入り口まで戻る
目次に戻る
テリー・ビッスン
テリー・ビッスン Terry Bisson(1942〜 )
遅れてきた、なんとも不思議な雰囲気のSF作家。『JM』『フィフス・エレメント』のノヴェライズもやっているが、そっちは読もうとは思っていない。
彼はホームページを持っています。ここ(リンクは張っていない)
http://www.terrybisson.com/
http://www.cybling.com/artists/terry.html
http://www.infinityplus.co.uk/misc/tb.htm
http://www.fantasticfiction.co.uk/authors/Terry_Bisson.htm
インタヴューサイト
http://www.scifi.com/sfw/issue36/interview.html
『世界の果てまで何マイル』Talking
Man (1986)中村融訳(ハヤカワ文庫SF)
SF1035とあるが、SFではない。なんでFTで出さなかったのかと疑いたくなるファンタジーである。しかも、コキ降ろしたくない良質のモノ
である。
どういう話かと言うと、表紙を見れば分かるように、若い男女が自動車を走らせる話である。ちなみに車種はクライスラーだそうだ。ああ、月の大きなこと。
解説にあるように、確かにレイフェル・アロイシャス・ラファティのホラ話的設定である。
トーキング・マンという夢を見て世界を作った男が、自分の作った女ジーンが「非在」を呼び込んだ為に、彼女から「非在」を取り去り、自分の夢の世界に逃げ
去る。そして、トーキングマンを追って、彼女がやってくる。逃げるトーキング・マン、追うジーン。そして、二人を追うトーキング・マンの娘クリスタルと巻
き込まれた青年(少年)のウィリアムズ。その若い二人が表紙のクライスラーに乗り、世界の果てまで行くというお話。
設定で気がついたのだが、文化人類学で聞いた話で、ある種の神話では創造神には副神のような者が付添い、手助けをするのだが、いつも悪いことばかりす
る、人間から見ると悪魔になる存在がある。ジーンというのはまさしくその存在ですね。
ともかく、世界を「非在」から救うために、世界のてっぺん=北極に向うことになる。これでは『果てしなき物語』(エンデ)であるが、主人公たちが乗るの
はドラゴンではなく、自動車である。車で追ううちに世界は入り乱れ、微妙に異なっていく、これは『ロードマークス』(ゼラズニイ・サンリオ文庫)ですね。
「見慣れたものを見慣れぬものに変え、見慣れぬものを見慣れたものに思わせる」とムアコックが言ったそうですが、確かにその通りです。残念ながら、私がそ
れに気づいたのはウジーが出てきたところです。それまでは、異国の話なので、どこがどう変化しているのか気がつかなかったし、何かが違っていると主人公た
ちが考えるのは、何のことなのだろうかと思ったものです。そう、現実に幻想が忍び込むというのはファンタジーの特質なのですが、実に旨い。
文章も素敵です。同じ風景を描写するのでも、多言を要さず、言わばオプティマイズ(最適化)した表現をしている。作者がコピーライターだと言うのが納得
できます。
そして、何よりも自動車の魅力ですね。広大無辺の平原に走るは一本の高速道、幾ら走っても、風景は全く変わりもしない。想像するだけで、走っていると何
時かは世界の果てに行き着くのではと錯覚してしまう。アメリカだから自動車がファンタジーに無理なく溶け込んでしまう。
しかし、そうやって排ガス巻き散らしているんだよなあと思うのは、やはり野暮だと思うが、それがファンタジーでなくて現実だから仕方がない。
『赤い惑星への航海』Voyage
to the Red Planet
(1990)中村融訳(ハヤカワ文庫SF)
ううう、良い話だ。と、のっけから書くのも何だが、事実そう思ったんだからしょうがない。どういう話かと言うと、ハリウッドの映画界が映画撮影
のロケ地
を選んだのだが、そこは火星であり、スタッフたちは人類初の火星旅行に旅立つのでありましたと始まるのが出だしである。その話のどこが良い話なの? と思
うのが普通でありますが、この火星の旅、ちょいとひねった所もありますが、すごくまっとう。
NASAやアメリカ海軍が大恐慌後に身売りされていて、金を出せるのは映画業界だけという未来。ソ連とアメリカが後は出発するだけと、秘密理に火星船や
着陸船を用意していたのですが、大恐慌でお流れになっていました。それを嗅ぎつけたプロデューサーが、火星映画を作るため、火星ロケを敢行する。なんかア
メリカ製コメディードラマを髣髴とさせます。必ず会話の端々にはウィットが現れ、まじめなのにちゃかしが入り、なにか間抜けなのに憎めない。そして最後に
はちょっとした哀愁があったり、楽しかったなあと余韻を感じさせる、そういったコメディードラマ。
こんな、従来に無い味を出せる作家はと言うと、『世界の果てまで何マイル』のテリー・ビッスン。おかしくて、やがて悲しきビッスンかなと、映画コピーを
借りるとこうなるのではないだろうか。話の珍妙さ(大体、映画撮影で火星に行こうってのもそうだが)、語り口の巧さ(くり返しの多用。例「ボーンズって呼
ぶな」 下らない言葉遊び。例「ET(外部タンク)分離」「ETフォン・ホーム」)、そして、話の中に潜むせつなさ(どこのことを言っているのかは読んで
のお楽しみ)。
文章の巧いビッスンですが、更に、火星について元NASA顧問のチャールズ・シェフィールドや、
火星三部作のキム・スタンリー・ロビンスンから力を借りて描いたと思える火星の着陸シーンや
火星風景は圧巻である。
こういった、様々な要素が詰まった『赤い惑星への航海』は、ハードSFファンもぶつくさ言いながら(野暮ったく、熊の冬眠うんぬんで議論するんだろう
な)読み、オールド・SFファンも(最初は話の設定に呆れ返っていたのだけど、途中でのめり込んで)読むんじゃないかなと、読み終えた私はにやにやしてい
る。
野暮ったく付け加えよう。「面白いよ、少なくとも私はそう思う」
『ふたりジャネット』The
Two Janets (2004) 中村融編訳(河出書房新社)
ようやく日本国内で短編集としてまとまったテリー・ビッスンの短編群である。最後の1作のみ初訳。さっさと内容紹介して、その後にゴタクを連ねることに
します。
「熊が火を発見する」Bears Discover Fire
文字通り、現代において熊が焚き火するようになった話。R・A・ラファティの法螺話「うちの町内」(ハヤカワ文庫SF『九百人のお祖母さん』収録)のよ
うな、とんでもない状況を平然と受容する登場人物たちや世間を描いている。これはビッスンの作品には多く、そういう状況を描いていても、人間のコミュニ
ケーションが主体であり、それこそが要である。そう、暖かいのである。
「アンを押してください」Press Ann
ATMで現金を引き出そうとしたら、ATMの選択肢に妙なものが…。
その表示文字と会話だけで話が進んでいく。草上仁の「こちらITT」(ハヤカワ文庫JA同題短編集収録)みたいな感じのショート・ショートである。サゲが
上手い。でも、この後も読んでみたいと思ってしまう。
「未来からきた二人組」Two Guys from the Future
タイムトラベル物もビッスンに掛かるとこの通り。ギャグというのは何度も聞かせダメ押しする必要がある。コメディ・ドラマの定石ですね。それにしてもボ
ロゴーヴが「ミムジーと呼んで」と繰り返すのに、こちらは秘孔を突かれまくり。SFモノだな、業が深いと思ってしまった。
「英国航行中」English Underway
ある日、ブリテン島が大西洋へと動き出した。ひょっこりひょうたん島である。時速2〜3ノット、4〜6km弱。そんなことにジョンブルは驚くことなく、
いや、ビッスンの世界では平然受け止め、毎日が進む。フォックス氏は自分と同じ名の犬アンソニーを連れ(脳裏ではテリアのイメージ)、海辺に出、夜には
バーに寄る(パブのイメージ)。人間の絡みが重要なのである。(脳裏で少女が言った「使えないおやじ」)
ビッスン最高!(脳裏で少女が言った「だせえおやじ」)
「ふたりジャネット」The Two Janets
公衆電話が鳴る。主人公はそれを取って「お母さん?」電話は言う「ジャネット? あなたなの?」
出だしから、非常識且つ日常的な会話が始まる。ヒロインの母の電話は有名な小説家が、ヒロインの出自である場末に引っ越してきたと云うものだった。題名
は主人公の友達もジャネットであるので、そういうこと。ヒロインの出自の田舎にどんどん有名な小説家がやってくる。それを平然と受容れるヒロインたち。
ちなみに本書のカバーもふたりのジャネット。河出のこのカバーの趣味はすごく良い。『20世紀SF』に比べると、同じ出版社とは思えない。
「冥界飛行士」Necronauts
臨死体験を描いたSF。主人公は盲目の画家で、盲目にも拘わらず、絵が画けると云うので、臨死体験試験に連れ込まれるが、もう一つの理由があった。盲目
なら同伴者の姿が見えないのである。その画家の驚異に満ちた物語。ビッスンにしてはダークな作品。
「穴のなかの穴」The Hole in the Hole
「宇宙のはずれ」The Edge of the Universe
「時間どおりに協会へ」Get Me to the Church on Time
《万能中国人ウィルスン・ウー》の三作。三番目が本邦初訳。このシリーズでは、ビッスンの法螺、ユーモア、ギャグ感覚が炸裂する。地球のどこかで月面に通
じる穴があったり、ビッグクランチによる反エントロピー場の局部発生があったり、無駄な時間が集められていたり、台風制御の為に蝶でなく蛾を放っていたり
する法螺。風刺には至らないが些細なことに拘泥する人間のおかしみをくすぐるユーモア。ウーの謎の数式に代表されるこれでもかこれでもかと繰り返すギャグ
(繰り返しはギャグの基本です)。
一応、アーヴィンとキャンディが落ちつくとこ落ちついたので、続きが読みたかった私にはオッケーでした。
とまあ、R・A・ラファティの法螺を垢抜けさせた、そう「うちの町内」のような洒落た感覚の法螺話がテリー・ビッスンの作品(例外はあるけど)。
カート・ヴォネガットに比する向きもあるけれど、ヴォネガットにある現状を受容する諦観(=そういうものだ)はビッスンにはない。起ったこと例えば超常現
象に対して、日常の如く感情抜きで受容れる。
転送されてきた!…スタートレックはご存知ですよね?
寧ろ、コメディ・ドラマの日常である。とんでもない出来事が次々に起るが、ドラマの中ではそれが日常の一コマとして進んでいく。レギュラーにとっ
ては、お馴染みである感覚みたいな。だから読者としては定刻通りに始まるTV番組のように、あまり気を張らずにやにやと読んで行くのが良いのかも。ドラマ
の中のとんでもない出来事はコメディの笑いの種、突っ込むような野暮はせず、素直にケタケタ笑いましょう。
(2004/2/14 追記)
入り口まで戻る
目次に戻る