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ラジオの歴史で昭和二十年八月十五日の昭和天皇による「終戦詔書」の玉音放送は、きわめて大きなイベントであった。
この日は水曜日だった。早朝、日本放送協会の放送会館は一部の軍人によって占拠され、午前五時から同七時二十分まで、放送ができなかった。しかし昭和天皇の終戦詔書の玉音は、そのときすでに録音されており、あとは放送するだけの状態にあったのだが、占拠した軍人たちは、力で放送を中止させようとしたわけだ。
同協会の職員などの努力で放送は、同七時二十一分に再開する。「本日、正午から御自ら御放送遊ばされます。恐れ多き極みでございます。国民は一人残さず謹んで玉音を拝しますように」といった玉音予告ニュースが九分間にわたって放送されたのだ。
正午。和田放送員によって玉音放送は告げられる。
「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立を願います」
さらに繰り返して、「重大発表であります」と、和田放送員は呼びかけている。
続いて下村放送員が、「天皇陛下におかれましては全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給ふことになりました。これよりつつしみて玉音をお送り申し上げます」と放送した。
そして国歌「君が代」が流された後、「朕、深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ−−」で始まる昭和天皇による玉音が三十七分間放送された。
四年前、開戦を伝えた同じラジオが、今度は天皇陛下自らの声による終戦の詔書を聴くことになったのだ。今のような聴取率というものはなかったが、多くの国民が聴いたと思われる。
しかしこの年、ラジオの受信契約者数は五百七十二万八千七十六件で、普及率は三九・二%。決して全世帯に行き渡っていたわけではなかった。しかもラジオの生産台数は前年から急速に落ち込んでおり、昭和十八年には七十万七千台あった生産台数は、十九年には二十四万台に、そして二十年には六万九千台になっていた。
当時、学校から舞鶴の海軍工廠に動員されていた女性は、工場で全員が整列して放送を聴いたという。
「朝、工廠へ行くとお昼に重要な放送があるので全員集合するように言われました。受信状態が悪くて、何が放送されているのかまったく分かりませんでした。それでも周囲から戦争が終わったと聞かされて、ようやく終わった、と喜んだものです」
玉音放送は、ラジオを持つ全家庭が放送を聴いていたわけではなく、「聴かなかった」という人たちは少なくない。しかし放送は、海外に向けても行われ中国、満州、南方諸地域の将兵や邦人にも終戦詔書は伝えられた。詔書を二十数カ国語に翻訳して、八月十五日以後も放送されたという。
玉音を伝えたラジオは、このあと数年間は、情報伝達の最有力メディアの地位を保ち続ける。
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