「ヘスターさんがやって来るげな」
「誰な、そん人は?アメリカさんの?」
「でもくらし、やらを教えちくれるとげな」
「何な、そん、『でもくらし』 ちゃ?」
The birth of KYOHO
【プロローグ】
1946年、終戦間もない田主丸町にある日アメリカ人がやって来ました。彼の名はジェームス・M・へスター、駐留米軍・教育課長として在福していました。金髪碧眼のアメリカ青年は田主丸の村人たちに民主主義(デモクラシー)とは何かを流暢な日本語でわかりやすく語ったそうです。その晩、へスターの宿となったのは老舗の造り酒屋・若竹屋酒造場でした。
若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつっつき、酒を酌み交しながらへスターと遅くまでこれからの町づくりについて語り合いました。
「何故あなた方アメリカさんはそげんに体が大きいのかの?」と尋ねる博行に「それはミルクや肉など良質な蛋白質を豊富に摂っているからです。私は一日にミルクを6合(1L)飲みましたよ」とへスター。「民主主義ももちろん重要ですが、日本の将来を担う子供たちの身体をつくることも大切です」乳牛がこれからの地域振興につながること、子供たちに最も必要な蛋白源である事、そして出来るだけの牛を集め、立派な子供たちを育ててゆきなさい、とへスターは熱く語りました。
「へスターさん、こげな田舎でも私達が牛を手に入れる事が出来るだろうか?」博行の口調も次第に熱を帯びてきます。「北海道に牛はいます。我々も最大の援助をしましょう」へスターは米軍の協力を約束したのでした。
こうして驚く事に3年間で200頭もの乳牛が田主丸にやって来ています。しかし残念ながら田主丸の畜産経営は牧草の供給不足から8年で行き詰まってしまいました。
多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索します。酪農の失敗に挫けず、踏み越えてゆこうとするその田主丸農民のチャレンジスピリッツは素晴らしく、一致団結して田主丸の再生にかけていました。
「これからは百姓でも勉強せんといかん。田主丸に先生ば呼んで技術ば身につけようや」その想いが越智通重先生との出会いを生んだのです。
越智は現代では常識となっている栄養周期説を提唱していた大井上康博士の一番弟子であり、この大井上博士はまったく新しい葡萄品種・巨峰を品種交配により生み出した人物だったのです。
大井上博士は当時は既に亡くなっていましたが、静岡の伊豆半島で葡萄の研究を進め、石原早生とオーストラリア産のセンテニアルをかけあわせ昭和12年に新しい葡萄を生み出していたのでした。
しかし、この葡萄は戦中戦後の混乱期や、学会での評価を得られなかったことで日の目をみず、全国に栽培例はありませんでした。
田主丸の再生を賭け、47人の農家たちは貧しい生活の中から集めた開設資金をもとに越智を招聘し、研究機関「九州理農研究所」を若竹屋の提供した土地に設立することになりました。
もともとは稲作栽培研究を主な目的としていましたが、研究を進めるにつれ(大井上博士の遺志「巨峰」をこの田主丸で開花させる事が出来るかもしれない)と越智は考え始めていました。というのは、この土地が山砂まじりの排水性の高い土の上になぜか充分に肥えた地力を備えていたからです。
その土地こそが、へスターと博行の出会いから導入された牛達の糞が染み込んだ、田主丸の畜産運営8年間の証である土だったのです。
その後、周囲の理解を得、越智が持ち込んだ葡萄の苗木は研究所による技術指導と田主丸農家・四十七士の熱心な栽培活動により悲願の大粒の実をつけたのでした。
いまや田主丸は巨峰の誕生により、全国初の「観光果樹園(果樹狩り)」という商法を編み出し、「巨峰ワイン」を生むなどで巨峰のふるさととして知られています。
しかし全国で親しまれている葡萄「巨峰」には田主丸とへスター、越智らとの出逢い、という長いドラマがあったことは現在では余り知られていません。
この巨峰にまつわる物語を知った私たち(観光協会の事務局長、役場の企画課の兄ちゃん、若竹屋の十四代目)は大きな興味を持ち、このドラマを掘り下げてみようと思い、町の住民や健在している主要人物に話を聞くことにしました。
そもそも、 J.M.へスターなる人物は何者なのか、実在しているのか、そんな疑問を持ち、福岡アメリカンセンター(USIS)に問い合わせたところ、なんと彼は現在75歳で健在であることが確認できました。
USISの資料によれば、へスター氏は1946年から一年間在日しており、その後1975年には再来日し東京・青山にある「国連大学」の初代総長としてその創設に関わっていた事がわかりました。現在は、クリントン米大統領もその奨学金援助を受けたというHFG財団(基金)のトップで、米教育界の重鎮であるということでした。
また、若竹屋酒造場の林田博行氏は現在92歳で長崎にて療養中でしたが、当時の事を鮮明に記憶しており様々なエピソードを語ってくれました。
越智通重先生、大井上康博士は他界されましたが、そのご家族の方は田主丸の巨峰園へ訪れる事があるという情報も入ってきました。
興味がますますつのってゆくなか、へスター氏へこの物語りの概要を伝える書状を送ったところ返事がかえってきたのです。そこには町の産業へ思わぬ寄与ができた事への驚きと喜び、そしてもし来日できるならば田主丸を訪れてみたい、との一文が記されていました。
私たちが色めきたった事は言うまでもありません。
「へスターさんを田主丸に呼ぼう!」
こうして、私たち「〜巨峰の誕生を求めて〜The Birth of KYOHO」プロジェクトは発足したのです。
【エピローグ】
戦後の民主主義啓蒙活動を通して田主丸に関わり、国連大学創設に寄与し、現在米国教育界の重鎮であるへスター氏が、あらためて日本に語りかける言葉を聞いてみたい。
そこには今の地方自治、そして日本への力強いメッセージがあるのではないか。また巨峰の誕生秘話を掘り起こす事は、田主丸復興にかけた住民のチャレンジスピリッツを再認識し、これからの町づくりの精神的支柱となるのではないだろうか。
地域の子供たちがへスター氏と直接交流し、お父さん、お祖父さんたちが関わってきた町づくりの物語を知ることは大きな心の財産になるに違いない。
そんな想いが今、私たちの心の中をめぐっています。
このプロジェクトの目的は、田主丸町のみならず内外に対し@へスター氏の田主丸招聘を軸に今後の地域振興について考えるきっかけをつくる、A巨峰誕生にまつわる話を軸に広く田主丸を知っていただく、B以上の事項の実現に対し具体的な企画立案と周囲との協力体制をつくりあげる、ということです。
林田博行氏がへスター氏に会うことがあったら伝えて欲しいと言った言葉があります。「もしあなたが日本にくる事があったら、もう一度スキヤキを食いたかな、巨峰ワインと一緒にの。」私たちはへスター氏の来日をぜひ実現したいと考えています。
99.2.11
copyright(C)1998
Hao Chang all rights reserved.