入り口まで戻る
目次に戻る
サミュエル・R・ディレイニー
サミュエル・R・ディレイニー Samuel Ray
Delany, Jr. (1942〜 )
生まれはニュー・ヨークはハーレムのアメリカの黒人作家、ゲイである。マイノリティ(少数派)であることが、彼の立場と作風に影響を与えていることは確
かである。しかし、卓越した言語力は、生来の失読症的側面と結びつき、翻訳者泣かせな煌びやかな作品を生み出す。読みはディレーニ(サンリオSF文庫)と
いうのもある。ここではハヤカワ文庫SF表記に倣うことにする。もっとも昔の早川表記ではディレーニイであるが。
関連サイトはここ。
http://www.pcc.com/~jay/delany/
http://www.booksnbytes.com/authors/delany_samuelr.html
http://hubcap.clemson.edu/~sparks/sff/delany.html
『アプターの宝石』The
Jewels of Aptor (1962) 下浦康邦訳(サンリオSF文庫)
毎夜悪夢に苛まれたディレイニーは、その話を説明するために物語を描く。妻(その当時)マリリンは、それを編集に拘っていた出版社に紛れ込ませ
る。そし
て世に出た本が『アプターの宝石』である。書いた時、ディレイニー19才、伝説の始まりである。
ディレイニーと言えば、マルチプレックスという言葉が付きものであるが、『アプターの宝石』自体にもそれが見受けられる。物事には一面的のみの真実など
なく、見地を変えれば別の真実が現れる。だから、物語が進むにつれて、今まであった既成概念が覆される。私個人の感想では、まるで芥川龍之介の「三つの
宝」の警告を知って、真摯に受け止めて描いたかのような物語だという気がする。
その分、ワンパターンな亜流ハイファンタジーあるいはサイエンス・ファンタジーみたいな月並みな陳腐な読み物からすれば、起伏に富んで読み応えはある
(だからマリリンが編集部に紛れ込ませるわけだ)。だが、作中人物が読者に説明多用していて、ぎくしゃくした生硬な面もある。
さて、ディレイニーらしさを私なりに解析してみよう。題名の中の名詞"Aptor"についてである。レプターとアプターが敵対しているということだが、
AcceptorとReceptorからcce、ceが抜けたものではないかと思う。そうするとAcceptorとReceptorには共に、受け入れる
物=受容体という共通の意味が浮かび上がってくる。そして、The Jewels of
Acceptorとなれば、「特定周波受信回路の宝石」という意味も持ってくる。これは宝石の機能を表している。またJewelには少年という意味もある
ので「特定周波受信回路の少年」にもなる。主人公である詩人ジオは、四本腕の少年スネークから、中継された思念を受け取っているのだから、まさにそういう
状態にある。だが、「特定周波受信回路の少年」なら、毎夜悪夢にうなされていたディレイニー本人であるかもしれない。そして、私小説的なものは『アイン
シュタイン交点』へと繋がっていく。
つい、こういった深読みをしてしまうのが、ディレイニーの描く作品である。
『エンパイア・スター』Empire
Star (1966) 米村秀雄訳(サンリオSF文庫)
エースダブルという形式で、二話一冊で読める売りをしていたのが出版社エース・ブックスであるが、その形式ゆえ『バベル-17』と組になるように、ディ
レイニーによって書かれたのが『エンパイア・スター』である。つまり、厚みの決まった本で『バベル-17』と別の作品が一緒になると、作品のページ数が短
くなってしまうので、その回避のため、短めの長編が必要になり、『エンパイア・スター』が書かれたわけである。
だからといって、手抜きの作品ではない。寧ろ、ディレイニーの作風マルチプレックスを端的に示すために、極めて明晰に書かれているのである。
時間と空間が幾重にも絡まり、多重に読まれることを期待される作品は、実際何度読んでも飽きないのです。
『バベル−17』Babel-17
(1966) 岡部宏之訳(ハヤカワ文庫SF)
ディレイニーの一番知られた作品が、この『バベル-17』である。ハヤカワSFシリーズから出ていたことからも分かるように、古くから出ていたからであ
る。ニュー・スペース・オペラと称される様に、スペース・オペラの形式の中にふんだんのアイデア(SFにおけるガジェット及び文学的な実験的手法)と、煌
びやかさの中にキリッっと引き締まったストーリーで読ませる。その内容で、一押しなのはバベル-17の秘密ですね。当初、暗号だと思われていて、言語学に
強い女流詩人リドラ・ウォンが軍に召喚されるが、彼女はバベル-17が言語であることを発見する。そして、そのバベル-17の謎を追うのですが、妨害工作
に襲われる。身内にスパイがいるらしい。
当然、ディレイニーだから話の中には一面的な価値で終らず、幾つかの意味が含まれている。時として、話の価値観が180度変わってしまうことさえありう
るのだ。
出てくるキャラクターも、作者ディレイニーの周辺の人物の仮託されたものでしょう。女主人公の詩人リドラ・ウォンは妻(当時)のマリリン・ハッカーや作
者が入り混じったものであるのは当然として、ブッチャーやブラスにもおそらく、モデルがいるのでしょう。ですからキャラクターにメリハリあるのは当然なん
です。その一例を示しましょう。
P136
「もう一人は、ミュールズ・アランロイドで−」
「エンパイア・スター号だ!」ロンは目を丸くして叫んだ。「それに、あの<コメット・ジョー>の連
作! あんたミュールズ・アランロイドと組んでいたのか?」
リドラはうなづいた。「あの本とっても面白かったでしょう?」
この背景には、三人で暮らしていたという、ディレイニーの私生活があるのです。だから、ディレイニーの話
には三とか三組とかが出てくるのです(『アプターの宝石』でも三という数字が出てきました)。そして、上記P136の続きと『エンパイア・スター』を読め
ば、その三人が結びつく。まあ、読者にはとりわけ作者の私生活は関係ないことかも知れません。しかし、その背景が物語りに現実性を持たせているのです。
『アインシュタイン交点』The
Einstein Intersection (1967)
伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫SF)
今は昔、未訳作品で『アインシュタイン・インターセクション』という作品があり、これが凄いらしいぞという話が伝わっていました。しかし、訳が出ない。
私は、もう翻訳はでないだろうと、原書で買い置きしていました。ところが翻訳が出たんですねえ。もっとも賛否両論。訳されなかった理由、賛否両論の理由は
原書で読めばわかるのだけれど、表面の物語と裏の物語があるんです。翻訳だけではそれはわからない。だから、この作品で評論家のレベルが判って、以後『ア
インシュタイン交点』のコメントで、私は評論家・研究家の信用できるかどうかの基準にしています。
それじゃあ、私について「君はどれだけわかっているのか」とお思いの方は、裏読み『アインシュタ
イン交
点』をクリックしてください。ネタバレなので読んでいない人はクリックしないこと。
表面上は無限の未来の種族の冒険談で、その裏に別の物語が埋もれている。こういう構成は、文芸的な遊びとして面白いだろうし、私小説としてもかなり際ど
いが、SFとしてこれを読む場合は、間違いなく読み手の期待を裏切っているのです。
『ノヴァ』Nova (1968)
伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫SF)
聖杯探求は、アーサー王物語で出てくるが、失われた隆盛を取り戻すためのもの。レイ・ブラッドベリで言えば『太陽の黄金の林檎』がまさにそうである。
それをスペース・オペラの形式で行ったのが、この『ノヴァ』である。ローク・フォン・レイとその仇敵プリンス・レッドを軸に、マウスやカティンらの癖の
ある登場人物がロークの下に集い、冒険の旅に出る。と、同時に登場人物のそれぞれが、それぞれの”聖杯”を求める話でもある。例えば、カティンにとって
は、それは小説の主題である。マウスにとっては、何だったのだろうか? そういう多面性はディレイニーならでは。もっとも、当の作者ディレイニーにとって
は、聖杯は通常の隠喩である女性性器を意味しない。むしろ、ちりばめられた世界はゲイの世界なのらしいのだが、個人的にそれを読もうとは思わない。
本は作者と読者で作るものですから、読者としては、受け取ったものを単純に冒険SFとして読めばそれで済むことであり、絢爛たる聖杯=イリュリオンを得
るスペクタクルに物語が収束するのを楽しめればそれで良いと思います。表の物語だけで十二分に起伏に富み、その謎めかした筋を追うだけで、時を忘れる。そ
ういうお話です。
『時は準宝石の螺旋のように』Driftglass
(1971)
伊藤典夫・浅倉久志他訳(サンリオ文庫SF)
私が、ディレイニーの作品で惹かれるのは、その短編群。隠喩を多用し、かつ実経験から生まれたと思える、魂の声が聞こえてくる話。単に技巧作家でないか
ら、何時までも記憶に残るのでしょう、その結果、惹かれてしまう。
「スター・ピット」 The Star Pit 浅倉久志訳
他に大谷圭二名義の訳がありますが、中身はほぼ同等。
宇宙空間を超光速で行き来できるのは、ゴールデンと呼ばれる、多少イカレタ連中ばかりで、通常人は星から星への中継ポイント”スター・ピット”に押し込
められていた。このピット=穴と主人公の経験が、エコロガリウム=生態観察箱の隠喩(メタファー)を通して描かれる。エコロガリウムの中で奔放に生きる生
命も、外へ出ればたちまち死んでしまう。それと同じ状況が主人公の環境なのだ。
「漁師の網にかかった犬」 Dog in a Fisherman's Net 山田和子訳
普通小説
「コロナ」 Corona 山田和子訳
淡い愛、ある能力あるゆえ見れる世界、それは同時に喪失を意味している。
「然り、そしてゴモラ」 Aye, and Gomorrah... 山野浩一訳
ゴモラというのは「ソドムとゴモラ」の悪徳の町である。Ayeは「そう、然り」の意味もあるが「永遠に」という意味も有る。性的不能者が、空から降りて
は昇り、永遠の不毛なピストン運動を繰返す。そして、それに焦がれる地球上の健常者たち。性的異常性を描いたものだが、この作品がホラーなのは、それが永
遠に続くからである。
「流れガラス」 Driftglass 山田和子訳
他に「ドリフトグラス」として岡部宏之訳も存在する。
水棲活動できる男が、廃人として現れる。彼を象徴するのは、”流れガラス”、海岸に漂着したガラスのかけらである。かってはコーラやジュースの瓶だった
筈だが、それが壊れ、砂や岩に削られ、角がとれてやがて浜に辿り着く。かって男はある社会あるいは組織の一部だった、そしてそれが失敗に終り、彼は傷めつ
けられて廃人と化したのである。
そんな彼に、アドバイスを貰いにくる水棲人たち。新たなプランが立てられたのである。
私が短編SFが良いなあと思うのは、こういった、何もかもをひっくるめてまとめ上げた作品があるからだ。
「ただ暗黒」 We, in Some Strange Power's Employ, Move on a Rigorous
Line(Lines of Power) 深町眞理子訳
他に「われら異形の軍団は、地を這う線にまたがって進む」の訳題でも訳されている。
題名は、別の読み方ができる。「われら、よそからの電力の雇われ人、厳格な方針を押し進めん」。これは英語におけるダブルミーニングのせいです。
Strangeというのは不思議とか妙と言うほかにも、I'm a stranger around
here.(私、ここは不案内=よそ者です)というように、よそ者であるという意味も持ちます。Powerというのは権力や電力あるいはもっと単純に力で
あります。Employは名詞としては雇用者であり、目的という意味を持ちます。lineは電線であり、方針や主義です。Rigorousにしても厳格で
あると厳密であるの意味を持ちます。
何が言いたいかと言いますと、それらの意味を全部入れ替えても、「ただ暗黒」のストーリーを説明しているのです。電力を送る為の事業を行っており、それ
は同時に権力による教化でもある。話はゼラズニイ風に描かれるが、こういう構成の複雑さはディレイニーならではである。
「真鍮の檻」 Cage of Brass 伊藤典夫訳
凡作
「ホログラム」 High Weir 浅倉久志訳
意識がホログラムだとしたらどうなるか? 発見されたものは、そういった人間の意識構造に影響を与えるものだった。アイデアSFです。
「時は準宝石の螺旋のように」 Time Considered as a Helix of Semi-Precious Stones 伊藤典夫訳
他に「時は準宝石の輪廻のように」として小野耕世訳も存在する。
ピカレスク・ロマン=つまり悪党小説の魅力は、なんなのだろうか? そこに存在する美学のためだろう。もちろん「時は準宝石の螺旋のように」もその系譜
である。だが、やはり、時間に縛られてしまっている。それが、準宝石という暗喩でまとめられている。
けばいと同時に、絢爛。危険と同時に、引きこむ魅力があり、その危うさの中の美が、この作品の魅力であろう。
「夜とジョー・デイコスタンツオの愛」 Night and the Loves of Joe Dicostanzo 山野浩一訳
ニュー・ウェーヴらしい作品ですね。私にとって、ニュー・ウェーヴのイメージは、この作品みたいなものです。
他に『プリズマティカ』 Distant Stars
(1981)として海外SFノヴェルズが出ている。
これは短編集の『時は準宝石の螺旋のように』と『エンパイア・スター』を持っている私は「プリズマティカ」自体SFMで読んだので、食指が動かず入手せじ
まいで、「まえがき:疑いと夢について」「オメガヘルム」「廃墟」が未読である。は図書館で読んだ。
「まえがき:疑いと夢について」は創作手法についてで、スタージョンやディッシュの手法と自分自身の手法の3通りしか知らないと書いてある。
「プリズマティカ」光りさんざめく世界での、御伽噺。
「オメガヘルム」結局話は7分間の生涯しか与えられなかった少女の話ということになる。
「廃墟」神話や寓意の種、類型が見られる話である。
(2004年1月18日追記)
入り口まで戻る
目次に戻る