フリーク・ショウ(見世物小屋)というのは猥雑さが漂うものなのだが、それを純粋に楽しめる人もいる。シオドア・スタージョンは、自身サーカスの空中ブ
ランコを志したことがあるというから、その範疇に入る。
主人公の少年ホーティは、蟻を食べているところを見られたため、迫害される。USAでは昆虫を食べる習慣がないため、日本以上に毛嫌いされる。日本だ
と、不衛生だと嘲笑われる程度であろう。少年がそうするのには訳があった。彼自身は知らないのだが、宝石が夢見て生まれた存在であり、蟻酸を身体が要求し
ているのだ。そんなこんなで、育ての親からも蔑まれ、無体な折檻受け、ホーティは家出して、興行団の一員となる。実は団長は、その夢見る宝石を集めて己の
望を叶えんとする輩であった。
SFというよりもファンタジーに近いこの作品は、スタージョンの感性を良く伝えている。よくタブーや嫌悪される事柄にスタージョンは関心を示す。例え
ば、傷である。こんな酷い傷というのを、正確に描写しようとする。それは、子供の好奇心と同じである。遠慮会釈なしに注意を向けていくのが子供であるか
ら。そして大人が、それを何故嫌悪する、タブー視するかと言えば、理性的に考えれば、合理的な理由には欠けている。そこで、人が目を背ける事柄をじっくり
描くのが、スタージョンである。
アイデアは、集合知性体である。人間の身体は、役割が異なった脳・心臓・消化器官・腕・脚からなっている。それと同様に、脳・腕脚・耳目などの役割をす
る個人が集まって生命体となる存在=ゲシュタルトというものである。
そこで、その一員たる白痴の見地から物語は始まり、ゲシュタルトとして全員が集まり、一個である自分たちの存在、アイデンティティを確立し、そして、そ
の自分たちは何をすべきかを知るというところに至る。粗筋だけ書いてしまうと面白みが無くなってしまうが、その過程の曖昧模糊とした粘液的な雰囲気が、な
んとも言えない。好きな人にはたまらない世界描写である(特に白痴の視点)。それが世界幻想文学大賞を受賞した理由であると言える。
解説を読んで、思わずご同輩と笑ってしまった。何せ、幻の名作と騒がれ古書店で異常な値付となるこの本を私も狙っていたから。それがたった2000円+
税で
読めるんだから、世の中のスタージョン・ブームには有難いと言わざるを得ない。偉いのは晶文社に河出書房新社、ついには本家(?)の早川書房からスター
ジョン作品を出させてしまうのだから。それでは収録作品内容について紹介。端整で品良く集まった、まさに珠玉、いまだにスタージョンのベスト短編集と言っ
て通じると思います。
「英雄コステロ氏」Mr. Costello, Hero (1953)
カリスマ(この用語は使われていないが)の統治による全体主義社会が予想される話。
「おまえのやさしい手で」The Touch of Your
Hand (1953)
結末で、話の背景に、青年がこういった行為に至った理由までが明かされる。こういった一挙に物語を展開するのはSFならではなのだけど、SFの悪弊的説
明癖でもある。
「みどり猿との情事」Affair with a Green
Monkey (1957)
セクシャルな話が欠かせないのがスタージョンなのだけど、その最良の一品。
「リューエリン向きの犯罪」A Crime for
Llewellyn (1958)
平々凡々たる男が、心に秘めて、それゆえ自身の支えとしていた罪、ある日それが罪でないと知らされる。アイデンティティを失った男がそれを取り戻そうと
する、妙で、少し哀しい、喜劇。
「空がひらける」It Opens the Sky (1957)
天使と呼ばれる、善意によって統べる警察のような機構によって成り立つ世界。主人公はそんな世界で二つの顔を持って、詐欺を働いていた。そんな彼に億万
長者が、星の世界に行った道楽息子を助けて欲しいと依頼する。「おまえのやさしい手で」のような構造の話。
「奇妙な触合い」A Touch of Strange
(1958)
沖合いの岩に、男が呼びかけると女がいた。男は女の人魚を待ち、女は男の人魚を待っていたのだが、人魚たちは現れない。そういう状況の男女の奇妙な触れ
合いを描いた作品。
「もう一人のセリア」The Other Cellia
(1957)
ある途方もない好奇心のある男、まあ、アパートメントの隣人の部屋を覗くくらい訳ない男が、垣間見た生命の感じられないセリアの部屋。それゆえ、彼女の
私生活を探っていくお話。
スタージョンという作家をどういう風に捕らえるかというと、私は短編「ある思考法」だと思う。どういう思考法をしているかというと、常識ではな
い。それゆえに、次々と読んでみたくなるのだ。他にもスタージョンらしさはあって、愛、特に性愛がある。好調なスタージョンはミューズが付き添っていて
(つまり、実人生で恋人と上手く行っていて)、それが作品に影響しているようである。私はこちらは余り乗れない。
『奇妙な触合い』はスタージョンの思考法が生きた短編集。「みどり猿との情事」「奇妙な触合い」なんて、異性愛の話なんだけれど、読み物として実に良く
出来ていると思う。
この作品の中に、メドゥーサという存在が出てくるが、このメドゥーサは人間を石に変えるギリシャ神話の怪物ではない。英語の辞書でMedusaと引けば
クラゲと出てくる。クラゲは群体生物の典型である。個別の生物が、役割分担しながら1個の生物として機能する。意識(クラゲに意識はないだろうけど)は1
つでありながら、多くの固体からなる集団。それがメドゥーサであった。スタージョンはこのアイデアが好きなようで、『人間以上』でのゲシュタルト生命体
も、元ネタはこの群生生物だと思われる。
話は、このメドゥーサとの邂逅する前の、個別の人間たちの様子から描かれていく。それぞれ孤独な人間たち。そこへ、宇宙からメドゥーサが侵入し、
生物固体が別々の意識を持つものとは予想だにせずに、意識を一つにしようとした。人間たちの意識が一つとなった時、もはや人間たちは孤独ではなくなった。
そして、意外なことに話は進む。
多少御都合主義的話の展開ではあるけれど、スタージョンらしい粘液的なストーリーと言える。
説明するのが難しい本。ジャンル分けにしても、ホラーでも、SFでも、ファンタジーでもない。ミステリーに近いが純然たるミステリーではない。サスペン
スと言えば、そう言えないことはないけど、近くはない。フィクションには違いないが、普通小説とも言えない。理由は、作品の基底をなすアイデアである「き
みの血を」という意味だ。
まあ、奇妙な味のスタージョンというのには、確かにそうだな。ストーリーテリングの手法と言い、月並みではない。
「ここに、そしてイーゼルに」To Here and the Easel (1954)
絵が描けなくなった絵描きの妄想という感じの話。
「時間のかかる彫刻」Slow Sculpture (1970)
それぞれ世界に絶望した男女の出会い。
「きみなんだ」It's You (1970)
これと思った女の子、彼女と暮らすことになるが、徐々にわだかまりが生じる。
「ジョーイの面倒をみて」Take Care of Joey
(1971)
パブでいきまくチビ(ジョーイ)と、それを守ろうとする男。係わり合いになってしまう主人公。
「箱」Crate (1970)
植民惑星で、子供たちが試練に遭う。その役目とは、箱を運ぶこと。
「人の心が見抜けた女」The Girl Who Knew
What They Meant (1970)
人の心が見抜けて、しかも善人であるってことは、不幸。
「ジョリー、食い違う」Jorry's Gap (1969)
スタージョン版「振り子」(元ネタはO・ヘンリー)である。それ以上言うことは無い。
「<ない>のだった−本当だ」It Was Nothing -
Really (1969)
ユーモアSFってやつね。
「茶色の靴」Brownshoes (1969)
彼はその発明を活かす為に全てを掛けた賭けに出た。得たものは大きいが、失ったものも大きい。
「フレミス伯父さん」Uncle Fremmis (1970)
ユーモアSFってやつね。
「統率者ドーンの<型>」The Patterns of
Dorne (1970)
独裁者によって統率される世界。独裁者の暗殺を試みた男が邪魔される。そこにはもっと高等な理由があった。
「自殺」Suicide (1970)
自殺しようとした男が、骨折し助かってしまって、生き長らえようとする話。
スタージョンの文章スタイルが表れているが、それ以上に面白い話はない。例外は「時間のかかる彫刻」くらい。
創元SF文庫から、表題が替わって再登場。訳者の大村美根子さんはこの本が再び陽の目を見た後に、お亡くなりになりました。
「影よ、影よ、影の国」Shadow, Shadow on the Wall (1951)
「秘密嫌いの霊体」Blabbermouth (1947)
「金星の水晶」Special Aptitude(Last
Laugh) (1951)
「嫉妬深い幽霊」Ghost of a Chance(The
Green-Eyed Monster) (1943)
「超能力の血」Twink (1955)
「地球を継ぐもの」Like Young (1960)
「死を語る骨」The Bones (1943)
ジェームズ・ベアードと共作
とりわけ面白いかと言えば、ベストのスタージョンではない。それでもアイデア主体の50年代あたりのSFとしては、良いかと思う。
また、追記しますが(手許にないのでウロで書いています)、記憶に残っているものでは、「秘密嫌いの霊体」はヘンリー・カットナー風の頓知が楽しめる
話。人の秘密を知って喋るのは、力を握れない。知ってそれを扱うことが肝要です(参照『パワー・シフト』アルヴィン・トフラー)。「金星の水晶」は、
ファースト・コンタクトものでもあるのだが、真実は物の見方、或いは女は優しい男が好きという話。これもカットナー風だな。「地球を継ぐもの」は、まあ一
言居士は大目に見ようよねと(私は)言いたくなる話。一言居士に目くじら立てるのが、大人気無いってこと。
トマス・ピンチョンが50年代のSF作家たちは凄かったと、言ったことがあって、私は誰が念頭にあったんだろうなと考えて、アイデアや文章スタイル、話
の進め方と考えていって、シオドア・スタージョンもかなあと思うことがある。シオドオ・スタージョンは40年代から引き続きこのSF世界で活躍していたの
だが、作品を為すアイデアでも余人にない観点を持ち、英語に淫していると言われる程、その文章には定評がついている。話の進め方も、一通り読んで行くとそ
のクライマックスを悟らせない微妙さを見る時があり、そういう時はパルプ世代のSF作家というよりは、文学に近いなと思う。
邦訳作品は比較的入手しやすい長編は『人間以上』『夢見る宝石』(以上、ハヤカワ文庫SF)だけなのだが、長編だけに、短編に見せる鮮やかなアイデア勝
負の作品でも、スタージョンらしい精妙な語りを見せる作品でもない。ところが、そのスタージョンらしい短編を探すのが難しい。『一角獣・多角獣』(早川書
房)『奇妙な触れ合い』(ハヤカワSFシリーズ)『影よ、影よ、影の国』『スタージョンは健在なり』(サンリオSF文庫)と絶版ばかりで入手難であるした。
「ミュージック」The Music (1953)
吉村満美子訳
短いホラー。全貌を読者に見せず、それとなく悟らせる機微。今時の読者にどれだけ通じるのだろう。
「ビアンカの手」Bianca's Hands (1947)
若島正訳
ビアンコならイタリアの白、白ワインのこと。だから、ビアンカという名前には「白」という意味がある。主人公が出会った白痴の少女ビアンカは、その白き
両手だけが、まるで別の生き物のように、主人公を誘惑した。スタージョンの描写力に慄くべし。
「成熟」Maturity (1947) 霧島義明訳
スタージョンのどこが変わっているかというと、思考法。その思考法が生まれたのは何処からというと観察から。その観察が生まれるのは、好奇心から。な
ぜ、そんな好奇心があるのか、それが、結局、スタージョンを為すものじゃないかと、私は考えている。その地のスタージョンを見せる超人テーマの一編。その
超人が人間の理解の及ぶ範囲にあれば、超人とは言えないが、スタージョンは見事に、我々の裏を掻く。
「シジジイじゃない」It Wasn't Syzygy
(1948) 若島正訳
Syzygyは生物用語では連接という意味で、この意味が明かにされないことが、作品のミソ。私もピンと来なかったので、google検索で「連接」
「Syzygy」で調べました。ぴたり、しっくりくる意味はないのですが、生殖を伴わない性的行動というくらいの感じ、だと思います。
「三の法則」Rule of Three (1951)
吉村満美子訳
長編『人間以上』に通じるゲシュタルト的エイリアンの話。ひょっとすると、コードウェイナー・スミスの「三人、約束の星へ」はこの作品が影響しているの
かもしれない。
「そして私のおそれはつのる」"...And My Fear
Is Great..." (1953) 今本渉訳
スタージョンには、残虐なシーンを細かに描写することがあります。それはやはり好奇心、興味津々の域から生まれる観察力がなせたものではないでしょう
か? 尤も常にそういった鮮烈な描写を行っている訳でなく、メリハリを利かせて、月並みなシーンでは、そういう描写はしません。
「墓読み」The Graveyard Reader
(1958) 大森望訳
スタージョンはアイデアの作家でもあり、情緒的な作家でもあり、文章のスタイルにも気を配る作家というのが、この一作で理解できてしまう。他の誰に、こ
んな作品が書けるというのだろう。
「海を失った男」The Man Who Lost the
Sea (1959) 若島正訳
文章スタイルにも気をつけるからこそ、60年代ニューウェーヴ風の作品にスタージョンは行き当たった。この作品はクラークのように淡々と叙事的に書いて
いくことも出来たのだろうが、それでは主人公の内面が描けない。熱に浮かされた状態の主人公の内面を客観的に置く、一歩離れて見る、そして、それを活かす
描き方をする。
というわけで、SFに口うるさいグルメ向きが、この『海を失った男』という作品集。珍味(キャビア=Caviare)をたっぷりあしらっておりま
す。生み出したるはシオドア・スタージョン(チョウザメ=Sturgeon)。
酒の肴にするには惜しいですから、一品一品素面で召し上がれ。読み終わりましたら、辛口イタリアン・ビアンコでキュっと締めましょう。(何? ベルモッ
トじゃあだめって? 別に構いませんが…)
スタージョン・アラカルト第二弾。
題名を見て、あれ?これって『奇妙な触れ合い』のことじゃない?と思われる方もいるでしょう。その方は半分
正解で半分はずれ。ハヤカワSFシリーズで出ていた『奇妙な触れ合い』の表題作ともう一作を含む新規のオリジ
ナル短編集。くどい前口上はこれくらいにして、作品紹介。
「高額保険」Heavy Insurance (1938)
大森望訳
スタージョンのデヴュー作。普通小説のショート・ショート。中身はともかく、読者を当惑させる書き方をしているのが楽しい。
「もうひとりのシーリア」The Other Celia
(1957) 大森望訳
「もう一人のセリア」で『奇妙な触れ合い』に収録された作品。シーリア自体の存在はSFと判断できるものな
んだけど、それ以上に主人公のデバガメの人物描写が面白い。
「影よ、影よ、影の国」Shadow, Shadow, on
the Wall (1951) 白石朗訳
ソノラマ海外SF文庫『影よ、影よ、影の国』の表題作。編者あとがきを読んで、これって、スタージョン本
人の少年時代の記憶が生み出したものじゃないかと思う。スタージョンの場合は継母でなくって、継父なんだけど。
「裏庭の神様」A God in a Garden (1939)
大森望訳
ジャンル的には神様に願い事を幾つか叶えてもらうお話の一つ。尤も背景がいささかSFぽくあるのが楽しい。神様の風体、性格にしても俗ぽいのもご愛嬌。
「不思議のひと触れ」A Touch of Strange
(1958) 大森望訳
『奇妙な触れ合い』収録「奇妙な触れ合い」は原題を尊重する私にしては、話と整合しているじゃないかと、そ
の訳題が好きだった。原題の方は、『ざわついた部屋でふと静まり返った時、誰かが「今、天使が通ったみたいよ」』という訳文を読むような、日本風に訳せな
い、訳しても何となく肌触りが合わないものを感じるからである。ストーリーはアイデアと情感が絡んだ、稀有の作品。
「ぶわん・ばっ!」Wham Bop! (1948) 大森望訳
ジャズ小説。書かれていることは2つだけ。音楽はビジネスだ、だが真に音楽を愛するものはその価値を正当に評価する。
「タンディの物語」Tandy's Story (1961)
大森望訳
出だしから、何か引っかかるなあと思ったら、何ということはない、コードウェイナー・スミスの語りだ。C・スミスはスタージョンのこんなところにも影響
さ
れていたのか? 話自体は、SFでは類例が多い、宇宙生命体の人類への干渉である。「ガリゴリの贈り物」ポール&コーンブルースとか、「衝動」E・F・
ラッセルとかも浮かぶ。
「閉所愛好症」The Claustrophile (1956)
大森望訳
途中キャラの台詞が、そこだけ外れたような個所がある。幾ら引篭もりがちな少年で、風変わりだからって、ストーリー上、その台詞はないだろうと思うが、
要するにそうまでして作者が言いたかったことが、そこあるわけだ。それにしても、価値観の反転はSFではよくあることだ。
「雷と薔薇」Thunder and Roses (1947)
大森望訳
名作『雷鳴と薔薇』です。雷鳴は Thunder Crap
だから、雷(いかずち)訳の方が正しい。私自身はどっちでも構わない。雷が音の方で、電(いなずま、英語だとlightning)が光の方だから。
まあともかく、昔この作品を読んだ時にはびっくりした、アメリカ人で、こんな話を書く作家がいるなんてと。今、初めて読む人でも、驚かれる人がいると思
う。私は、この短編が再び陽の目を見れるようになったのが嬉しい。
「孤独の円盤」A Saucer of Loneliness
(1953) 白石朗訳
スタージョンらしい作品。こんなに愛を歌い上げ、こんなに構成に気を配り、なかなか思いつけないアイデアを昇華させる、ってのは他の誰も出来ることでは
ない。
やはり、スタージョンの作品を選りすぐった短編集は面白い。まだ残っているんだよなあ、国書刊行会が『ヴィー ナス・プラスX』を出した後も、翻訳 刊行は続いて欲しいと思う。
スタージョン・アラカルト第三弾。
各社が順調にスタージョンを邦訳出版してくれて、ありがたいことです。早川書房から『きみの血を』が唐突に文庫に落ちて、晶文社から『海を失った男』、
河出書房新社から『不思議のひと触れ』、国書刊行会から『ヴィーナス・プラスX』が出版され、再び、河出書房新社からこの『輝く断片』が出て、まだ晶文社
から短編集が出る予定。どれもこれもSF作家では無くて、異色作家として扱われている。スタージョンの場合、SFの仁義で書いていると思える作品があっ
て、その
枷を外す方が余程素直に読めるのにと思うことがある。「マエストロを殺せ」「ルウェリンの犯罪」「輝く断片」なんて、SFでなくてそれで実に面白い作品と
なっている。ただ私が
異色と思っているのは風変わりなという感じで、SFとして異色、ミステリーとしての異色、という意味ではない。そう、奇妙な味のスタージョンは、そういう
異
色
作家というのが良く似合う。以下、作
品内容の開陳。