入り口まで戻る
目次に戻る
ボブ・ショウ
ボブ・ショウ Bob Shaw (1931-1996)
SFファンであり、熱中するあまり、ついにはSF作家となった。イギリス人、いやベルファスト生まれだからアイルランド人である。派手なSFが好みのよ
うだが、書いている作品や評価の高いのは、人物造詣に重きを置いた素直な作品である。
サンリオSF文庫で五冊の邦訳が出て、それから訳が止ってしまい、紹介が進まないままでした。残念なことにまだ若いのに亡くなられました。
一部の未訳作品については、こちらを参照。
関連サイトはここ。
http://www.minervatech.u-net.com/people01.htm
デヴィッド・ラングフォードの追悼文
http://www.ansible.demon.co.uk/writing/bobshaw.html
http://ebbs.english.vt.edu/exper/kcramer/anth/Shaw.html
http://www.fantasticfiction.co.uk/authors/Bob_Shaw.htm
http://www.scifi.com/scifiction/classics/classics_archive/shaw/shaw_bio.html
http://isfdb.tamu.edu/cgi-bin/ea.cgi?Bob_Shaw
『去りにし日々、今ひとたびの
幻』Other Days, Other Eyes
(1972)蒼馬一彰 訳(サンリオSF文庫)
スローガラスは、そこを通って光が出てくるまでに時間がかかる。普通のガラスでもほんの僅かだけ光路差が違って位相差が生じるが、スローガラスはそんな
生易しいものではない。例えば、光が入って出てくるまで1年かかるということが生じるのだ。それを扱った連作短編集が『去りにし日々、今ひとたびの幻』で
す。
「去りにし日々の光」
倦怠期に入った夫婦が、スローガラスの産地を訪れる。風光明媚な場所にスローガラスを置いておけば、そこでの風景が擦りこまれる。そして購買者は自分の
家の窓や額縁に嵌め込むことで、その風景を楽しむことができるのである。そこで、ふと彼らが気づいたスローガラス業者の過去。泣けてきますねえ。こういう
機微を扱えるのがボブ・ショウの本質。
「立証責任」(「物証の重み」)
裁判は終り、殺人事件の容疑者は死刑になった。ただ、本当のことを知っているのは殺人現場付近に置かれたスローガラスのみ。そして、スローガラスがそれ
を明かにする時がやってきた。判決を言い渡した判事の胸には何が去来するのだろうか? 人物造詣が深いですね。
「虹色のガラスのドーム」
スローガラスは様々な用途に使われるが、自白用の手段にも使われるとは。
以上の三短編を含んで、スローガラスを作った技術者の短編Other Days, Other
Eyesで全体をくるむようにして作られたのが本書です。
一つのアイデアだけで、いろいろな発展性を見出して、話にする。これがボブ・ショウのサイエンス・フィクション・ライターとしての最高の資質だと思いま
す。スローガラスという魅力も様々な用途を考えて、使う人間の目で見たからこそ生まれたわけですから。
しかし、やっぱり「去りにし日々の光」が出色の出来ですね。
『メデューサの子ら』Medusa's
Children (1977) 菊地秀行訳(サンリオSF文庫)
読む前、これは人間を石に変えるゴーゴンのメデューサの話だと思ったら、全然違った。英語の辞典調べれば分かるんだけどMedusaはクラゲでもある。
クラゲというのは変な生物で群体からなっている。前半はそのメデューサの支配する海の惑星に棲む、人間たちの厳しい海での生活が描かれている。後半になる
と、その惑星と地球が絡んでくる。
やはり、細かい書込みが良い味出していますが、最後の追込みははっきり言って、急過ぎる。冒険SFとしては水準は行くでしょう。
『おれは誰だ?』Who
Gose Here? (1977) 嶺 常生訳(サンリオSF文庫)
原題の Who Gose Here? はジョン・W・キャンベルの作品 Who Gose
There?(邦題「影が行く」)のもじりです。題名からもパロディっぽいのですが、中身はA・E・ヴァン・
ヴォークトの超人物を、ハリー・ハリスンばり
に、しっちゃかめっちゃかしてしまう、パロディ的お話です。
読んでるときは面白いのですが、感銘を残すようなものではないですね。
『眩暈』Vertigo
(1978) 関口幸夫訳(サンリオSF文庫)
訳された作品の中で、最高傑作はこれでしょう。
飛翔する機械が当たり前になった未来、大陸間であっても飛行機を使わず人が飛べる時代である。主人公は、かってはその機械を使って大空に舞い上がって様
々な事件を解決していたのだ、ある事件が起こるまで。
その事件後、身も心も傷ついた彼は、癒えない身体を引きずって、大陸を飛行機で渡って来る。その彼の「飛べない男」の物語です。
彼の周囲には魅力的な人物がいっぱい出てくる。彼と友達になる言葉数の少ない目の不自由な少年。口達者で、主人公にあれこれと世話を焼く漢方薬の薬局員
(ちゃんと薬を売り付けるところが流石)。
そんな風な環境で彼も再び大空へ飛ぼうとするが、その度に眩暈(めまい)に襲われる。
こういう作品を読むと、ボブ・ショウはやはり、人物の内面や機微を描くのが最高にうまい作家だなという気がする。
ラストの盛り上りは、良かったですねえ。そして最後の数行、いままで彼と彼の苦悩を共有してきた読者にとって、なんともすがすがしい結末です。
『見知らぬ者たちの船』Ship
of Strangers (1978) 嶺
常生訳(サンリオSF文庫)
SF作家ボブ・ショウ、彼の道を誤らせたのは、あるSF作家A・E・ヴァン・ヴォークトである。大
学への進学を止め、SFの道に進むのだから、その影響
力は大したものである。
そのヴァン・ヴォークトの(世間的)代表作『宇宙船ビーグル号の冒険』(創元SF文庫)ないし『宇宙船ビーグル号』(ハヤカワ文庫SF)という長編ある
いは連作短編集へのオマージュが、この長編あるいは連作短編集の『見知らぬ者たちの船』である。確かに『ビーグル号』が下地と分かるが、味付け方とか構成
とか全く違う。それが本来のオマージュである。作品の中のネタや筋を変えずに使ったら、それは元の作品の模倣でしかない。
この『見知らぬ者たちの船』は模倣ではないが、手放しで誉められる作品ではない。水準作ではあるんだけど、元の話がボブ・ショウの手堅い作風に似合わな
いのではないだろうか。
ボブ・ショウの作風で一つ気にかかるのは、あんまり言われたことがないと思うが、目の不自由な人が良く目につくということである。処女長編
Nitght Walk
では、いきなり主人公が失明してしまうし、『去りにし日々、今ひとたびの幻』でも失明の話があるし、『メデューサの子ら』でも、目の不自由な、けれど、け
なげな女性が出てくる。『眩暈』では重要な登場人物に、目の不自由な少年が出てくる。家庭環境や友人にそういう人がいたのだろうか?
目の不自由な人というのが良く出てくるように、とりわけボブ・ショウの作品では”見える””見る”ということに拘っているような気がする。処女長編
Nitght Walk とか『去りにし日々、今ひとたびの幻』とか長編の A Wreath of Stars
とかのアイデアは、まさにそうである。
入り口まで戻る
目次に戻る