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 1999年アジアのかけ橋タイ研修記 

第1章 準備不足と不安
 新婚旅行で海外へ行かなかった自分には、もう海外旅行などする機会はないのではと思っていたが、静岡県教育委員会主催の「アジアのかけ橋タイ研修」の一員に選ばれて、初めての海外旅行、しかも、飛行機に乗るのも初めてという体験をすることになった。昨年度の参加者の事後報告書で、タイではほとんどの参加者が体調を崩した(主に下痢)ということを知り、緊張と不安はますます募るばかりであった。
 11月21日から12月4日まで2週間も学校を離れるので、授業を振り替えたり、期末試験を準備したり、おまけに、自宅を建て替えるために仮住まいに引っ越すということも重なって、事前にタイについて調べる時間はとれないままだった。また、タイ研修参加者が一同に集まる事前研修会も3回しかなく、なおかつ、そのうちの1回は1年生山の村宿泊研修のため欠席し、ほとんどタイについては知識のないまま出かけることになった。2年生の修学旅行のように十分に事前研修をしておけば良かったと後で思ったが、その時には遅すぎた。1年生諸君、来年度の修学旅行の前には是非十分に事前研修をしておこう。
 成田からユナイテッド航空のボーイング777(だと思う)に乗って一路タイの首都バンコクへ。約6時間半のフライトである。前日まで本当にタイに行くのか、数日前に風邪を引いてしまったのでそれがひどくなって行かなくてもよくなるといいなあなどと思ったりもしていたが、成田空港に着いたらさすがにタイに行かねばならぬのだ、もう引き返せないのだという気持ちになってきた。予定では午後6時に出発のはずが、1時間機内で待たされて7時に飛び立つ。おっ、この感覚はディズニーランドのスターツアーズと同じじゃないかと、飛行機初体験の私は思ってしまう。6時間を越える旅を狭いエコノミークラスの座席に縛り付けられているのでは飽きてしまうのではないかと思ったが、ビデオを見たり音楽を聴いたりしているうちに瞬く間に時間はたって、ドン・ムアン国際空港に着いた。タイと日本では時差が2時間あり、タイの方が遅れている。そのタイの時間で12時になろうとしている。自分の体内時計は日本時間の午前2時である。さすがに眠い。また、やはり暑い。
 タイの気候区分では、11月から2月が乾季で年間で最も平均気温が低く、湿度も少なくて一番良い時期だそうである。しかし、気温が低いといっても、その気温は日本の夏と同じである。冬の入り口にさしかかった日本から来た人間にとってはこの暑さで体調を崩してしまうのではないかと心配になる。だが、湿度がないことで実は日本の夏に比べてずっと過ごしやすいことに後で気付くことになった。
 バンコク郊外にある空港からバス(右ハンドル。車の通行は日本と同じなのである)に乗り、我々の生活の拠点となるバンコクの中心街にあるホテルへと向かう。日本企業のネオンサインがあちこちにあり、本当に外国に来たのかなあと思ってしまう。さらに、ホテルに近付くとあちこちに見慣れた7マークのコンビ二がある。コンビ二まであるとは聞いていなかったぞ!
 我々のホテルのそばにもコンビ二があり、このコンビ二でミネラルウォーターを毎日買うことになった。タイでは上水道の水質は飲料に適さないので、現地の人たちも皆ミネラルウォーターを飲んでいる。タイのミネラルウォータの値段は500ミリリットルのペットボトル入りで7バーツ、日本円にして20円である。ちなみに、ホテルでは1リットル入りのボトルが1人1本毎日無料で冷蔵庫に用意されていた。ミネラルウォーターを買うためのためのタイ語を事前研修会で習ってあったのだが、まったく日本と同じコンビ二であったため、言葉を知らなくても買物はできたのだった。また、歯磨きをしたときの口を濯ぐのにもミネラルウォーターを使うという注意をしたためか、最後まで腹を下すということもなかった。一番の不安は杞憂に終ったのである。
 ホテルに到着したのはタイ時間で午前1時。それから簡単なミーティングをして、ベッドに入れたのは午前2時を回っていた。体の感覚は依然として日本時間の午前4時であり、毎日起きている時間の6時に近く、ほとんど徹夜気分である。時差は2時間なので時差ぼけの心配は少ないと聞かされていたものの、その後2週間の間、日本時間の午前6時に目が覚めてしまい、寝られないという辛さを味わうことになった。

第2章 スラム街
 タイ王国の人口はおよそ6000万人、その一割の600万人が首都バンコクに住む。さらに、その1割の60万人がスラム街の住人である。60万人という数は富士市の人口のおよそ3倍である。いったいこの60万もの人々はどういう所に住んでいるのだろう。私にとってのスラム街のイメージというのは、スパイク・リーやジョン・シングルトンといったアフリカ系アメリカ人監督の映画の舞台になったニューヨークの下町の廃墟と化したビル街である。ところが、タイのスラム街はちょっと違っていたのである。
 タイ政府によるスラム街の定義は「公有地を不法に占拠して建てられた住宅街」なんだそうである。地方から職を求めてバンコクに出てきた人々がその貧しさのために普通のアパートなどには住めず、線路や河川・運河(バンコクは、日本でいうと大阪のように運河が何本も通っている)脇の空き地などに雨風をしのげるだけの建物を建てて生活している、それがバンコクのスラムなのである。
 このスラム街の人々を援助するために日本のボランティア団体がいくつも活動している。我々が見学し、そこに住む人々と交流会を持ったのは、SVAというボランティア団体が活動している、チャオプラヤ川(私の学生時代にはメナム川と教わった。「メナム」とはタイ語で「川」のことである。川の名前を尋ねたら、地元の人たちがただ「川」としか答えなかったので、こうなったに違いない)への玄関口クロントイ港のそばの2ヶ所のスラムであった。
 スラム街を見学して思ったのは、自分が子供だった頃の昭和30年代の日本の様子と変わらないということである。敗戦後20年間くらいは日本人の多くも、とりあえず雨風がしのげれば良いという状態で生活していたのである。一緒に行った高校生諸君はその生活状況の貧しさに驚いていたようだったが、私と同世代の教員は皆、なんか懐かしいねえ、という感想をまず口にしたのである。
 タイあるいはその他の発展途上国の人々が日本に学びたいと思っていることは、結局、日本は敗戦後のスラム的状況からどうやって抜け出すことができたのかということではないか。これに対する満足な解答はまだ誰も見つけていないように思える。Y高校の生徒諸君の中から、発展途上国の人々がそれぞれの国の実情に合わせて応用できるような理論的説明を見つけだす人が現われれば、スラム街に直接出かけてボランティアをする以上の貢献ができると思う(もちろん、これはボランティア活動が無意味だと言っているのではない)。

第3章 学校教育
 タイの教育制度は、基本的には日本と同じで6334制である。違っているのは、義務教育が小学校の6年間だけであること、中学と高校が一貫教育で6年制の中等学校と呼ばれていること、の2点である。タイにおいても、現在の日本と同様に教育改革が進められている。それは、バンコク一極集中(日本の東京集中よりすごい)を解消していきたいという目標のもとに地方の教育環境の整備を進めるということ、教育内容の情報化・国際化ということが柱になっている。義務教育の期間も中等学校の前半までの九年間に延長する(つまり、日本と同じになる)ことも検討されているという。
 タイの教育が抱えている最大の問題点は、家庭の経済的理由で義務教育ですら満足に受けることのできない子供たちが多数存在していることである。小学校は義務教育であるから学費はもちろんかからない。しかし、実際に授業を受ける際の教材費は払わねばならない。貧しくてこの教材費が出せない家庭も多いのである。実際、スラムでの日本人ボランティアも子供たちの学習環境を保障するということを活動の大きな柱にしているのである。
 義務教育ですら満足に受けられない層が存在しているわけであるから、中等学校へ進学できる子供たちというのは、かなり経済的に恵まれている家庭の子供たちである。タイの社会は日本以上に学歴社会で、大学を出ていないと十分な収入は得られない。経済的な豊かさや社会的地位をさらに求めるとなると、イギリス、アメリカ、日本のうちのいずれかに留学しないと駄目なのだそうである。タイの経済は、日本と同じように数年前にバブルが崩壊し(IMFショックとタイの人は呼んでいる)、厳しい状況が続いていてやっと上向いてきている。このIMFショックはアメリカに仕組まれたものと考えられていて、アメリカの評判は落ちている。そのために日本への期待は大きく、訪問した中等学校2校では日本語クラス(英語が必修の第1外国語で、日本語は選択科目の第2外国語である)があり、日本で勉強したいとどの生徒も希望を述べていた。
 かつての日本でもそうであったが、発展途上国というのは科学技術の習得に熱心である。理科教員として、このままタイに残って物理や化学の授業をしたいと思うほど、理科教育や数学教育のための施設が充実しており、生徒たちもレベルの高い授業に熱心に取り組んでいた。授業見学ができたのは数学と情報科学の時間であったが、数学は高校1年生にあたるクラスで日本では2年生で習うような内容を学習していた。情報科学では生徒1人に1台ずつインターネットに接続されたパソコンが用意されていた。授業の感想を聞かれたときには、日本では理科を好きでない生徒が増えており、その内容もやさしくなっていて、科学技術の分野でタイは日本をすぐに追い抜くでしょう、と正直な気持ちを答えたら、タイの教師たちに驚かれた。
 語学教育においてもタイは日本よりレベルが高い。高校生の年代の生徒たちはかなり自由に英語で話すことができる。3泊ほどホームステイをしたのだが、中等学校の英語教師だというホストより、高校1年生の次女の方が訛りのない英語を話したくらいである。

第4章 君はどの島に住んでいるんだい?
 タイにいる間中、私は懐かしいという感覚に包まれていた。外国に来たというより、2、30年前の日本にタイムトラベルをしたような気持ちだったのである。タイというのは、20年ちょっと前の日本の状況の中にインターネットがあるような国なのである。そういうわけで、あまり自分自身強烈なカルチャーショックのようなものは感じなかったのだが、ひとつだけはっとさせられた体験をした。それは、ホームステイ先の出来事であった。ホストの中学生の次男の英語の家庭教師がやってきていて、彼が私に英語で話し掛けてきたのである。
 「君はどの島に住んでいるんだい?」
 「私は島には住んでいません。」
 「そうじゃなくってね、日本には4つの島があるでしょう。北海道、本州、九州、えーと、もうひとつ、何だったけ?」
 「四国。」
 「そう、四国だ。そのうちのどれに住んでいるんだい?」
 「本州。」
 「本州ね。OK。」
 日本列島という言葉を使うことがたびたびあるわけだけれども、自分にとっての島というのは、淡島とか初島、あるいは、淡路島であって、本州が島であるという意識は実際にはなかったのである。この会話をしたのちに訪れた中等学校の教師からも同じ質問を受けて、その時には迷うことなく「本州」と答えることができた。この体験で、私は他の国の人から見たら小さな島に住んでいるんだ、国境が地面の上にある大陸の国に住んでいるのではないんだということを、地理の時間に習った知識から自覚的な意識に改めることになったのである。

(以上、Y高校生徒会誌掲載。2000年1月記)


 1999年アジアのかけ橋タイ研修日程

11月21日(日)17:50 成田発 ユナイティッド航空(UA)875便にて離日。バンコク、ウインザー・スイート・ホテル泊

11月22日(月)市内見学(王宮、エメラルド寺院、暁の寺)

11月23日(火)NGO(SVA)訪問(クロントイスラム等)

11月24日(水)教育相訪問、ホームステイ初日

11月25日(木)サムセン・ウイッタヤライ校訪問(国立の中等学校)

11月26日(金)同校訪問、ホームステイ最終日

11月27日(土)ホストファミリーと観光(パタヤ・ビーチほか)

11月28日(日)バンパイン宮殿・アユタヤ遺跡見学、タイ航空国内線でウボンラチャタニへ。リージェント・パレス・ホテル泊

11月29日(月)青年海外協力隊訪問(ウボンラチャタニ大学)

11月30日(火)パアオ村訪問、ベンチャママハラート校訪問

12月 1日(水)パーテム遺跡見学(メコン川河畔)、タイ航空国内線でバンコクに戻る。ウインザー・スイート・ホテル泊。

12月 2日(木)エンケイ・タイ(日系自動車部品メーカー)見学

12月 3日(金)水上マーケット、ローズガーデン見学

12月 4日(土)8:30 ドン・ムアン発 ユナイティッド航空(UA)876便にて帰国。


 私は島に住んでいる

 「君はどの島に住んでいるんだい?」
 「私は島には住んでいません。」
 「いや、いや、そんなはずはない。北海道を知ってるかい?」
 「北海道には行ったことがないです。」
 「そうじゃなくってね、日本には4つの島があるでしょう。北海道、本州、九州、えーと、もうひとつ、何だったけ?」
 「四国。」
 「そう、四国。そのうちのどの島に住んでいるんだい?」
 「本州です。」
 「OK。」
 これは、私がホームステイ先で、ホストファミリーの末の息子(中学生)の英語の家庭教師と交わした会話である。この会話が、今回のタイ研修の中でもっともハッとさせられた体験だった。日本人である私にとって「島」というのは、初島とか伊豆大島、あるいは、佐渡島のことであって、自分の住んでいる静岡県のある本州が「島」であるという意識はまったくなかったのである。
 ベンチャママハラート校でも、昼食時に同校の教員から同じ質問を受けた。次の日、メコン川の向こう岸からはラオスというパーテムに行ったわけだが、視界の中で一続きになっている土地が別々の国に分割されているのだということは、なかなか意識することができなかった。これも、国境がすべて海上にある「島」に住んでいるためなのだろう。
 地理を学生時代に学んだときに、「日本列島」「島国日本」という言葉が何度も出てきたわけだけれども、自分が島に住んでいるんだと実感したり、その本当の意味を理解しようとはしていなかったのである。ひと続きの土地の中に国を分割する線がないことの特殊性を考えるようになったのが、今回の研修の一番の成果であったように思う。
 サムセン・ウィッタヤライ校で、タイダンスの授業を見学したときに、タイ周辺諸国、ビルマ、ラオス、中国、インドなどの踊りがすべて入ってきていて、現在ではそのすべてがタイの踊りになっているという説明があった。これも、ひと続きの大陸の中にあるゆえに起こりうることだろう。寺院の建築様式にしても、同様に周辺諸国の様式と混合、混在しているのである。
 日本でも、古来中国を始めとして諸外国からの影響が存在しているが、海を渡らねばならないということによる自然のフィルターがあって、タイにあるような非常に直接的な混合や混在は少ないように思う。
 タイの情報化のスピードは日本を上回っているように思えたが、これも国境線を容易に越えて他国民が入ってくる地理的条件や歴史(過去は侵略、最近では難民の流入など)と無縁ではないように思われる。
 見学した3つの学校には、伝統芸能や音楽、工芸の授業がかならずあったのも、自国のアイデンティティを保つことを怠ると、ひと続きの土地の上に便宜上引かれているの過ぎない国境線が容易に変わりうるということが暗に意識されているように思う。日本のように海という自然の防波堤は存在しないのである。
 私は島に住んでいる。これは、世界の中では非常にラッキーなことなのだ。

(以上、県教委への公式報告レポート。1999年12月記) 


 タイ研修記補遺 その1

第1章 ホテル
 バンコクでのホテルは、スクンビット通りのウィンザー・スイート・ホテルであった。日本で出ているガイドブックにはあまり載っていないホテルであるが、近所のインペリアルクイーンズパークと同程度のかなり豪華なホテルであるように思う。 実のところ、ホテルのスイートルームに泊まるなぞ、海外旅行に行ったこともなかったので、このときまでしたことはなかった。同行の添乗員に宿泊料金を尋ねたら、こんな豪華なホテルでも、日本円で1泊5000円程度だとのことで、びっくりしてしまった。ホテルにはプールなどのさまざまな施設があったが、過密スケジュールのためと海外旅行が初めてだったためもあって、見学してくることすらしなかった。実に、もったいなかった、と今では思っている。もう一度泊まってみたいホテルである。
 泊まっていた部屋の窓からは、我々が帰国する次の日に開通したスカイトレイン(モノレール)が、試運転で動いているのが良く見えた。地震もなく台風も来ないという地域なので日本の建築物よりずっと華奢な作りで、こんな高い階では揺れることもあるのではないかと思ったが、そのようなことはまったくなかった。
 教育省を訪問して、いよいよ3日間のホームステイとなるわけだけれど、ホストファミリーとの対面は、教育相近くの衣料品マーケットの路地を入っていったプリンス・パレス・ホテルの展望ホールだった。この展望ホールからは、バンコク1高いというバイヨーク・タワー(教育相の担当者の発音では、バイオ・タワーに聞こえ、バイオテクノロジーのバイオかと思ってしまった)が見え、スモッグにより変化した熱帯の空の色の印象から、「魔都バンコク」というフレーズが浮かんできた。
 ウボンラチャタニ(以下、タイ式にウボンと略す)では、リージェント・パレス・ホテルという空港から教育大学に向かう途中にあるホテルだったが、中に入ると、伊豆のちょっと年数のたったホテルのような感じで、こちらの方が親近感を感じた。このホテルにおける最大の問題は、朝食で、バナナとハムと卵しかなく、パンの一切れもつかなかったことである。さすがに、この食事では昼まで持たず、近くのコンビニでパンを買い込むなどの対処をせねばならなかった。
 バンコクでもウボンでも、水の状態は悪く、飲み水は完全にミネラルウォーターであった。バスルームのお湯は出るには出たが、赤茶けたお湯であった。したがって、湯船にはあまりつからず、シャワーをある程度出しておいて、赤い色が少しは落ちた状態でお湯を浴びていた。

第2章 ホームステイ
 よもや、40歳を過ぎて、ホームステイなどという体験をすることになるとは思っても見なかった。しかし、これは実に良い体験であった。こんな体験はこれが最初で最後だろうと思ったのだが、なんと、次の年に国際科の2年生のオーストラリア語学研修について行くことなり、さらに長い10日間のホームステイを体験してしまった。こうして、私は、タイのバンコクとオーストラリアのロックハンプトン(この町の空港に降り立った瞬間に、オーストラリアのウボン!と思ってしまった)に、「家族」ができてしまったのである。
 話を元に戻して、ホームステイ先は、バンコク中心街からドン・ムアン空港の方へ自家用車で1時間(うわさに聞いていた渋滞はとてもひどかった)ほど行ったところであった。ラドプラオ通りという郊外の幹線道路から一寸入った、同じ形の家が立ち並ぶ所で、新興住宅地という感じであった。
 わがホストファーザーは、中等学校の英語の教員で、ホストマザーも同じ学校の数学の教員であった。子供は、JALWAYSのスチュワーデスの長女(日本語が少し話せる)、大学生の長男、高校生の次女(98年に2週間、神戸でホームステイしたことがあり、日本語も勉強中)、中学生の次男の4人。姓は、カオトンといい、明らかに中国系である。でも、中国語を普段使っているようには見えなかった。
 美人の長女が同席してくれるときには、日本語と英語で会話をし、いないときは、英語で会話をした。一番困ったのは、英語が不得意なホストマザーだけになってしまったときだった(あまりなかったけれど)。英会話を正式に習ったことはなかったが、字幕のない直輸入版のアメリカアニメやSF映画を何度も見返したり、誰も訳してくれないアニメ研究書を自分で訳す、「重力の虹」の誤訳を指摘するなどということをしていたためか、予想以上に自分の英語が通じて(ホストファーザーと長女から、日本人なまりの発音でなくて良くわかると言われ、英語をどのくらい勉強したのかと尋ねられた)、それなりに会話ができたのであった。次女が日本で仕入れてきた「オカマ」という言葉の由来を聞かれたときに、それは大人の情事にかかわることだよという意味の英文がすっと口から出せて、彼女たちに受けたのだが、そのようなセリフをすっと言えるとは自分でも信じられなかった。
 某通信教育の会社が、聞くだけで英語がわかるようになる、話せるようになると宣伝しているが、私は、この某社が宣伝しているような学習方法を知らず知らずのうちにしていたのであろう。ということは、この会社の高い教材を買う必要はなく、ただ、自分の好きなアメリカ映画の字幕がないビデオを買って、何度も何度も見返すだけでよいのである。
 こうして、ある程度英語でコミュニケーションが取れたので、もう少し微妙なところまで伝えられたらいいなあと思い、きちんと英会話を勉強しなおそうかと思ったりもしたが、結局、何もしていない。
 ホームステイは3泊4日であった。2日目の夜、パタヤビーチのティファニーにニューハーフショーを見に行かないかと誘われたが、体調も完全でなく、時差にもなれていなかったので断った。最後の夜は、国王の誕生日が近づいてバンコクの中心街のあちこちがイルミネーションで飾られているのを見てまわり、チャイナタウンの一角の屋台でバーミーというタイ式中華ソバを食べた。日本のラーメンとはかなり違う味だったが、おいしかった。日本では、トムヤムクン味のタイラーメンの方が手に入りやいが、この屋台の中華ソバの方が断然うまい。辛味は少なく日本人向きである。
 ホームステイ最終日は、ホスト夫妻とパタヤビーチに出かけた。これは、事前の手紙で、海に行ってみたいと希望を伝えてあったために、ホスト夫妻が計画してくれたことであった。バンコクから高速道路を使って約2時間のドライブ。初めて見る熱帯の海に期待したのだが、砂浜がまったく狭く 、まるで、熱海の海岸のようでがっかりしてしまった。ホテルなどが立ち並ぶ所からさらに海側に新しい道路を作ってしまい、砂浜がほとんどなくなってしまったのだそうである。パタヤから1時間ほどバンコク方向に戻ったところにバンサン・ビーチというテント内にビーチベッドがあってリラックスできる所があるから、そこに行くか、と、ホストファーザーから提案があったので、この日本で手に入るガイドブックにはどこにも載っていないビーチに行くことにした。ここが実に、良いところだった。体調が完全であれば、泳いでみたかった!(実は、水着は持参していた)

第3章 タイ料理
 タイといえば、料理である。事前に知っていたのは、辛いということだけ。もともと、辛い料理はあまり好きでない。タイ米も、かつて、米が不作だった年に、一度だけ我が家の食卓に上ったことがあったが、特に良い印象はなかった。私の住む沼津市には当時、1軒だけジッラダーというタイ料理屋があったが、事前に行ってみるだけの勇気もなかった。したがって、口に合うだろうか? という不安だけが大きかった。ところが、である。すっかり、タイ料理のファンになってかえってくることになったのである。
 私の父が長い間肝臓を患っていたため 、我が家の味付けは70年代からずっと薄味であった。その後結婚した妻の料理も薄味である。タイへ行く前の時点で、私は、トンカツやてんぷらにソースや醤油はかけず、サラダにもほとんどドレッシングをかけずに食べるのが習慣になっていた。さらに、ギョーザなどは、醤油よりも酢の方を圧倒的に多くして食べている。このような私には、素材そのままの味を生かし、塩を直接ふって加えることをしない、甘酸っぱ辛いタイ料理の味は、いくら食べても口の中が塩辛くならず、実に魅力的な味に感じられたのである!
 ほとんどの料理をおいしく食べられたわけなのだが、タイにいる間に食べたもので、これは口に合わないと感じたものが2つあった。そのひとつは、ホームステイ初日、MKというタイスキ(タイのすき焼き、というネーミングなのだそうだが、実際には、水炊きである)のファミリーレストランで、カオトンさん一家と夕食を取った時に食べたチャーシューである。このチャーシューの甘みがココナッツミルクも使ってつけられていたのが、耐えられなかったのである。ただし、そのときは、これから、もっと口に合わないものが出てくるかもしれないから、慣れておこうと、無理して食べた。まあ、肉をかんでいけば、普通のチャーシューの味になっていくので、勘弁してくださいというほどではなかった。
 二つ目もまた、タイスキにかかわるものだった。タイでの研修もあと2日になった夕食が、ガイドブックに載っている有名なカントン・レストランだった。ここで、タイスキを味わった最後に、その鍋にご飯を入れて日本風のおじやにして、出してくれた。これが実に日本風の醤油味おじやで、その塩味がきつすぎて、私は、この旅行で初めて、自分の食器に盛られた料理を食べきることができなかったのである。無論、同行した他のメンバーは、ああ日本の味だといって、おいしいおいしいと食べていた。
 成田からの帰りのバスの中で、夕食として、幕の内弁当が出た。日本のご飯の方が、やっぱり、おいしい、という声がする中で、私は、こんなねちねちしたご飯はおいしくないぞと感じていた。子供の頃から、ご飯が好きではなかった自分を、このとき、再発見した。味付のご飯でなければお替りをせず、お赤飯は食べなかった自分を。ウボンで、タイ米のおこわをおいしく感じてお替りしたことを思い出し、インディカ米のもち米が自分の味覚(食感)にはベストマッチなのだと、見出した次第である。

(付録)沼津のタイ料理レストラン
ジッラダー/シリン/シーサッチャナーライ(リコー通り、寿町イタリアントマト隣)
 沼津で最初のタイ料理屋ジッラダーをやっていた女性料理人が、2002年の夏にタイに帰ってしまい、その友人の男性がオーナー・シェフとなり、店の名前も「アジア料理 シリン」に変わった。そのため、メニューは増え、ベトナム料理(フォーや生春巻き)もある。ジッラダーの時よりもやや、味は濃いめ。でも、他の店よりも自分がタイで食べた味に近い薄味(だから、日本人の普通の男性には物足りない味だろう)。ジッラダーでの人気メニューは引き継がれているが、やはり、ジッラダーのおばさんシェフがここに帰ってくることを望みたい。
 2004年の春に、このおばさんが日本に戻ってきて、店の名前も「シーサッチャナーライ」というものに変わり、現在営業している。ジッラダーのときの、微妙にスパイシーで繊細な味のチャーハンが復活した。メニューはタイ料理だけにもどり、ジッラダーだった時とは、同じ名前の料理でも多少違う味付けになったものもある。それはタイ料理が以前よりも広く受け入れられるようになったためであると感じる。私が外食する場合、まず第一に出かけようと思う店である。

亜里屋(大手町、さんさん通り旧国1交差点南東角)
 かつてのジッラダーと同様に、タイ人の女性シェフと日本人の男性マネージャーの店。ランチメニューのエビチャーハンと肉団子スープセットを食したが、肉団子スープの塩味が現地の味よりも濃かった。その後、再びランチメニューで鶏肉入り甘辛野菜炒めライスを食したが、やや塩味が濃いめ(特に、豆腐スープ)ではあるが、十分にタイの味であった。タイ料理を作るのは女性の方がいい。街中なので駐車場がなく、車で行きにくいのが難点(すぐ近くに契約駐車場はある)。

パタヤ(桃郷、414号線牛臥入り口交差点)
 タイ人夫妻の店。シェフは男性。店は広く、多人数のグループで食事会をするにはよい店。ただし、味は日本人向けに濃くなっている。トムヤムクンは塩味が強すぎ、酸味も少なく、本場の味とはかけ離れている。もっとも、タイ料理は初めてという日本人にはよいと思う。タイ料理につきものの調味料4点セットなしで、出されたままを食べられるし。
 職場の食事会で行ったときに、タイ人の客も来ていたが、同じ味付けで料理を出しているとは思えない。タイ料理がふと食べたくなって、一人でふらりと食べに行くことは多分ないだろう。


 タイ研修記補遺 その2

第4章 仏教
 タイは仏教国である。この仏教は、日本や中国の大乗仏教とは違って、個人の修行を重視する上座仏教である。タイの男性は、人生の中で1回は出家して僧侶となり、修行をしてこないと一人前とはみなされない。この修行は2年間程度というのが普通だそうで、出家したら元に戻れない日本とは違っている。国王も敬虔な仏教徒でなければならず、王子の間に一介の僧侶として修行することになっているという。
 このように仏教が国教なので、公立学校の授業の中にも、仏教に時間がある。でも、これは、日本の道徳の時間の内容とほとんど変わらなかった。各学校には必ず仏像がある。私が訪問したサムセン・ウイッタヤライ校では、校門脇にあって、遅刻した生徒がこの像の前に並ばされて指導されていた。
 面白いなと思ったのは、タイでも、氏神様のようなピーという霊的存在(ガイドブックなどでは、精霊と訳されている)が、お釈迦様に手を合わせるのと同様に信仰されているということである。庭の一角などに、日本の神棚や小さな祠にそっくりな木製の神殿にピーを祭ってあるのが、目に付いた。スラム街の狭く臭く薄暗い路地の一角にもあった。
 神棚と仏壇が共存することを、西洋的な一神教の観点から見て、おかしいのではないかという指摘がされたりするが、それは、東アジアの土着の神様を受け入れて各地に広がっていった仏教のひとつの特徴であるように思う。言い換えると、神仏習合こそ、仏教の特徴なのだという気がするのである。だから、日本はやっぱり、基本的に仏教国なのだと思う。最近、梅原猛らの、江戸時代までの仏教的伝統を見直すべきであるという主張があり、仏教に対する見直し機運が出てきているが、これには賛同する(タイに行かなければ、このような主張に同調しなかったと思う)。
 ホームステイしている日に、国家事業のダムの完成式があり、国王が臨席しているために、テレビはどのチャンネルも、この完成式の中継をやっていた。このときに、タイで一番偉いお坊さんが、ダムの安全な運用を祈念するお経を上げていた。その画面を見て、カオトンさんから、日本でも、天皇が出席する国家行事でお坊さんがお経を上げるようなことがあるか、と、聞かれた。とりあえず、そのようなことはない、と答えたが、天皇の役割を英語で説明する難しさを感じたし、emperorという単語を使うことにも違和感があった。

第5章 日本の影響
 テレビでは、「クレヨンしんちゃん」、「サラリーマン金太郎」等の日本製のアニメやドラマをやっていた。すべてタイ語に吹きかえられているが、登場人物の名前は、そのままで、「しんちゃん」「きんちゃん」と、わけのわからぬ言葉の間に、聞き知った名前が入るのが妙に面白かった。クレヨンしんちゃんの声は、案外かわいい高い声に吹きかえられていて、ちょっとイメージがずれているように思われた。もっとも、日本でも、ワーナー漫画のトゥイーティは、原語の低いメル・ブランクの男声から、高いかわいらしい声に変わっているので、同様のことをしているのだが。また、日本映画や劇場用長編アニメを特集上映するイベントのポスターが、街のいろいろなところに貼られていた(スラム街の公民館にも張られていた)。
 日本のアニメのキャラクター商品はサンリオキャラの商品などと並んで、あちこちで見かけた。ホスト宅でも、キティちゃんの絵のついたデスクマットを使っていた。書店に行くと、日本のマンガのタイ語版がたくさん売られているし、日本のゲームソフトの怪しげな海賊版が、相当に安い値段で、バンコクの秋葉原と言われるパンティップ・プラザやその周辺の屋台で売られていた。ホストファミリーの末っ子に、日本について知っていることをたずねたら、東京タワーが333メートルであることを知っていた。どこから知ったのかとさらに聞いたら、「ドラえもん」に出てきたということであった。訪問先の学校で、日本語を勉強しているクラスの生徒に、日本語に興味を持ったのはどういうことからかと聞いたら、男の子はゲーム、女の子は歌をあげる生徒が多かった。
 自動車や電気製品は、やはり、日本製が多い。教育相の我々の相手をしてくれた人の話では、自動車はトヨタとホンダがシェアのトップ争いをしているそうで、日本国内ではホンダはトヨタの半分以下のシェアであるといっても、そんなことはないだろうという反応だった。タイでは、ホンダの方がトヨタよりも高い評価をされているらしい。わがホストのマイカーもホンダのアコードであった。次の年にオーストラリアに行ったが、ここでも、ホストファミリーで自動車の話題になったときに、ホンダの方が評価が高いように感じられた。ホンダ好きだった私には、どちらも、うれしく感じられることであった。
 タイの伝統文化は、インドと中国の影響下に成立しているが、その上に、今、日本の影響が流れ込んできている、という感じを受けた。もっとも、ハリウッド映画に代表されるアメリカ文化の影響の方が、より先んじているように思われるのだけれども。

(以上 2004年1月記・2005年3月一部訂正)


 

 2002年小笠原鯨探しクルーズ記
ぱしふぃっく びいなす での家族旅行の記録です。


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