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幻のオリンピックとなった昭和十五年の東京オリンピックは、全世界へ向けてテレビ放送される予定になっていたことはすでに触れた通りだ。残念にもどちらも戦争によって実現せず、戦後まで待たなければいけなかった。が、昭和十二年には、「東京オリンピック放送計画」が策定されていた。
逓信省と日本放送協会が共同で委員会を作り、東京オリンピックの放送設備と予算計画を練り上げたのは、昭和十二年春だった。
それによると四二七五万四〇〇円が総予算で、このうち逓信省が一五八一万五四〇〇円、日本放送協会が二六九三万五〇〇〇円をそれぞれ負担する、というものだった。
設備計画は国内放送と国際放送に分けて、組まれていた。
国内放送設備に関しては、競技場内に二、三の録音用アナウンサーボックスを設けるほか、水泳、馬術、自動車、拳闘、ホッケーの競技場にもボックスを設けるとしている。そこには増幅器、信号盤、監視盤なども設置。
また競技場と放送本部をむすぶために、連絡用電話を架設するとし、競技場と放送局間にはケーブルを敷設するとした。ヨット、ボート、マラソンなどの競技には、無線中継器を導入する計画だったという。
新しい東京放送会館は、オリンピック開催までには完成する予定になっていた。このとき大阪はすでに新局舎が完成していた。新東京放送会館の中には、増幅盤、信号盤、など八つの中継設備を設け、オリンピックまでに東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸、松山、北九州で超短波によるテレビ放送を開始。
東京・大阪間の中継は同心ケーブルで、大阪・北九州間は超短波を使うことになっていた。
これらの設備はすべて大会期間中に限定した臨時のものだが、大会終了後も使用する恒久設備として、大阪と北九州に一〇〇キロ二重放送施設、根室、青森、米沢、福島、飯田、姫路、福山、宇和島、松山、萩、くるめ、佐世保、大分など十九カ所に小電力放送局を設置する計画だった。
一方、国際放送用の設備としては、ヨーロッパ、米国、アジアなどへ向けての国際放送用送信機として、五〇キロワットタイプを五台、二〇キロワットタイプ五台、主にアジア向けの一〇キロワットタイプ六台を設置する。
これら送信機は、写真電送にも利用され、放送閑散期には主要方面に向けては二台以上の送信機を使うことが望ましいとしていた。
またいずれも電信電話兼用タイプであり、オリンピック終了後には海外へ向けての電信電話、海外放送用として転用が考えられていた。
予算のうち臨時施設に百万円、恒久施設に一〇一四万九四〇〇円が充てられ、またテレビ施設に一八五六万一〇〇〇円、国際放送設備に八三五万円とされていた。
歴史に「もし」という言葉はないが、この計画が現実のものになっていたら、日本の放送業界はもっと早くラジオからテレビへと主役が移っていたかも知れない。
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