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ジョン・バーンス
ジョン・バーンズ John Allen Barnes(1957〜 )
最近頭角を現した、アメリカのSF作家。
あんまり良い関連ページはない。せいぜい次のくらい。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Barnes_(author)
http://www.eternalnight.co.uk/books/b/barnesjohn.html
http://sfbook.com/modules.php?authorid=7
http://www.hycyber.com/SF/barnes_john.html
http://www.sfandf.com/html/scifi-fantasy-books.html?id=2&p1=John%20Barnes
『軌道通信』Orbital
Resonance (1991)小野田和子訳(ハヤカワ文庫SF)
地球が大災害にあったずっと後、軌道上の少女が、地球の人に向って書けと言われた宿題が、この小説の中身である。従ってティーンエイジャーの臭
いがぷんぷんするジュブナイルである。ただ、彼ら宇宙軌道の立場というのは、一歩間違えば死に繋がるため、責任等のプレッシャーは普通の少年少女とは掛け
離れた大きなものになる。その上、地球の地面に住む者たちとも軋轢がある。そういう中で、ジュブナイルの定石、人間的成長を遂げるという話である。ただ、
作者の意図は結構いやらしいところがあって、読者の価値観を180度変えてしまうように作っている。つまり、読者の成長も促しているのだ、具体的には読ん
でもらうしかないが。もっとも、無重力でのスポーツや船外作業というシーンは読んでいて楽しい。もっともそれを期待して読むのは、読み方がずれています
が。
『大暴風[上][下]』Mother
of Storms (1994)中原尚哉訳(ハヤカワ文庫SF)
最近のアメリカ作家はどうもとっつきが悪くなったように思える。ジョン・E・スティス、ロバート・J・ソウヤー(こちらはカナダ作家だが)、そして、このジョン・バーンズと、どうも出だし
がしっくりしない。もっとも中身はしっかりして、サイエンス・フィクションと呼べるSFになっている。バーンズの『軌道通信』で主人公の世界に馴染むまで
には、ヒロインの投げやりな作文態度にも苛つきながら読んでいたのだが、読み終わると、これは面白かったと言えるようになる。
この『大暴風』もそうである。上巻半分までは世界の構成・政治情勢、XVという感覚の送受信文化、人物関係の複雑さに、たるいなあとくたびれていまし
た。本の帯には巨大ハリケーンの恐怖とあり、よくあるパニック映画や小説のようであるし、これで残り1冊半読むのかと、ややげんなりしていました。しか
し、読んでいると作者があくまでサイエンス・フィクションを書こうとしているのだと分かります。引き合いにフリッツ・ライバーの『放浪惑星』を出せば少し
は理解されるのでは無いでしょうか(読んでいない人はヒューゴー賞受賞作だから読むのも悪くないでしょう)。多面的見地から書かれた『放浪惑
星』は中身を個別に見れば、パニック小説の趣がある。しかし、その大災害の原因や、内部に抱えるイデオロギーの問題は、単なるパニック小説でなく、「世
界」というものを描いていることが分かります。
それで考えると、『大暴風』の前半に「世界」を描くことに、ジョン・バーンズが力を注いでいるのが分かります。『軌道通信』も「世界」を描くことが重要な
ポイントだったと思います。構築された「世界」があって、そこに人がいる。人がいて、その「世界」のルールに従わざるを得ない物語がある。SFの場合、そ
の「世界」を自分たちで変えてしまうことも出来る。(それがSFの定義かということに及ぶと、また問題だが)、それが通常のパニック小説と異なる所。
後半になれば、前半で構築された世界が意味を持ってくる。そして、個性的人物像が生きている。根っからの悪人とも言えず、かと言って擁護したくもない登
場人物もいるし、善人とも言えるかも知れないが、最初は嫌な奴だったのもいる。要するに、善悪愛憎は切り分けれないのが普通の人間であるって、当たり前の
こと描いているだけなんです。この手は『軌道通信』でも使われていて、読者の登場人物に対する好悪を主人公の目を通して、反転させています。加えて『大暴
風』ではそういった読者の身を置ける視点がいくつもあり、何人も好悪を反転させられます。それでいても作者が嫌らしいとは思わない(大抵は悪い奴が、根は
良い奴だと変るからと言えるかもしれない)。
本の厚さと人物の数とについて行ける人には面白い作品であると思う。
参考:『放浪惑星』フリッツ・ライバー/創元SF文庫
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