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全国の 鷹取城・鷹取山城 高取城・高取山城 ・・・・・攻城記・・・・・ |
| みなさまにとっては殆んど興味ないお城と思います。たまたま某の姓に似た名前のお城が全国に散見されるのを知り、軽いルーツ探しのような気持ちで各地の城めぐりと一緒に探訪しております。 どちらかと言えば九州・中国・近畿方面に比較的多くあるようです。 ある姓氏関係の書籍によれば美作の豪族鷹取氏は大和の高取出身とか、高取も鷹取のルーツと同じのようでして共に似たお城として訪城して居ります。 国指定史跡の奈良の高取城(別名、鷹取城)は日本三大山城とかで、愛好家には有名ですが、 訪城した城は殆んどはマイナーの山城で、規模も小さい中世の山城です。しかしやはりそこには数百年の歴史を有し探した山城の頂きに立てば、いささかの縁を感じ、それなりに往古を忍んでおります。 さて全国地図を見ると、同名の山や地名が全国に30以上はあるでしょうか。ある方に、鷹取山は鷹を獲っても良い山で、鷹巣山は獲れない山、とか教えて頂きましたが、面白いお話でもご存知の方が居られましたら是非お教え頂きたいと思います。また同名のお城をご存知でしたら、情報提供頂ければ、大変幸せです |
| (3)鷹取城(熊本県菊池市) | |||
![]() 栗林の上部が本丸 ![]() 殆んど栗林 ![]() 山頂本丸の樹の下の鎮西八郎源為朝の供養板碑 ![]() 左の山が城跡、道路際に標識があります ![]() ちゃんと説明板も |
別名: | 染土城 | |
| 所在地: | 熊本県菊池市龍門鷹取字染土 |
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| 城の形態 | 山城(標高242m、比高120m)・階段状地形 | ||
| 築城年代: | 南北朝時代か | ||
| 築城者: | 主要城主、原田五郎・菊池則隆・隈部親永 | ||
| 最後の城主: | 不明 | ||
| 廃城年代: | 永徳元年(1381)菊池城落城後、九州探題今川了俊によって、落城後廃城か? | ||
| 遺構: | 階段状曲輪、土塁 | ||
| 歴史: | 永徳元年(1381)「深堀文書」によれば、菊池城落城後、九州探題の今川了俊によって、菊池本城が落城、続いて菊池浦染土城に今川勢が押し寄せたところ、「口宮御所退散○}と記載あり、この城に後征西将軍宮「良成(ながなり)親王」が在城していたといいます。 菊池氏は「良成(ながなり)親王」をこの城に退避させたようで、歴史的なことはあまり解明されていないようです。 肥後における中世の有力豪族の「菊池氏18外城」(菊池城の支城)の一つの城です。 |
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| 雑感: | ★殆んどが栗林でした、本丸は背丈ほどの草で進軍は容易でなかった。傾斜地には小さな曲輪が何段にもなってますが規模は小さく見えます。また自然地形が空堀になっています。 山頂から「為朝」が放った弓矢はかなり遠くまで飛んだと伝えられてますが、鎌倉の材木座近くにも確か矢の落ちたという井戸跡があったような。 余談ですが前日に熊本のnさんの紹介で「こなこく城」という立派な天守閣ホテルに宿泊したのですが、この部屋がたまたま、この鷹取城を紹介する菊池18外城の一つの部屋でした。 |
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| 登城口(車): | 菊池神社(菊池氏本城)から133号線を龍門ダム方面に向かい北上、雪野の先、少し登り坂の道路左側に案内と説明板があります。登城口から10分ほどで山頂にの城域に着きます。 前夜、熊本でお世話になったお城の友達の夏さんのご手配でお城風のホテル、「こなこく城」に宿泊しましたが、その部屋が菊池18外城、「鷹取城の室名」を手配して頂いたようで、部屋の床の間にお城の絵が飾られてまして、何ともうれしい旅情となりました。 |
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| 攻城日: | H14/11/25 | ||
| 参考文献:日本城郭大系 | |||
| (4)高取城(奈良県高取町) | |||
本丸天守台側 二の丸からの累々たる石垣群 ![]() 見上げると重畳の石塁 大手門跡 女性武者も石塁の道を行く 二の門東側の水堀 本丸から外郭を見下ろす 六甲山や比叡山、畝傍山等が一望の国見櫓跡からの眺め 二の門入り口にある縄張り図 石井医院の移築城門とか 旧城主の植村氏宅の移築長屋門 |
別名: | 鷹取城(案内板にありました)・芙蓉城 | |
| 所在地: | 奈良県高市郡高取町高取 Tel 0744−52−3334(町役場) |
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| 城の形態 | 山城(標高583m、比高390m)国指定史跡 | ||
| 築城年代: | 南北朝時代・天正12年(1584) | ||
| 築城者: | 越智氏・筒井順慶・豊臣秀長 | ||
| 最後の城主: | 植村氏 | ||
| 廃城年代: | 明治6年(1873) | ||
| 遺構: | 石垣・井戸跡・本丸・ニの丸・三の丸・枡形虎口他 | ||
| 歴史: | 「高取城」は備中松山城、岩村城と並んで日本三大山城の一つといわれます。 奈良盆地と吉野山地方との間に障壁のように連なる山塊中の高峰にあり、近世の山城としては異例の高さと規模を有し、石塁・城壁等実に良く残されています。 明治初期の古写真(高取町教育委員会所蔵)を見ると実に威容な城郭が写されていて、この高い山頂によくもここまでととほとほと感歎してしまいます。 日本城郭体系に拠れば、この城は確証はないのですが、正慶元年(元弘2年1332)に「護良親王」の挙兵に応じた南朝側の大和における有力者の「越智邦澄」によって築かれたといわれます。越智氏が南朝方で活躍した過程で当時吉野朝廷の第一線防御の城だったのではないでしょうか。 永享9年(1437)から翌年にかけて、「越智維通」が幕府軍に対抗して「高取城」に立て籠もった伝承があります(『南朝紀伝』『十津川記』)。当時「高取城」は「越智氏」の本城「貝吹山」の重要な防衛上の詰の城でしたが、越智氏はやがて2流に分れ、民部少輔系統が「高取城」を本城とするようになったといいます。 本格的城郭として改修されたのは戦国期に入ってからのようです。 天正8年(1580)「織田信長」の一国破城令により高取城もいったん破却されたが、信長の死後、天正12年(1584)に大和の支配者「筒井順慶」が廃城を復興させようとし、同13年には「豊臣秀吉」の弟の「秀長」が100万石の太守として郡山城に入城して、「高取城」には重臣の「脇坂安治」に次いで「本多正俊」が入り、「秀長」の命で、同17年(1589)から本格的な城としての大拡張工事が始まった。 本丸、三の丸、侍屋敷などを石垣で囲み、大・小天守と27の櫓、33の門を持つ壮大なものだった。「本田氏」は寛永14年(1637)継嗣なく改易となり、城主はその後、寛永17年(1640)に美濃源氏の流れを汲む「植村家政」が2万5千石で入城して後、14代234年藩政を司り明治に至った。 慶長5年(1600)関が原合戦では大坂方2千の軍勢を退け、幕末には「天誅組」とも戦って撃退させた、難攻不落の名城であった。 城内の諸郭はすべて石垣で固められ、武家屋敷の屋根瓦が今でも至る所に散乱しています。またこの城は広大な屋敷地を備えた山城としてめずらしく、さすがに平時に不便で西の山麓に下屋敷や家臣屋敷が作られたのですが、山上の建物も幕府に普請許可を取り維持保存したといわれます。 |
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| 雑感: | ★「高取城」は日本一の山城とも言われ、お城ファンの方なら知らない人もないくらい有名です。小生のHNと同じなので特に攻城したい城でした。晴れの予報が外れて曇ってしまい写真の方はいまいちでした。 城址は遺構が多く、中世の痕跡は殆んどないようですが山里の山城ということで遺構が殆んど残されたわが国の貴重な城跡で、壮大な石塁が累々と残り、誠に見ごたえがあります。 城跡からは花の吉野山や大阪も一望でき、訪城した日は休日で近隣の方やハイカーの訪れも多く、一緒になった方は犬の散歩に毎日来ているとのことでした。 高取町では例年11月23日に戦国を彩る武者行列などお城祭りが盛大に行われています。 また城郭整備保存には町をあげて努力して頂いているようで、大変有難く思いました。 ★★H18/11/23 「たかとり城祭り」にあわせて再訪、地元のML会員のN氏のお勧めで、今回は壺坂寺からでなく、大手の宗泉寺側から登りました。 AM8時から標高584mの本丸めざし山道を登りますと、480mの所でまず「二の門跡」があり、案内図と大きな水堀や累々と築かれた石垣が見られました。ここから本丸までの比高100mの間に10ヵ所もの枡形門跡や、壮大な石塁は言葉に尽くせないほどのすごいものでした。 本丸までは1時間かけ見学しながらゆっくり登りました。 城内の各所には地元の係の方々が待機しており、さまざまなイベントを用意して、各所で暖かい歓迎を頂きました。大手門から二の丸、本丸と山頂部全域を数段に固めた石塁を見事な紅葉が彩りその景観のすばらしさ。本丸では法螺貝の音、下山の時は、国見櫓跡での勝鬨の 大声が山中に響き渡るなか、林道からは登城者が後から後から登ってきます。なんと250名もの登城者なのでした。城下では時代行列も楽しく拝見でき最良の一日でした。 「司馬遼太郎先生」の『街道を行く 大和・壺坂道 城跡の森』の文中に、『高取城は石垣しか残っていないが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。それが自然林に化した苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコールワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のおそろしさを感じた。』とあり、実に同感する名文でした |
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| 登城口(車): | 初めての方は壺阪寺を目標にしたほうが良いでしょう。 |
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| 攻城日: | H13/2/10 | ||
| 参考文献:日本城郭大系・高取町観光協会資料 参考・関連リンクHP:「高取町観光協会」 |
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| (8)高取城(埼玉県越生おごせ町) | |||
越生神社内高取城説明板 本郭階段下の標識杭 本郭にある祠 三段目の郭の西側の横堀 横堀西端、竪堀跡か 二段目の郭 越生神社(越生氏館) 城は越生神社の横を登る |
別名: | 越生要害城 | |
| 所在地: | 埼玉県越生町越生字高取山 |
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| 城の形態 | 山城(比高150mほど) | ||
| 築城年代: | 不明 | ||
| 築城者: | 越生氏? | ||
| 最後の城主: | ? | ||
| 廃城年代: | ? | ||
| 遺構: | 曲輪・横堀 | ||
| 歴史: | 「高取城」の歴史は定かでない。「越生氏」は武蔵7党の「児玉党」の同族武将の一人と言われ、「児玉資行」の第三子「有行」が「越生新太夫」を名乗った。その子「越生右馬允有弘」は文治5年(1189)の奥羽征討に参戦している。有弘の時代には『報恩寺年譜』によると鎌倉初期、本領の越生郷のほか越辺川上流流域や浅羽氏領に近接する入間川流域の一部なども安堵され、地頭職であったという。 これらの所領は承元2年(1208)有弘からその子「左馬允有高」に譲られ幕府より安堵されている。更に宝治元年(1247)有高の子「左兵衛尉末永(有直)」に譲与されている。この譲状は現存している。 承久3年(1221)の承久の乱の時「有高」は武功をあげ、その恩賞として但馬国気多郡日置郷の地頭職を与えられたが、生越氏はその主流を越生に置き、西国に下向せず、鎌倉時代を通じて本貫地の所領経営・知行を続けていたようである。 越生の法恩寺は氏寺であり、越生氏関係の古文書を残すがその西の字、高取に今は越生神社になっている「越生氏居館跡」があり、その裏山の高取山に詰の砦を構えたものであろうか。 写真で見る現地の説明板によれば「源頼朝」の命により法恩寺を再興した「越生次郎家行」を氏神として越生神社に祀ったとあるが詳細な説明はなく、史実に今ひとつ物足りない感があります。 |
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| 雑感: | ★比企方面に史跡めぐりの機会があり、ついでに朝駆けして「高取城」を訪城する。梅で有名な越生は、いまやあちらこちらの桜が満開、絶好な登城日和でした。お城めぐりの先輩の余湖さんからあらかじめ登城道を伺い、越生駅前から目標の法恩寺へ行く途中の「越生氏館跡」という越生神社を目指しました。 早朝なので神社の空き地に車を置かせて頂き、参道を少し登り、高取山方面へのハイキングコースの標識を左に入り、二股道を右の参道へ、富士の文字の彫られた石碑を過ぎ、15分程で本郭の下の鳥居を構えた石段に着く、ここが「高取城」でした。 本郭には鳥居や祠があり10mほどの方形で、神社の東側は崖状で、西側に郭が2段あり西端の郭の南側に横堀が設けられており、横堀の西端部に竪堀らしい痕跡がある。想像したより遺構はシンプルであり、築城時期は鎌倉初期の砦なのでしょうか。神社の説明には二重、三重の空堀や土塁が残されているとあるが、そのような遺構は発見できませんでした。 |
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| 登城口(車): | 越生神社(越生館)内に留めさせて頂く | ||
| 攻城日: | H17/4/9 | ||
| 参考文献:『安田元久著・武蔵の武士団』参照 参考HP: 「余湖くんのホームページ」 |
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| (9)鷹取山城(鷹取城)(愛媛県今治市) | |||
登城口前の「林道古谷小鴨部線終点」標識 登城道入り口を上から 堀切 本郭西側の堀切、竪堀に 西端の曲輪周囲は急斜面 30×80mほどの広さがあった 西端の曲輪の入り口側の土塁 本郭下斜面の石積み 本郭の城碑 城碑裏の碑文 |
別名: | - | |
| 所在地: | 愛媛県今治市古谷 朝倉役場 Tel:0898-56-2500 |
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| 城の形態 | 山城(標高240m、比高130m)・階段状地形 | ||
| 築城年代: | 戦国時代か | ||
| 築城者: | 主要城主:正岡氏 | ||
| 最後の城主: | 正岡紀伊守 | ||
| 廃城年代: | 天正13年(1585)落城後か | ||
| 遺構: | 階段状曲輪・堀切・土塁・石積み? | ||
| 歴史: | 「鷹取山城」は今治平野の南部から北流する頓田川が下朝倉付近で東流しながら大きく蛇行する左岸の鷹取山山頂に立地しており、東北部には今治平野が展開しており、南に「龍門山城」、南東に「世田山城・笠松山城」、東には頓田川を隔てて「霊仙山城・国分山城」を望む山地要地にあります。 築造年代ならびに築城者が誰であるかは明らかでありませんが、「河野家重臣」の「正岡氏」が戦国時代に築城したとほぼ推定されています。 「予陽河野家譜」などに拠ると、大永3年(1523)7月に鷹取山城主「正岡紀伊守経貞」が盟主「河野通直」に対して謀叛を計画したとして、「通直」は家臣団の「重見・来島氏」に命じて討伐にあたらせたところ、「経貞」もついに降伏、身柄は来島家にお預けとなりました。城には城代として「高山左近将監(中川組)「得重石見守(正岡組)」両名が入城しましたが後に、「紀伊守経貞」は罪を許されて、再び「河野氏」の旗の下で活躍したようです。 60年後の天正13年(1585)、「鷹取山城」は秀吉の四国征伐により、「小早川隆景」の大軍によって攻撃され城主「正岡紀伊守」(経貞とは別人で経長か)は戦いもせず落城、これ以後、廃城となったといわれます。 旧朝倉村の上古谷にある「竹林寺」には「正岡紀伊守経長」の五輪塔が祭祀されており、この竹林寺には若き「河野通堯」が「世田山城」落城の際にこの寺に匿われたとも伝えられます。 また村内には今でも正岡氏の重臣であり、一門でもあった「清水姓」の人々が古くより会を作り「鷹取祭」と称し、城碑を建て、正岡氏を崇祀しております。城下の田谷でやはり清水さんの姓の会の方に奇特なうれしい話を聞くことが出来ました。 |
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| 雑感: | ★前日夕、登城道が不明で、翌朝を期して今治駅前のホテルに投宿、こちらのオーナーが、なんと城主と同じ姓の正岡さん、「正岡会」の方で、事情を話したら、正岡氏の「鷹取城」(鷹取城といってました)のことも参考資料と共に詳しく教えて頂きほんとに助かりました。 更に幸運なことに翌早朝にホテルに参られた「鷹取山城」にくわしい古谷在住の方に、登城口の「保安林の看板」まで、ご案内を頂く果報に恵まれました。誠に感謝に尽きないことでした。こうした思い掛けないラッキーがなければ山中の登城口を見つけることは不可能でした。 さて縄張り図も無く、平素の城めぐりの感に頼り、ひたすら教えて頂いた山頂方向を目指しました。 蜘蛛の巣をはらいながら、山稜を横切るように尾根の杣道をまず20分ほど登りますと、尾根の切れる場所に出ます、ここから斜面を50mほど一旦下りまして、道は左へ登り道が続いています。ここから道なりにしばらく尾根を行きますと堀切が2本あり、その先に削平された尾根上郭が見られます、さらに少し行きますと本丸直下の堀切で杣道が途切れます、その正面の裸面の急な斜面を少し直登しますと、篠群のなかに石積みが現れます。この石は青石で表面がいまでも新しい肌のままの石です。積み方が雑な感じで後代のものかも知れません。このすぐ上が最上部の本郭でしょうか、わずかな空き地を作り地元の清水姓の方々の建てた立派な碑文入りの石碑がありました。その先は篠藪でもう入れません。 一旦元の堀切に戻り、堀切の西側の雑木林の斜面の細道をしばらく入りますと、右手上の本丸の西側尾根の先端に深い堀切が見え、更にその先端尾根には30×80mほどの曲輪がありました。虎口には土塁も見られました。 「鷹取山城」は河岸段丘上に聳える山頂を削平して築城され、山頂より70m付近までは傾斜は急で、主軸方向は南北を志向しており、郭配置は中央部が高い階段式形態となっています。期待以上の遺構があり、すっかりうれしくなりました。 この城の遺構がこれだけ残っているとは、お城フアンの方でもあまり知られていないのではないでしょうか。お勧めしたい城でした。所要時間は1時間25分でした。でも猪には要注意とのことです。 |
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| 登城口(車): | 「田谷(たや)」の「多岐神社」の「赤い大鳥居」を目指し、その鳥居をくぐったら、舗装された一車線の林道を「窓の峠」という峠を目指します。ちょうど峠の分岐点辺りで道路の工事中でしたが、ここを右にカーブして少し入ると写真のような「林道古谷小鴨部線終点」の道路標識と「保安林の看板」の看板がすぐ目に入ります。この看板の裏に少し広めの道があり、ここから道なりに登ります。尾根伝いに上記のように攻城するとよいでしょう。 車は看板の前に1台ほどの余地があります。林道はここから下りになり麓の村落に通じていますが、標識のすぐ下の道路際に保安林の説明板がありました。 登城ポイントはこれら看板だけで、お城の関係は何もありません。是非教育委員会で案内板を建ててほしいと思います。 |
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| 攻城日: | H18/9/30 | ||
| 参考文献:日本城郭大系・「正岡一族」正岡族系研究会発足記念出版・ 関連リンクHP:「正岡氏ゆかりの史跡を行く」・ |
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