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『タイムスリップ』
(エッセイスト:前田正夫氏/World Readerメールマガジン・http://world-reader.ne.jp/掲載から)
新たに発見された丹後半島の弥生墳丘墓の−今、「丹後」と言われるこの地域は、もとは[丹波]と呼ばれた広大な国で、おそらく大陸や朝鮮半島からの渡来人が多く住んだところだった。そして当時は先進文化を持ったこの渡来人たちが強い勢力を持っていたことが推測される(99/9/22)
最近丹後半島の付け根部にあたる峰山町北部で、弥生時代後期としては最大級の墳丘墓が発見され、またその主体部(埋葬部)は国内最大の規模であることが報じられました。
墳丘墓は峰山町から網野町へ通じる府道にそった高さ55メートルの丘陵上に造られていて、中世には山城として使用されていました。赤坂今井墳丘墓と言います。付近には、高地性環濠集落があった扇谷遺跡や青龍3年鏡が出土した大田南古墳群など弥生から古墳時代にかけての遺跡が多く存在するところです。
墳丘は南北約37・5m、東西約32・5m、高さ3・5mの方形台状墓で、弥生時代後期の墳丘墓としては、国内最大級の規模を持ち、周囲には幅5〜6mのテラスが設けられています。墳丘の造成にあたっては、盛り土を行っていて、同時期の墳墓が山を削って墳丘を区画したのと違って、多数の労働力を使ったことが指摘されています。
墳丘部中央には、南北14m、東西4m以上という巨大な主体部があり(未発掘)、この規模は弥生時代としては、国内最大級とされています。ほかにこの主体部と隣接して舟形木棺と組合せ式箱型木棺の埋葬墓があるほか、テラスを含めて全部で12基が発掘されています。
この巨大な埋葬施設に収められた被葬者は、この区域が広い可耕地域を持たなかったことから、農耕を基盤に勢力を得た人物とは考えにくく、またこの墳丘墓が日本海側(網野町)と後背地域(峰山町から野田川町、さらに京都方面へ、また久美浜、豊岡から加古川方面へ)を結ぶ幹線にそった個所に築造されていることから、九州や朝鮮半島あるいは中国との独自の交流,交易を基盤にしてきた人物ではなかったかと言われています。
今、「丹後」と言われるこの地域は、もとは[丹波]と呼ばれた広大な国でした。おそらく大陸や朝鮮半島からの渡来人が多く住んだところだったのでしょう。そして当時は先進文化を持ったこの人たちが強い勢力を持っていたことが推測されます。日本書紀や古事記にもこの地域の伝承が多く記されています。
今まで軽視されていたこの地域の見直しが言われていますが,こんどの赤坂今井墳丘墓の発見はこの流れを一層強化するものであり,おそらく[丹波]の国の中心部であったこの地域(峰山町には[丹波]と言う地名が残っている。)
の様相を明らかにするために役立つものと考えられます。
巨大な主体部の発掘結果が待たれます。

エッセイスト:前田正夫・MARKのエッセイのページ
http://homepage3.nifty.com/markmaeda/
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