俺はそのころ9年近く勤めていた会社をやめた。
店の責任者をしていた俺は60名余の部下を持ち、朝早く出社、日中に彼らと指示連絡や
相談、それから夜まで自分の仕事、とびっしり働き詰めだった。仕事は面白く、カワイくてしかも
優秀なおねーちゃんがいて、環境的には良かったのだが疲れきっていた。
ここいらで一休みしてもバチはあたるまい。幸いカネはある。
こうして、天国のような生活が始まった。なにせ、やらなければいけないことがなにもない。
そして貴重な時間を好きなだけ浪費できるのである。
俺は起きていたいだけ起き、好きなだけふとんにしがみつき、目をさませばそのまま大好物である
昨日の飲み残しの日本酒を飲み、次々と本を読み、散歩した。
その頃俺は小樽に住んでいたが、ある日水族館を一人ぶらぶらしていた。昔からサカナは見るのも
食うのも好きなのだ。
電気ウナギや南米産のめずらしい魚もわるくないが、俺が最も好きなのはイワシのいる水槽だった。
群れで泳ぐ彼らは銀色のモザイクのようで、それが次々と形を変えていくさまが美しく、見飽きる
事がない。
その時俺は、これだ!と思った。
運良く誕生日が間近だった俺は彼女に、水槽を買ってくれ、俺はこれから毎日サカナを見て暮らす、
と宣言した。
我ながら素晴らしいアイディアだ。なんせ部屋にミニ水族館を作り、サカナとくらすのだ。まるで貴族だ。
こうして首尾よくタダで水槽を手に入れ、熱帯魚を20匹ほど放した。大きくなっても2、3センチほどの
群泳性の魚だ。
俺は宣言通り、宝石のように光る彼らを朝から晩まで飽きずに眺めていた。
そんなある日、あきらかに前より数段優れたアイディアがひらめいた。
そのアイディアというのは、こうだ。
1 水槽の一部を小穴のたくさんあいたボードで仕切る
2 ミジンコをとってきてその中にいれる
3 勝手に繁殖したミジンコは時々穴から外へ出、サカナのエサとなる
俺はなんて頭がいいのだ!これが成功すればエサをやる必要もなく、サカナどもも
飼い主から自立して生きていけるではないか!
俺はおおいに気を良くし、さっそく近場の沼へとミジンコを探しに行った。
しかし、これが思ったほどいないのである。数が少なく話しにならん。
そこであせった俺はいやがる彼女を無理やり引き連れ、40キロも離れた公園の池まで
行くことにした。
平和な日曜の公園は家族連れで賑わい、その中で俺はひとり怪しく目立っていた。
ヒゲ面にボウシ、サンダル、派手なアロハを着て、その上右手にスポイト、左手にはミジンコをいれる
酢のあきびん、といったいでたちだ。しかし恥ずかしがってるわけにはいかない。
広い敷地内を目を皿にして歩く。
なかなかいない。あっちもだめ、そっちもだめ、そして、ここもだめか、と振り向いた水溜りに、
やつらは、いた。
「おぉ」
とおもわず歓びの声をあげ、近づくと真剣かつ熱心に念願の採取作業を開始した。
一心不乱に作業をし、ふと見上げるといつのまにか30人程の人たちが、いったいこの人は
何をやっているのか、という表情でぐるりと俺を遠巻きにして眺めていた。
「おとうさん、ここに、なんかいるの」
とささやくように親に尋ねる子供の声も聞こえる。そして俺の彼女もとっくの昔に逃げ去っていた。
さすがに恥ずかしくなり俺も逃げたが、俺は勝利に酔いしれていた。
しかし、それは甘かった。どうも温度があわないようで、ミジンコは水槽で飼えなかったのである。
その後、しばらくして、俺とサカナは実家に帰ってきた。ところが、ハハが勝手に入れたエンゼル
フィッシュにすべて食われてしまい、エンゼルの野郎はそのぶんデカくなった。
くそ、と思ったがしょうがない。なんせ家のエンゼルフィッシュは見るからにグレた顔つきを
しているのだ。真のツッパリだ。
40日間の出稼ぎから帰ってくると、水槽がなくなっていた。そうか、とうとう亡くなったか、あいつも。
そう思い、水槽のあった場所に行って俺は目を疑った。
そこには、ハハが色エンピツで描いたらしいエンゼルの「遺影」があり、しかも命日
まで書いてあった。なんでこんなものを?と思ったが、俺は別に何も言わなかった。
だから、いまでもある。