔の「時代の制約」の存在に十分配慮を払うべきは当然だ。だがそれを考慮に入れても、ニッセンの伝記の編集態度にはいささか疑念を抱かざるを得ない。
それは、ニッセンがモーツァルトの音楽業績だけを賛美するだけであって、なぜこの伝記で彼の人間的優しさなど彼の人間的な面を賞賛しようとしなかったという疑問である。褒めて書くことは少しも「時代の制約」には引っかからなかったはずだが、彼はなぜそれを書かなかったのだろうか。
ニッセンは、モーツァルトの名声、彼に対する尊敬の念を傷つけるようなことは書くべきでないとして、これを避けたと序文で言い、それが彼の伝記執筆の基本的態度だと表明しているのだが、それは一体本当だったのだろうか。そう疑問を持つのは、この伝記の中で、彼がモーツァルトの死を論じる少し前に叙述した、モーツァルトの人間性について書いた次の一文である。
「たえず座ったままで、夜遅くまで仕事をし、精神的に緊張していたこととは別に、彼の肉体自体、すでに損われていたに違いない。彼の精神的活動は肉体の活動の犠牲の上にのみ成り立っていたのである。おまけに妻がおり、四人の子供をもうけ、誠実に愛を育んでいた。そして気立てのよい妻は大目に見ていたが、彼には数々の色恋沙汰があった。さらにくわえて、彼は極端から極端へと走った。また、決まった俸給はなく、詩人や巨匠にはごく普通のことだったが、よい夫とは言えず、お金儲けにはうとく、お金を数週間、数ヶ月やりくりすることを知らなかった。彼にはお金の価値がまったくわかっていなかった。仕事が途切れているときには、彼はしばしば妻や子供たちと苦しい生活を送らねばならず、債権者の厚かましい催促に閉口していた。しかしルイドールがいくらか手に入ろうものなら、事態は一変した。今や有頂天になってしまうのだ。モーツァルトはシャンペンとトカイワインに酔い、しまりのない生活をし、数日で以前と同じ経済状態になってしまった」(30)
筆者はこれを読んで、これは一体何ごとだろうと目を疑う。モーツァルトの名声、彼に対する尊敬の念を傷つけることは書くべきでないとしたニッセンが、ここでモーツァルトに対する尊敬の念を、十分にそして立派に傷つけているのだ。
ここに描き出されたモーツァルト像というのは、彼は定職を持てないにも拘らず酒と女に溺れ、返済もままならぬ借金を重ねては妻と子供の生活を苦しめ、金が入るや、それはトカイワインなどの高級酒の呑み代に使ってしまい、要するに、生活を顧みることもないアル中の大馬鹿者だったというのだ。なにやら、モーツァルトはどこかの街角に立つ、稼ぎの乏しいストリート・ミュージシャンのように描かれている。
ここにはモーツァルトに対する敬意の一片も見受けられないが、これが、モーツァルトの名望や尊敬を傷つけないようにと、取捨選択を施した上で公衆に提供されるべき一文だとでもニッセンはいうのだろうか。
こうは書いたが、賢明な読者はすぐお分かりのように、これはニッセンが自分の観察を書いたものではない。ニッセンがウィーンに赴任した時には、モーツァルトは既に死んでいて、彼は生前のモーツァルトを少しも知らなかったからだ。だから、こんなことを書かせたのはコンスタンツェに決まっている。モーツァルト存命中、実際の夫婦仲が悪かったものだから、コンスタンツェはモーツァルトを少しも尊敬せず、挙句の果ては第二の夫にこんなことを恥ずかし気もなく書かしめたのだった。
さすれば、この叙述まで、ニッセンに、モーツァルトの人柄や、生活の様子、夫妻の仲、借金の原因などを記述させなかったのは、コンスタンツェの差し金だったと思っても不思議はなかろう。もしこういったことに関する手紙(例えば、「お金は確かにあるし、家計は、飲食については最大限につつましやかです」と書いたレーオポルトの手紙)を正直に掲載していれば、コンスタンツェはあんなひどいモーツァルト評をニッセンの伝記に掲載出来なくなっていたからだ。
それゆえ、彼女はそれまでは情報を徹底的に隠匿した上で、最後になって容赦なくモーツァルトを一気にこき下ろしたのだった。つまり、スコア・ボードにゼロだけが並んだ単調な野球の試合で、九回裏にコンスタンツェが突然バッター・ボックスに立ち、そこでホームランをかっ飛ばしてこの試合を決定付けたようなものだった。
この伝記本が後世に与えた影響は大きかった。実は、困ったことなのだが、なにしろこの伝記はモーツァルトの家族書簡に裏打ちされた初めての伝記であり、モーツァルト未亡人が傍に付添って、その第二の夫が執筆したということで、そこに書かれていることがすべて真実であるかのように受け取られてきたのである。
モーツァルトを放蕩者とし、コンスタンツェを良妻と祭り上げた源泉は、シュリヒテグロルやニーメチェクの伝記と共に、このニッセンの伝記にあることは疑いを容れないが、何のことはないこの三人の伝記作家も、コンスタンツェの抜け目ない情報統制の下で、彼女に都合のよいように書かされただけなのである。(ただ、ニーメチェクだはコンスタンツェの嘘に辟易し、自分が騙されたことに気が付いて、1800年にブライトコップフ・ウント・ヘルテルに送った手紙で、「モーツァルト未亡人のすべての発言は信じるべきでない」(31)と主張したという)。
そして、すでに見てきたように、ニッセンの伝記というものは、実在した手紙のうちごく僅かの数しか掲載しておらず、その手紙の選択には著しい偏りがあり、掲載された手紙も、コンスタンツェに都合の悪いところは抜け目なく除けて切り貼りされ、一部には捏造した部分も含まれている。それだから、これが本当に公正にモーツァルトを語ったものはとても言い難いのである。
その原因のすべてはコンスタンツェにあると考えて間違いない。彼女はニッセンの傍に居て、かつての新聞検閲官の叙述する伝記をしっかり傍で検閲していたのだった。
コンスタンツェはウィーン時代のモーツァルトを取り巻く大概のことを知らなかった筈はなかった。だからこの伝記で彼女はもっとモーツァルトのことを語るべきだったが、頑なに沈黙を守った。
それは「情報隠し」と言われても仕方がないほど徹底したものだった。その挙句、結婚後の家族の状況(ウィーンでの家庭生活の様子、父子関係のありさま、ザルツブルク里帰り時や父のウィーン訪問時のエピソードなど)、四回にわたる自分のバーデン湯治、モーツァルトと友人の交遊状況、夫のフリーメイスン活動、プフベルクやリヒノフスキーからの借金理由、そしてモーツァルトの死病や葬儀のことなど、こういった人間的な何もかも一切合財が彼女によって語られることはなかった。
だからニッセンの『モーツァルト伝』は、モーツァルトの人間関係や人間的行動の叙述をすっかり欠いて、彼の音楽行動をただ羅列しただけの味気ないものになってしまった。
モーツァルトの没後二百十年以上が経過した今も、モーツァルトの生涯にはあまりにも謎が多く、彼を巡る論が一向に定まらないことは『モーツァルト論を再考する』の全篇にわたって書いた通りである。筆者は、その原因がこうしたコンスタンツェの意図的情報隠しと彼女の妄言にあったと確信している。
モーツァルト像形成の重要な原典資料はモーツァルトの書簡と三冊の伝記にあることに疑いない。従来の論は、現に存在する手紙と伝記に書かれたこと、つまり目に見える部分が議論の中心だった。だがその手紙は数多くが湮滅され、伝記には書かれなかった重要なことが数多く存在していた。それゆえ、改めてこういった目に見えなかった点に目を向け、その背景を十分に吟味して、過去の論を是正することによって真に公正なモーツァルト像を再構築すべきではないかと思う。
(完)
参考文献
( 1) 『ドキュメンタリー モーツァルトの生涯』(O・E・ドイチェ、J・H・アイブル編
井本向二訳 (株)シンフォニア、1989年)
( 2)、(5)、(9)(11)、(12)、(15)
『モーツァルト書簡全集 T〜Y』解説 (海老澤敏・高橋英郎編訳 白水社、
1996〜2001年)
( 3) 『モーツァルトと女性』(C・ベルモンテ著 海老澤敏・栗原雪代訳
音楽之友社 1974年)
( 4)、(8)
『モーツァルト』(M・ソロモン著 石井 宏訳 (株)新書館、1999年)
( 6)、(25)
『Mozart A Documentary Biography』(O.E.Deutsh. translated by
E.Blom.
P.Branscome and J.Noble, Stanford University Press,1983)
( 7)、(19)、(31)
『The Mozart Myths』(W.STAFFORD, Stanford University Press,2002)
(10)、(26)
『Mozart's Women 』(J.Glover, HarperCollins Publishers,2005)
(13)、(17)、(18)、(22)、(24)
『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚』(V・ショークヴィスト著 高藤直樹訳
音楽之友社、1974年)
(14) 『モーツァルト巡礼』(N・M・マリニャーノ、R・ヒューズ編 小池 滋訳
秀文インターナショナル 1786年)
(16) 『モーツァルトとフリーメイスン結社』(P・ネットゥル著 海老澤敏・栗原雪代訳
音楽之友社 1974年)
(20) 『Consranze, Mozart's Beloved』(A. Selby, Turton & Armstrong,
1999)
(21)、(23)、(27〜30)
『Biographie W.A.Mozarts』(G.N.Nissen , Georg Olms Verlag, 1991)
但し(23)を除き邦訳は次を借用した。
(21)、(29)
『モーツァルト像の軌跡(上)』(海老澤敏著 音楽之友社 1977年)
(27)『モーツァルト書簡全集 X』解説 (前掲)
(28)『モーツァルト最後の年』(H・C・ロビンズ・ランドン著 海老澤敏著
音楽之友社 1977年)
(30 『天才の死』(H・バンクル著 柳沢ゆりえ訳 新書館、1992)
作成者 : 藤 澤 修 治
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: ssfuji@mbj.nifty.com
作成日 : 2005年11月 1日
更新日 : 2009年 1月20日 :
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