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スティーヴン・ミルハウザー


スティーヴン・ミルハウザー Steven Millhauser (1943〜 )
 これでもか、これでもかという執拗な書き込みの作家、ある程度を越えるとその想像力/創造力の勢いが眩暈となる。また子供騙しな世界に拘りを持った作 家。
関連サイトはこちら。
http://www.albany.edu/writers-inst/millhsr.html
http://www.randomhouse.com/boldtype/1199/millhauser/
http://www.fantasticfiction.co.uk/authors/Steven_Millhauser.htm
http://greatsfandf.com/AUTHORS/StevenMillhauser.shtml
http://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Millhauser

『エドウィン・マルハウス』Edwin Mullhouse(1972)岸本佐知子訳(福武書店)

 題名は略したもので、正式には『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死(1943-1954)ジェフリー・カートライト著』Edwin Mullhous: The Life and Death of an American Writer 1943-1954 by Jeffrey Cartwright である。訳者あとがきで、作者のミルハウザーは、最初25歳くらいの作家の伝記にしようと思ったそうである。1943年生まれで25歳なら1968年のこ とになる。この本が出たのは1972年であるから、構想を練っていたのはまさしく1968年あたりからで、伝記される作家はスティーヴン・ミルハウザー本 人だ、と考えると様々なことで符丁が合う。名前からしてそうだ。しかし苦労したようで、本として成立した時は、11歳で夭逝することになった作家の伝記と してであった。
 この本は多重構造になっている。傑作長編の「マンガ」一本で、11歳で亡くなったエドウィン・マルハウスという作家がいる。その伝記を書いたのはエド ウィンの幼馴染で同級生であるジェフリー・カートライトである。更に、その伝記に魅せられて復刻された本というのが、読者の前にある代物と言う構成であ る。
 ここで描かれるのは、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』的子供たちの世界である。処女長編なのだが、ミルハウザーの特徴である執拗な描写 (細かな物事や物質の丹念な説明、原色による色彩の炸裂)があり、毎日が世界に埋もれてしまうような中で、生き生きと、生の充足にある少年少女たちを描い ている。少年少女たち、そうエドウィンが中心に描かれるが、彼だけではない。それに主人公はエドウィン・マルハウスではなく、彼の伝記を書くために詳細に 彼を見つめるジェフリー・カートライトである。彼の目を通して、エドウィンと拘わっていく、幾人かの少年少女たちが浮き上がる仕掛けである。まさにマンガ から生まれてきたとしか言えない少年、魔女のような非道な少女、暴力でしか解決を見出せない少年と、カリカチュア化されてはいるかもしれないが、少年の日 々にあっただろうキャラクターたちである。日本で言えば宮沢賢治の『風の又三郎』のような感じである。しかし、ミルハウザーが描く少年少女たちには、その カリカチュア化が見えず、そのまま現実にいる存在というのが大きな違いだ。
 ミルハウザーの飽くなき子供趣味が楽しめる、または、容赦のない過剰描写に耽溺してしまった人は堪らない、「処女作には作者の全てが詰まっている」とい うわけでミルハウザーの全てが詰まった一冊である。
 これ絶版なんだよねえ。実に惜しい話である。(2002年6月2日 追記)
 白水社から8月、ハードカヴァーで復活しました。(2003年9月10日 追記)

『イン・ザ・ペニー・アーケード』In The Penny Arcade(1986)柴田元幸訳(白水uブックス)

 第一部
 「アウグスト・エッセンブルグ」
 からくり人形に取りつかれた男の物語。ミルハウザーの考え方はこの主人公に近いと思う。それが芸術性と呼ばれようが、そうでなかろうが、時代に先んじて いようが、時代に取り残されていようが、そんなことは関係がない。それが好きだから、そういう物を作りたいから創るという、主人公の(口にこそ出さない) 態度は、他のミルハウザーの作品とも整合する。
 第二部
 「太陽に抗議する」
 普通小説ですね。ただし、抗議者が世界の見方を変えてしまうシーンが奇妙で良い。
 「橇滑りパーティー」
 これは本当に普通小説。告白に戸惑う女の子の話。
 「湖畔の一日」
 見方を変えれば、幻想的にも、感傷的にも、心理的にも捉えることの出来る作品。
 第三部
 「雪人間」
 素直に雪だるまを訳題としなかったのは、達磨のような球を二つ付けた姿を連想させるからか? 当初、普通小説と見えていたのが、徐々にその趣向が高じて 最後には幻想的な世界となる。
 「イン・ザ・ペニー・アーケード」
 ミルハウザーの趣味や見地(もののとらえかた)が遺憾無く発揮された作品。自分の好ましいものには全力で肯定し、それから外れたものには、これではない んだと、真に求める物を探す話。そして、それが見えてくるのが、この世界。題名は、日本風に言えば「10円ゲームコーナーで」というところか。私は、昔の デパートの屋上を思い出しましたね。
 「東方の国」
 ありえざる幻想的国をエキゾチックに描いた作品。常に現われるのは価値観という問題。カルビーノの『見えざる都市』と言ってしまえば、そのものと言え る。想像力を駆使するミルハウザーならではの力量が生かされている作品。

『バーナム博物館』The Barnum Museum(1990)柴田元幸訳(福武文庫)・(白水uブックス)

 「シンバッド第八の航海」
 なぜ、SF読みがミルハウザーに注目するかというと、メタ・フィクションの見地なんかに拘わってしまっているから。簡単なのは『「小説の中の人物が、小 説を飛び出してしまった」小説』と言えば分かりやすいかも。ただし、そういった構造を多重の入れ子にしてしまえば、単純な小説(フィクション)でなくな る、そこで便宜的にメタ・フィクション(超・小説)という言葉で扱うわけだ。「シンバッド第八の航海」を例に取れば、誰が誰に向って語っているのか? と いうことから複雑な話にしている。船乗りのシンバッドが荷担ぎ人足シンバッドに語る話だが、これはシェヘラザートが、サルタンの夜伽で語る話で、作者ミル ハウザーが更に読者に語り掛ける話である。そしてミルハウザーは問い掛ける、「誰が誰に語っているのか?」と。
 過剰な程の状況描写が、更に読者に追い討ちを掛ける。
 「ロバート・ヘレンディーンの発明」
 この作品なぞは、メタ・フィクションの意味が良く分かる作品であり、この作品は果して、何に分類すれば良いのだろうかと戸惑う筈である。ファンタジー・ 幻想文学と分類する手もあるが、そうではないと言う人がいておかしくない。サミュエル・R・ディレイニーなら書きそうな話である。昔ならスペキュラティ ヴ・フィクションだ、って言い逃れることも出来た。しかし境界的な作品であり、今なら「スリップ・ストリーム」と言えば座りが良いと思う。
 「アリスは、落ちながら」
 このアリスは言うまでもなく『不思議の国のアリス』のアリスである。ミルハウザーは例によって、入れ子構造を多用する。これは夢? 夢なら誰が見てい る? と、小説の枠組みを越え、『不思議の国のアリス』は誰が誰に語った話かと、階層構造による遠近感を生じさせる。しかもこの階層構造は不明瞭である。 したり顔のプログラマーなら、スタックをきっちりさせていないから、「落ちる」という無限ループに嵌まるんだよ:-)とか言うかもしれない(そうじゃなく て、もっと専門的には・・・とかいうのは、なしね)。そうなるのはたまたまの偶然ではあるが、面白いレトリックではある。
 「青いカーテンの向こうで」
 単純に児童ファンタジーにしようと思えば出来た話であるが、ミルハウザーはそうはしなかった。つまり、少年が映画の銀幕の裏側から銀幕の世界に入り込ん でしまって、見聞すると構成で止めてしまおうと思えば出来たが、そうしなかった。なぜなら、銀幕の向こうには大人の世界も広がっているからだ。これを性的 象徴に捉える事もできるが、例によって過剰な描写が全てを覆い尽くし、異世界を感じさせる。
 「探偵ゲーム」
 この「Clue」ってゲームをやったことがあります。RPG的味付けが出来るので、犯人は誰と宣告する際に、その人物になりきって、動機まで言うと か・・・できるのです。そうすると、その犯人のコマの人が、古典的に俺/私じゃない〜とか、なりきれる。つまり、「Clue」自体に世界が作れるわけで す。そこで、このゲームの映画があったりする。「殺人ゲームへの招待」って題だったと思う。素晴らしいのは、この映画、犯人が一定でないこのゲームにな らって、結末も1つでない。つまり3つほど結末が、出てくるのだ(脳裏には、「手札を混ぜよう」という歌のエンディングが浮び上がる)。そういうことで、 ミルハウザーが小説にすると、ボードが立体化し、コマが人間化し、現実とゲームが行き来する。
 「セピア色の絵葉書」
 私が一番気に入ったのは、皮肉なことに、もっとも純文学的なこの作品。主人公が入った本屋は骨董店でもあるが、主人公が見渡すことで、「魔法のお店」と 化してしまう。言わば幻視力。主人公自体は気づかない、この浮いた感じが良い。やはり過剰な描写力・・・想像力でもあるのだろうが、紡ぎ出す世界。ポウの 風景描写のようなビビッドさが美しく残酷だ。
 「バーナム博物館」
 読み終えた後、とんでもない思いつきをしてしまった。この短編に出てくる、「バーナム博物館」「博物館」という単語を「SF」と置き換えるのである。す ると、この小説の言いたい事が分かってしまったのである。スティーヴン・ミルハウザーは、幻想でありつつ胡散臭い「博物館」を、それ故好きであり、離れる 事が出来ない。理由は好きだから、ただそれだけ。それが小説を通して理解できる。ま、私がSFが好きなのも、好きだからそれだけなのであるが、それだけに 理解できてしまったのである。普通はこんな読み方はしないが、視点を変えれば違うものが見え、それが筋が通って見えることもあるのだ。
 「クラシック・コミックス #1」
 ニュー・ウェーブの華やかな頃の、SFと言っても通じてしまうだろう。しかし、T・S・エリオットの詩からだとは・・・訳者ノート見ないと分からない な。なんか懐かしい気がする。「ナンセンスに意味はない」(当たり前だ)っていうけど、隠喩やレトリックの中に異世界が見え隠れするのを見るのは、面白 い。何という事はないのだけど、筋道をつけようと頭が様々な解釈をするため、別の世界が見えるのだ。
 「雨」
 これも、ニュー・ウェーブの華やかな頃の、SFと言っても通じてしまうだろう。マジック・リアリズムのようなジャンル境界作の面白さは、それが現実的な 的確な描写で、非現実的な世界を描いていること。もっともその非現実的な内容の為、主流文学以外のレッテルを貼られてしまうが、いつのまにか、その非現実 な世界が文学の世界に根づいてしまっている。ミルハウザーの現物羅列の終りの無い文章は、この「雨」のような作品において、実に効果的に機能している。
 「幻影師、アイゼンハイム」
 素直に、幻想文学として扱っていいでしょう。しかし、ここまで幾つもミルハウザーの作品を見た者には、単純な幻想文学で終れない。そこに、入れ子構造が 見えたり、メタ・フィクションの吐息を感じてしまう。しかし、単純に楽しんでしまおう。過剰な描写をイリュージョンの様に、ミラージュの様に、なぜなら、 この作品は手品師の話であるから。観客の度胆抜く演出は当たり前だから。

『三つの小さな王国』Little Kingdoms(1993)柴田元幸訳(白水社)・(白水uブックス)

 ミルハウザーは取り分け実験小説を書くのかなと思ったのだが、多分普通の書き方が本領だろう。そう思ったのは「J・フランクリン・ペインの小さな王国」 を読むと、これが安定して書かれているからだ。アニメの絵を一枚一枚書くように、安定している。その方が読んでいて力まなくて済む。
「J・フランクリン・ペインの小さな王国」
 解説に言及されている「リトル・ニモ」の絵はSFマガジンで紹介されているのを見たことがある。小野耕世が紹介者であっただろうか。私もアニメが出来た とか言うのを聞いて見たいなあと思ったことがある。話によると惨澹たるものであったようである。原画が良ければ良いほど、セルアニメにした時は失望が生じ るようである。ペインもそれを分かっていたのであろうか? 私には、理論的な解析から、揺れに対するペインのこだわりが分かる。大学の教授だった人の研究 で、自然界には1/fノイズというのがあり、人間はそのノイズを好む性向があることが分かったのである。例えば、音楽で周波数分析をすると、心地良い音楽 には、周波数の低くなる方で強度が強い傾向があり、逆にそういう状態になるようにプログラムで作曲(ないし編曲)したら、やはり気持ちの良い曲になったそ うである。また松下から1/fの揺らぎを持った扇風機というのも売られていました。アニメーションで言えば、大きく揺れる動きはゆっくりじわじわと、小さ く揺れる動きはせわしなくすることになる。少なくとも、これからペインのアニメーション製作の趣味というのは、生身の人間ミルハウザー自身の感性だと読み 取れると思う。
 だから、ぶこつとも愚直とも言えるペインを描く様は暖かい。小説の方も緩やかな流れの中で、様々な小事件が起こるが、ペインの王国という大きなうねりの 中で見えなくなっていて、味わい深い。
「王妃、小人、土牢」
 プリンセス、ドワーフ、ダンジョンでは、何か別のものになってしまう。訳題は全て漢字にして正解だったと思う。これはメタ小説である。王妃の物語はあっ たのか? なかったのか? 噂話か? それとも? という構成は実験的である。但し、実験的であるために、最後をまとめさえすれば、多重的な見方ができて 面白い。人間の真理の綾が生む悲劇を読者に納得させ、うまく捌いている。
「展覧会のカタログ」
 これも人間の真理の綾が生む悲劇を扱った作品である。しかし、「王妃、小人、土牢」とはまた違った実験である。作者ミルハウザーの頭にある芸術性の観念 を元に、物語とその物的証拠である抽象的な絵を混ぜて作り上げたものである。けれど最後の2ページほどは、これしか解がなかったのだろうか? と個人的に は思う。ディレーニー風に結末は曖昧な方が良いとした方が良かったのではなかろうか。

『マーティン・ドレスラーの夢』Martin Dressler The Tale of an American Dreamer(1996)柴田元幸訳(白水社)

 序盤は立志伝中の人物を描くかのように進む。小さな煙草屋の倅が、もって生まれた人柄の良さと誠実さで周囲から見とめられ、ホテルのベルボーイになり、 フロント係になり、商才に長けて、ホテルのロビーに煙草屋を作り、副支配人や支配人に目をかけられるようになる。1890年代のニューヨーク版「どてらい 男」という感じである。アメリカ独立が1776年なので、この頃のニューヨークは街中を出ると空き地ばかりで、建築ラッシュを待っている状態。動力は蒸気 で、エジソンの電球が1879年ですので、辛うじて電力というものが認識されるようにはなったが、自動車の大量生産は1908年のT型フォード以降ですか ら、交通の主体はまだ馬車である頃です。ある意味、右肩上がりの経済の中、この主人公マーティン・ドレスラーもこの流れに乗って行く。しかし、ピューリッ ツァ賞を取ったとは言え、この話はノンフィクションではない。彼は、いつものミルハウザーの登場人物の特徴である何かに熱中する、或いは憑依されような状 態になる。けれど、いつもと違うのはそれが何か分からないことである。そんな中で、ホテルの仕事仲間とカフェレストランを開き、それが当たる。暗中模索だ が、彼は自分のやりたいことを探しているのだ。
 表向きは、このような滑り出しだが、丹念なそして夢幻的な細かい描写が続く。訳者の才というのか、つっかかりが無くて読みやすく、読者は徐々にマーティ ン・ドレスラーの夢に誘われて行く。
 更に主人公は三人(四人かも)の運命の女神と出会う。寧ろ時の女神ノルンかなあと思ってしまった。ここらから、ドレスラーの夢は現実に啓き、壮大な大伽 藍的世界へ、ミルハウザーお得意の緻密な幻影、或いは子供騙し的、美術芸術の世界へと入っていくのだが、既に読者にはそれを見破る術は無い、それまでに用 意された堅牢な現実的世界のために埋められてしまったのだ。図られたと思った時にはもう遅い。人によっては、ミルハウザーの虜となっている自分に気づくだ ろう。そして読み終えたとき、ふと現実でなかったことをしみじみ思う、本当の事だったらどんなに面白かろうと。
 壮大な時の中にあったかも知れない大伽藍、蜃気楼、それがマーティン・ドレスラーの夢。こういう作品を書けるのはミルハウザーならではだなあと、また新 たな彼の本を待ち望むのである。
(2002年11月26日 追記)
『ナイフ投げ師』The Knife Thrower and Other Stories by Steven Millhauser (1998) 柴田元幸訳(白水社)

 ミルハウザーの書きたがるモノというのは見えている。「アウグスト・エッセンブルグ」、「イン・ザ・ペニー・アーケード」、「バーナム博物 館」、 「王妃、小人、土牢」、そういうモノに興味があるというのが分かる。偉いのはそういうモノに読者の興味を引いて読ませてしまう才能があることだ。小説は Fiction、架空という意味を持つ。在りそうなことを在りそうに描くことも出来るし、無い事をさも在るかのごとく描くことも出来る。ミルハウザーは常 識的に「無い」ことを「在る」ように描くことが多い。手法としては、脇をリアリティで固めること。テーマは自分の興味の湧くモノで、それをじっくり執拗に 描くことで、在り得「無い」モノが読者の前に結実し、時に呆然とさせられる。本は作者と読者で作られると言うが、まさにミルハウザーの作品は読者に再創造 されることによって存在するのかも知れない。

「ナイフ投げ師」
 サーカスのナイフ投げは高度な業で、人を傷つけずにその周辺の的を当てる。しかし、それを一歩進めれば、ほんの僅かな傷を付ける事が更なる高みとなる。 更に衆人が心に望む暗い部分を見せるとすればお客は付いてくる。しかしミルハウザーは周到にはぐらかす。果たしてそれは本当のこと、それともサクラを使っ た演技か。少なくとも、読者は当惑させられる。
「ある訪問」
 蛙妻という題名にしても良かったのに。しかし、それじゃあ、身も蓋も無いか。カフカ的お話。
「夜の姉妹団」
 ミルハウザーという作家の特質が良く現れた短篇。芥川龍之介の「藪の中」のような不整合性と、乙女たちの夜の行動という不可解性が、じっくり書き込まれ た描写によって摩訶不思議な形色を織り成す。
「出口」
 普通小説だなあ、にしても主人公は何が起っているのか気付かないのがミソ。だから結末が唐突にして強烈となる。描き方の勝利。
「空飛ぶ絨毯」
 子供の空想が結実した夢想、そして現実。本当に空飛ぶ絨毯が子供の玩具として存在すればこうなるな。こういう話を書かせるとミルハウザーの文章は生き生 きする。好きなんだろうな。
「新自動人形劇場」
 ピカソがシューレアリズムに入る前の作品は、実に写実的である。だから何故ピカソがああいった訳の分からない作品を描くようになったのか、と普通思 う。それを芸術と言うんだよと、人形術師を主体として描いたと(こちら側で)読める作品。
「月の光」
 月光の下での不思議な普通小説。まあ、月の照ってる時に出かけたら、女の子たちがソフトボール遊びをしているのに出遭うって時点で不思議だな。ま、こう いうのをルナティックって言うんだろう。
「協会の夢」
 『マーティン・ドレスラーの夢』だな、最初はありそうだが、輪を掛けて話は野放図になる。悪いことに、分かっているものだから読者も楽しむ。
「気球旅行、一八七〇年」
 プロイセン軍に囲まれたパリから飛び立つ気球の話。在りそうで無い、無さそうで在りそうな、なるほどミルハウザーにぴったりな普通小説。
「パラダイス・パーク」
 これも『マーティン・ドレスラーの夢』化した「イン・ザ・ペニー・アーケード」或いは「バーナム博物館」。もはや作者も読者も架空の世界を楽しんでいる のである。
「カスパー・ハウザーは語る」
 教育も受けずに育った野生児の告白。物事は相対的、光を知らなければ闇を知らず、幸福を知らなければ、不幸も知らない。
「私たちの町の地下室の下」
 地下ダンジョン、それがあればと想像すればこそ、そこにこの物語が生まれたのであろう。架空を知ってそれを楽しめるからこそ、ミルハウザーは逆手にとっ て物語を作れるのである。読者は言わば共犯者である。
 (2008年2月10日 追記)
 ミルハウザーは『夜の姉妹団』という柴田元幸が「エスクァイア日本版」で訳した海外文学短編を集めたものの中の、「夜の姉妹団」で読むのが初め てでした。(目当てはジョン・クロウリーだったのですが、『魔法の猫』にも収録されていて、少し残念でした)。
 後からミルハウザーという作家を考えたら、「夜の姉妹団」はいかにも、らしい作品でした。
 SFを読む人でも、J・G・バラードとかアンナ・カヴァンを読む人なら読んでいそうな作家ですね。便利な言葉で「スリップ・ストリーム」と言うので括れ ますが、ジャンルの境界に近い作家だと思います。

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