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キム・スタンリー・ロビンスン
キム・スタンリー・ロビンスン Kim Stanley Robinson (1952〜 )
アメリカ90年代SFの代表選手。やはり火星三部作が大きい。『レッド・マーズ』『グリーン・マーズ』が訳され、そして『ブルー・マーズ』の邦訳が待た
れる。
関連サイトはここ。
http://gosh.ex.ac.uk/~cs99jdc/ksr.html
http://www.euro.net/mark-space/KimStanleyRobinson.html
http://www.sfsite.com/lists/ksr.htm
http://www.kimstanleyrobinson.net/
http://www.fantasticfiction.co.uk/authors/Kim_Stanley_Robinson.htm
インタヴュー。
http://www.scifi.com/sfw/issue22/interview.html
『荒れた岸辺[上][下]』The
Wild Shore(1984)大西憲訳(ハヤカワ文庫SF)
ロビンスンの本邦初めての登場がこの作品でした。
アメリカが突如として文明崩壊を遂げる、ってのは設定としては無理がある。要するにロビンスン自身が、そういう開拓時代に近いような世界を作りたかった
のかも知れない。魚を捕り、小屋を作り、共同体のようにして暮らすしかない、一歩後退した世界。しかしそういった世界でも人は逞しく生きていくのだ。ま
た、『荒れた岸辺[上][下]』カリフォルニア州はオレンジ郡(ロサンジェルスの南の方)を題材とした、オレンジ郡シリーズの第一作目である。
カリフォルニアの文明人から見れば猛々しい自然、寓意的な「世界を回った男」の話や、真実を語るのか、ホラを吹くのか分からないトムじいさん。そういっ
た情景や人間の描き込みが丁寧で、それより何よりも主人公の大人になりかけた少年の冒険談がハラハラして、魅力的な作品でした。
『ゴールド・コースト[上][下]』The
Gold
Coast(1988)大西憲訳(ハヤカワ文庫SF)
オレンジ郡第二作目。
これは、SF的要素はあるものの、普通小説と言える感じがします。単に近未来小説と呼んでも良いのではないでしょうか?
主人公のジムは、一応、職には付いているものの、車の保険さえ親に頼っているというテイタラク。そして、何かをなさねばならぬと思いつつも、学生時代の
レスリング・チームのいわば悪友たちと、フラフラとした生き方をしています。そして、背景となるのは、都市化したカルフォルニアのオレンジ郡という、現代
世界のようなもの。そこでの、主人公や父母、友人たちの生活、交友、行動、思想と、人間の臭いを追いかけたものが、本筋となっています。従って、SFで現
実逃避や、感情の浄化(カタルシス)を求める場合、本書は全く役に立たず、逆に、現実の渦に沈んでしまいます。
前作「荒れた岸辺」が訳されてから5年が経って現われたわけで、この作品は期待したのですが、そんなに面白いとはいえません。SFを面白いかどうかで判
断される方は、面白くないので、読む必要はありません。この本は、むしろ文学的な、普通小説といっていいものなので、そう言うものを主体に読む人には、い
いかも知れません。
『永遠なる天空の調』The
Memory of Whiteness
(1985)内田昌之訳(創元SF文庫)
第一楽章じゃない第一章を読みはじめて思ったのは、ベルリオーズの「幻想交響曲」だった。ご存知の人もいるでしょうが、「恋を失った若い芸術家が自殺を
図ってアヘンを飲むが、致死量でないため、奇怪な夢を見る」というのが「幻想交響曲」の出だし、まさに本書はその通りな始まりである。P・K・ディックは
ベルリオーズを、音楽をXX年後退させたと嫌っていたようですが、私個人はこの曲は大好きです(ミュンシュ/パリ管でお願い)。なんで面白いのか音楽通で
ないので分からないのですが、話によるとベルリオーズは楽器を知り尽くしており、楽器を最大限に生かした作曲をするようです。つまりオーケストラにすると
個別のパートが縦横無尽に活きてくる。だから、面白いと言うことでしょうか。
初っ端から、話が外れているように思いますでしょうが、実はそうでもない。まず、この『永遠なる天空の調』はホリウェルキン・オーケストラと言うフル
オーケストラをやってしまう音楽機械を使う話です。今日でいうとMIDIで、本物の楽器が使われていると言った感じでしょうか。そういう機械を使うシーン
が当然出てきます。そのシーンを読むとどんな曲だろうかと思うのですが、個人的好みで「幻想交響曲」になってしまう。えっつ、太陽系のグランド・ツアーだ
からホルストの組曲「惑星」じゃないのとおっしゃる? しかし、それでは「金星、平和をもたらす者」がないし、「火星、戦争をもたらす者」でないのはなぜ
と言う気がする。本当は音楽通の人に何が埋め込まれているのと尋ねるのが良いのかもしれない。
音楽の話から切り込むのは正しいと思う。ただ私にはこれ以上突っ込めないので、別の角度見てみたいと思う。
ホリウェルキン・オーケストラのホリウェルキンとは大統一理論を完成した数学者で、彼の作ったオーケストラにはその理論が組み込まれているという。この
理論って十次元が基礎なんですが、後年リアルな火星SFで評判である作者キム・スタンリー・ロビンスンはうならしてくれます。つつきたい人はつつくと思う
けれど、それらしさという点では、誉めてやりたい。『荒れた岸辺』『ゴールド・コースト』と読んできたがつくづく器用な人だ。ただ、処女作なのか若さゆえ
か、若干背伸びしたような不自然なところもある。もっともこれだけのオリジナリティと奔放さがあれば、誉めるところの方が大きいなと私は思う。
『レッド・マーズ[上][下]』Red
Mars (1992)大島豊訳(創元SF文庫)
キム・スタンリー・ロビンスン、紛れもなくアメリカ90年代SFの代表選手である。この『レッド・マーズ』を嚆矢とする火星三部作が、ヒューゴー、ネ
ビュラをかっさらっていったことからも、それは理解できる。しかし、初めてキム・スタンリー・ロビンスンの作品を目にした人には、当惑が浮ぶのではなかろ
うか? 人間臭い、それも個性的人間に振り回される火星開拓物語である。
前から、『荒れた岸辺』『ゴールド・コースト』のロビンスンを知っている人には、当惑はないでしょう。もはや人間を良い悪いとかで見るのではなく、人間
は様々な見方を持ち、そのために他者から見れば、変人や悪者に見えることもある。他人を理解しようとするものもいれば、理解しようとしないものもいる。理
解できないとあきらめるものもある。こういった人間本来の特性を描こうとしていることが既に見えるのである。『レッド・マーズ』の群衆劇はまさに、その延
長線上にある。
ただ、以前に邦訳されたロビンスンには、火星という大舞台を考えていたとは、読み取れなかった。しかし、結構初期から火星について思うところはあったら
しい。比較的新しく訳された、『永遠なる天空の調べ』の中でも、火星のオリンポス山を舞台にした音楽シーンが描かれている。それにしても、相
当調査しているのが分かります。NASA関係の作家シェフィールド(作品中の街の名前は、彼に由来する
のであろう)に色々聞いていたようである。確か『赤
い惑星への航海』(テリー・ビッスン)でもシェフィールドに世話になったそうだ。アメリカ人にはNASAというものがあって便利には違
いなかろうが、それにしても基盤となる知識は大したものだ。
さて、『レッド・マーズ』の内容はといえば、火星の開拓が一段落した後の祭の夜から始まるが、前に戻って、南極での訓練を終えて開拓団が火星に向かい、
順々に火星に、言わば入植していく話。しかし、この開拓団は一枚板ではなかった。火星を急激に改変させようというグループ、火星には生物がいるかも知れな
いから慎重に行動しようというグループ、無頓着なグループの派閥がある。更に火星に開拓団を送るということは、金が絡みます。政治と経済、そして宗教にイ
デオロギー(さすがに共産主義はほとんど出てこないですが)。物事は単純ではない。その単純でないことを、あくまで人間の視点から描いているのが、『レッ
ド・マーズ』。ですから共感出来る人間もいれば、共感出来ない人間も出てくる。それが当たり前に読めるということは、ある意味喜ばしいと思う。
この作品が星雲賞でも取れば(日本の読者の質を考えれば)、更に喜ばしいと言えるだろうが、まあ受賞は無理でしょう。
さあ続編が楽しみだ。また厚みがありそうだけど。
<星雲賞受賞してしまいましたねえ。喜ばしい誤算ですけど(追記)>
『グリーン・マーズ[上][下]』Green
Mars (1994)大島豊訳(創元SF文庫)
前作の、怒涛の大混乱後の火星である。いよいよ話はテラフォーミング、つまり火星の地球化に移っていく。といっても簡単に火星が地球になるはず無く、如
何にそれらしく見せるかと言うのが、作者の力量に掛かってくる。ロビンスンの作戦はとにかくジワジワと丹念に描くことである。そこには人間のドラマが組込
まれている。『ゴールド・コースト』のように細かに人間の心理を追っていたのは伊達ではなく、作者の血肉になっている。そして、その人の心理が、テラ
フォーミングというものをよりリアリスティックに、まさに今ここで行われているかのように感じさせる。変わりつつある火星の表情にしても、そこにいる人間
の美的感覚を通しているがために、鮮明に色彩に富んだものとして読者に伝わるが、同時にテラフォーミングというものを確固たるものとして、読者に植え付け
る効果を持っている。「百聞は一見に如かず」と言いますが、頭の中で変わる火星をイメージ出来たなら、これが絵空事とは思えなくなる。空想科学小説から近
未来小説のように思えてくる。そして、私個人としては、そのヴィジョンこそ、SFに求めているものの一つである。かってSFは未来予測或いは予言と見られ
ていたこともあった。実際にはSFは未来予測だけの話ではないが、現実を人間が変えてしまうという、通常の小説にはない能動性を持っている。それは、理屈
や論理の積重ねから生まれる説得力であり、それを読んだ瞬間に、眩暈を憶える。それは例えば、こんなことに相当する。地上百階のビルがあり、そこから地上
を見下ろす。「わたしは、ここビルの百階にいる。地上は遥か遠けき世界。そして、夢ではない。わたしはここに立って、地上を見ているのだ」そこで感慨を覚
えるには、百階のビルがあることを有無を言わさず納得できることである。それが事実のように受け入れられれば可能である。SFにおいて、この迫真性は実に
大切である。
キム・スタンリー・ロビンスンの『グリーン・マーズ』は、まさにその迫真性をもたらした作品である。上下二巻のこれだけの厚さが無ければそれは無し得な
かっただろう。複雑な、そして、如何にもありそうな人間の葛藤がなければ、有りうるという読後感を育めなかったろう。ここで、一人一人のキャラクターを書
き分けられるというのは非常に重要なことであると思う。憂鬱な人間がいる、独善的な人間がいる、そういった人間も時に流されて変わっていく。だからこそ、
なるほどなあという説得力が生まれてくる。完璧ではないけれど、これほどのヴィジョンを与えてくれる作品はそうそうないのである。
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