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グレゴリー・ベンフォード
グレゴリー・ベンフォード Gregory Benford(1941〜 )
深い現代科学の知識と、アメリカ南部の育てた文学趣味が彼の作品を形成する。意外と知られていないが、根っからのSFファン、つまりSFファンダム上が
りでもある。現在はカリフォルニア大学はアービン校で大学教授をやっている。関係サイトはここ。(リンクは張っていない)
公式サイト
http://www.authorcafe.com/benford/
大学のサイト
http://www.ps.uci.edu/physics/benford.html
インタビューが載っていました。それはここ。
http://www.sfsite.com/03b/ben29.htm
http://www.catch22.com/SF/ARB/SFB/Benford,Gregory.php3
http://www.fantasticfiction.co.uk/authors/Gregory_Benford.htm
Oceanシリーズないし、銀河中心シリーズ
第1部
『夜の大海の中で』In the Ocean of Night(1977)山高昭訳(早川書房/ハヤカワ文庫SF)
原作シリーズは1977年に始まった。正確には、本になったのがその年である。それ以前に幾つかの中編があり、それがまとまったのが『夜の大海の中で』
であった。私が読み出したのは『夜の大海の中で』が文庫として出た86年からである。元々はバラバラの短編であったため、それをfix-upしたとも言え
ます。主人公のナイジェル・ウォームズリーはとかく孤立しがちな秀才タイプである。つまり頭は切れるが頑なで協調性に欠ける人物である。それでも、アメリ
カのベンチャービジネスの成功者のように、タフさとその頑なさで苦難を切り抜けて行く。広大な宇宙と時間を背景として、個人の視点から物語は語られる(ナ
イジェルだけが視点ではないが)。従来のSFの登場人物とベンフォードの登場人物とはこのあたりからして違う。
それは、イカロス探査から始まった。NASAは小惑星イカロス(実在します)が人工的な天体であることを発見する。それはある種の警報機であり、それが
作動した。それを見つけた主人公ナイジェルがこの物語の視点となる。ナイジェルは三角関係な結婚をしている。ところがこの結婚がほころびを見せる。今から
考えると、そういう結婚観の世の中になるとベンフォードは考えたみたいだけど、そこまで人間は変わらなかった(逆に言えば、だからこそ未だに未来SFとし
て読めるのだ)。この三角関係が壊れたのは、一人=アレクサンドリアの死であるが、彼女の身体を通して、外世界から<スナーク>が警告を送ってくる。ス
ナークは警報を受け取ったのだ。更に<スナーク>は次なるスイッチにリレーする。それは月に埋もれた異知性の残したものだった。月の部では、後にナイジェ
ルと生涯を共にすることになるニッカが出てくる。これが人類対機械知性の戦いの始まりであった。
『星々の海をこえて』Across the Sea of
Suns(1984)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
チェスの序盤戦のような動きのない『夜の大海の中で』が動き出すのが、本書である。人類の手は、外世界へ伸びる。相対性理論から、亜光速で進めば、遥か
な別恒星まで、ウラシマ効果のために年を取らずに進める。この遠征=探索隊にナイジェルとニッカたちはむかう。
一方、地球も機械知性のため、有機体知性同士の衝突が生じていた。果して人類はどうなるのであろうか? ベンフォードの視線からすれば、人類が死のうが
生きようが、とりわけ関心があるように見えない。こういう突き放した書き方って好きですね。このシリーズはこれで終った筈である。だからこれ以降は別の話
である(ということにしたい)。
第2部
『大いなる天上の河[上][下]』Great Sky
River(1987)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
メカ(機械知性)と人類の抗争は更にエスカレートしていた。そこで要塞を追われ放浪の旅にあるビショップ族の主要メンバー・キリーンが視点の中心となる
作品がこの作品である。開拓時代を思わせる泥臭さ、血なまぐささが全体のトーンである。そしてマンティスを筆頭とするメカは人間への奇妙な好奇心を持って
いた。狩るメカと狩られる人間たち。
『光の潮流[上][下]』Tides of Light(1989)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
故郷を古の宇宙船で脱出したキリーンたちは、ミリアポディア族、一種のサイボーグ種族と出会う。宇宙紐を使って、惑星をぶった切るミリアポディア。彼/
彼女に惑星を貫通した穴に落とされるキリーン。しかし、物理の実験みたいな話というのは、本当にやっても、あんまし驚かないもんである。
第3部
『荒れ狂う深淵』Furious Gulf(1994)冬川亘訳(ハヤカワ文庫SF)
『光の潮流』で、巨大ブラック・ホールに向かう事になったキリーンたち。今度の主役はキリーンの息子トビーです。まあ、一作、二作でナイジェル、三作四
作で、キリーンと来たので、主人公が変っても悪くはない。しかし、キリーンのアスペクトがアーサーで、トビーのアスペクトがアイザックって言うのは、作者
もおちゃめである(張り合うシーンまで作るのは、ほとんど内輪受け。何人がアーサーアスペクトのことを覚えていただろうか)。
前半、トビーとキリーンの対立は『アレフの彼方』を思い起こさせ、途中、トビーがミリアポディアのクゥアートと冒険するのは、なんとなくクラーク作品の
続編になる『悠久の銀河帝国』を思い浮かべてしまう(そう言えば、場所設定も)。最後の方で、トビーが動き回る世界は、某オーストラリアニュー
ジーランド作家の傑作SFに似ているような気がする。更には、最後に読者を唖然とさせて、次作にというのは、ベンフォードも最近傾向が変ったのかも知れな
い。そう思うのは、たまたまF&SFで、ベンフォードがノンフィクションのコラムを書いていて、それを読んだのも影響しています。その内容はNHKの「銀
河宇宙オデッセイ」に大きくかかわるものでした。別に暴露話ではないのですが、NHKとの仕事でいろいろと学ぶというか得るものがあったようです。話の骨
子は「科学を人口に介するのは難しい」ということなんで、サイエンス番組を作るのは難しいという例にNHKが引き出されている訳です。
『輝く永遠への航海[上][下]』Sailing Bright
Eternity(1995)冬川亘訳(ハヤカワ文庫SF)
私も終った筈の話をまだ読んでいたことに、一種の感動を覚える。グレゴリー・ベンフォードの(訳されたとはいえ)文体は重苦しいが、それに耐性がある、
ないし惹きつける魅力を感じるからだと思う。
エルゴ界に突入するまでは、ブラックホールの織り成す降着円盤での描写からまさに”荒れ狂う深淵”であった。ところが、エルゴ界に突入してからはさなが
ら異世界ファンタジーと化す。エスティと呼ばれる(時と場所の混交した)この世界では、空間の歪みが物質化するのである。そこで、トビーはナイジェル・
ウォームズリーと出会う。後半となる『輝く永遠への航海[上][下]』では、ナイジェル、キリーン、トビーらの複数の視点から、人類の行く末、メカの行く
末、そして宇宙の行く末が、個人の経験や見地が渾然となって(悪く言えば、こちらの方がより適切だが、ごちゃまぜとなって)、この狂える場所/時・エス
ティで描かれるのである。(個人的にはなんとなく「非A」を想起してしまうが、これは私の読書経験からすると無理もないかな、と思っている)
ベンフォードには文章力がある。例え、わけが分からなくなる話でも、それをそうと感じさせない、あるいは読者に受け入れさせてしまう。ナイジェルが出現
し、全く違った世界である第1部と第2部を結びつけてしまった時点で、そのつぎはぎが生じているが、強引に押し通してしまった。その代わり、最後にはちゃ
んと捻っているところは流石で、なかなかこすからい手合いだと思う。一方、哲学的な、というより文学的な個人の世界として見る方が素直な気もする。人間と
人間の葛藤、父と子、男と女。それに加えて、SFならではの、エイリアンやメカや高度な知性体等の、人類とは異質な存在との意志疎通・愛憎をも組込み、技
術や文化が異なった人類世代の違和感も含めて、描いているのが、ベンフォードの作品である。考えてみれば、この異質な存在とのコンタクトは『夜の大海の中
で』のスナークとの出会いからしてそうであり、『星々の海をこえて』の中で出会うナチュラルたちもそうであった。
ただ読み終わった時に思ったのは、これで漸く完結したなということだけであった。この結末からは続編は作れない・・・だろう(ベンフォードには前科があ
るから、一抹の不安はあるが)。ふと、私のこの10年間というものを思い出して、巻頭にある献辞がなるほどと脳裏を掠めて行く。ハードサイエンスSFとし
て始まったこのシリーズも終って見れば、哲学的SFとなっている。もちろん、大事なのはその世界の中で生きている、個々の人間であり、それゆえ私は文学的
SFとレッテルを貼る方が適切であると思うのである。
『木星プロジェクト』Jupiter Project(1975)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
発表は1975年ですが、訳されたのは、ボイジャーで木星探査を行った後の改稿版です。木星の衛星、水星よりも大きな星、ガニメデを開発しようと、ス
テーションを作った人類。そこでは、西部開拓時代のように、子供たちも同居してる。そこで、その青少年を取り上げた一応ジュブナイルで、大人に一歩手前の
マットたちが活躍します。読後やたら、日本人をヨイショするベンフォードと個人的には思っています。
『もし星が神ならば』If the Stars Are Gods(1978) with Gordon
Eklund宮脇孝雄訳(早川書房/ハヤカワ文庫SF)
ゴードン・エクランドと組んで作った連作短編集です。火星での惨めな発見、太陽の声を聞くエイリアン、僧まがいの隠者の生活を送る主人公、再び宇宙での
冒険と、まとまりがありませんが、ユニークな作品です。
『シヴァ神降臨[上][下]』Shiva Descending(1980) with William
Rotsler 山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
ウィリアム・ロッツラーと組んだ、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」的映画の小説。ただし、TV伝道の世代で新興宗教が拘わってきたり、宇宙
飛行士にも名誉欲の高い人がいてと、ベンフォードの特徴も出てきています。しかし、それでもパターンだなあ。
『タイムスケープ[上][下]』Timescape(1980)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
ベンフォードの最高作。現在と未来が交互に描かれる。現在は、大学の物理助教授の研究に。未来は破滅しかかった文明を担い、過去への通信=タキオン通信
による危機回避のプロジェクトが進む。従来のSFと違うのは、科学者とて人間である、肉欲もあれば名誉欲もある、姑息に権威に取り縋ると、当然たることを
描いていく(逆に言うと、超人的な科学者が出てくるSFなど現実的でないってことだ)。さて、因果律はどうなるのか? 鮮やかに見せる最後の一章が実に印
象的である。
『アレフの彼方』Against Infinity(1983)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
時代的には『木星プロジェクト』の後のガニメデ開拓の時代になる。ところが、ガニメデには異星文明が残した機械とも生物とも分かちがたい物体が障害とな
る。それがアレフ(無限)と呼ばれる存在である。メルヴィルの『白鯨』のような存在です。それに対するマニエル親子。例によって親子の葛藤があるわけで
す。
イーグルだったっけ、人の自尊心を失わなかったサイボーグなんかいいですね。
『時の迷宮[上][下]』Artifact(1985)山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
原題の意味は「出土品」で、タイムトラベルは関係ないし、
ミノタウルスは出てくるが、迷宮自体はでてこない。冒険SFという触れ込みであったが、実はハードSF、現代物理学を相手としてのサイエンス・フィクショ
ンである。古代ギリシャ神話の怪物を、素粒子論などの科学的視点から再構成している。相変わらずの癖のある人間たち、余情溢れる描写。こういったものがベ
ンフォードの特徴ですが、上巻はまるでエーゲ海を舞台にしたエスピオナージもので、SFぽさはまるでない。ところが下巻になると怪物が分かる。こいつはそ
ういう類の化け物だったのだなと分かる。ちゃんと上巻と整合つけて、それでも冒険ものにしているのは立派である。
『彗星の核へ[上][下]』Heart of the Comet(1986) with David Brin
山高昭訳(ハヤカワ文庫SF)
この作品はハレー彗星がやってきた年の作品で、もろに次のハレー彗星の回帰の時期と場所を選んでいます。ハレー彗星に渡った科学者たち。そこには内在す
る幾つもの葛藤があり、またハレー彗星が持っていた病原物質が覚醒してクルーを困難に落しめる。疲れた、只々疲れた。ブリンとベンフォードの共通点は『厚
い』です。しかし、よく見ると二人の個性がまじりあっているんですね。
『時空と大河のほとり』In Alien Flesh(1986)山高昭・他訳(ハヤカワ文庫SF)
短編集。現代のSFですね、サイエンス・フィクションもあれば、スペキュレーティブ・フィクションもある。文学的な前衛小説もある。「時の破片」「ボット
泥棒」「ミー/デイズ」ってところが面白いと思う。
『悠久の銀河帝国』Beyond the Fall of Night(1990) with Arthur C.
Clarke 山高昭訳(早川書房)
クラークの『銀河帝国の崩壊』の続編をベンフォードが書いた作品。しかし、これは続編というよりも外伝と言った方が良い。大人になったアルヴィンとは言
え、殆ど活躍しない。ベンフォードのキャラクターのクレイとシーカーが出ずっぱりである。続編としてでなければ、単独で楽しめたと思う。
未訳短編集の話はこちらです。
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