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ラジオ普及期
昭和初年の紙面には、今のような「家電業界」という言葉は出てこない。もっぱら「ラジオ業界」であった。昭和七年の業界はまだ、ラジオの普及期にあった。それだけに当時の紙面は、記事、広告ともにラジオが独占している。その年の第一号、一月十五日付けの『ラジオ公論』一面では、「放送事業者の方策は業界の好材料で、ラジオ普及を刺激し需要盛況を期待するのは各人同感であろう」と、期待の大きさの一面を披露している。
一月十六日には、全国のラジオ聴取者数が百万を突破したという日本放送協会(NHK)発表の記事が見られる。これによると地区別で最も多いのは関東で約四十三万九千、次いで関西の約三十一万八千だった。
同協会はこれを記念して、全国でラジオ祭を開くとも発表している。その内容は、各地での講演会のほか、病院、養老院、孤児院などへのラジオ寄贈、東京、大阪、名古屋のラジオ店対象のラジオ技術講習会を盛り込んでいる。NHKのラジオ普及への取り組みの強さのほどがうかがわれる出来事のひとつで、業界と一体となった姿勢は今日も変化ない。
また聴取者数の推移を報じる記事は、この前後にも随所に見られるが、平成の今は、機器の推移を伝える報道は、ラジオから携帯電話やPHSの加入者数の推移の記事に変わっている。
ラジオ特許騒動
この頃、「ラジオ特許紛争」が起こっている。大正十三年にラジオ部品の製造から興った東京の山中無線電機と、安藤博氏という人物がSG二二四級受信機の特許を巡って争ったのだ。紙面によると、事件は安藤氏が取締役を努める日本無線通信が山中無線電機を特許侵害で訴えたことに端を発する。
しかしこの特許、実は「ラジオ魔」の異名を持ち、特許侵害を盾に取って利益を得ようと目論む常習者とされる安藤氏がっていた。安藤氏は、東京電気から製作権の許諾を得て山中無線電機が製作したラジオが、「自らの特許に抵触している」として、山中無線電機の製品一切の仮差し押さえを行った、というものだ。
業界は一致して、ラジオ魔を「国民の公敵」として排撃を訴え、『ラジオ公論』もそれに同調、紙面の多くをこれの報道に割いている。さらに三月十八日には、大阪発明協会常務理事の牧野栄次郎氏のほか朝日乾電池社長松本亀太郎氏、早川金属所長早川徳次氏、松下電器製作所中尾哲次郎氏ら業界関係者二十四人を招いて特許問題対策座談会を、大阪市西区の信濃橋倶楽部会議室で開いているほどだ。
この座談会は、四時間にもわたって行われたが、同日、東京地方裁判所は、差押解除という決定を下しており、とりあえずは業界が望むとおり、「ラジオ魔排除」の方向で落ち着いた。
この一件を機会に、業界は特許問題に関心を払うようになったのだが、『ラジオ公論』も四月十五日付けから「ラジオ関係特許公告欄」を新設している。
しかし安藤氏は、今度は「コンドル一〇〇号」というラジオ受信機を製造販売する坂本製作所(東京)に対して、やはり特許侵害を訴え、損害賠償を求めている。
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