謎とき「界の中で、愛をけぶ」

ライターズ・ジム著 夏目書房刊

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>>もくじ<<

はじめに

基礎知識編

  こんな人まで! 全登場人物紹介

  小説の舞台をさがす
    二人が住んでいる街は実在した
    二人が歩いた場所をたずねる

  一目でわかる詳細年表

第1章 世界の成立

 「失われた十年」──二人が生きた時代  
    なぜ十年も前の物語にしたのか
    九十年代とはどんな時代だったか
    「恋愛」ではなく「純愛」である

 「けものと、ソクラテス」──タイトルを擁護する
    パクリではなく創作である
    もうひとつのタイトル
    著者と編集者の困惑

 「面倒くさがり屋なのよ、あの子」──名前について
    名もなき人々
    朔太郎と龍之介
    アキ? 秋? 亜紀!

 「あそこにはすべてがあった」──世界の中心はどこか
    世界とは何か
    オーストラリアでの違和感
    夢島ではない、どこか
    中心から日常へ
    愛をさけぶ


第2章 世界の中心

 「花が咲いたら一緒に見にこない?」──輝かしい日々に射す影
    はじめての約束、果たせない約束
    朔太郎はなぜアキを好きになったのか
    アキは本当に朔太郎のことが好きなのか
    朔太郎は本当にアキのことがわかっていたのか
    朔太郎はエコロジストか

 「急がずに、ゆっくり一緒になっていきましょうね」──夢島で何があったか
    夢島という異界
    性交をめぐって
    朔太郎の策略、アキの戦術

 「なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」──別れを受け入れるいくつかのやり方
    なぜ私なのか、がわかるとき
    人は遺骨をどう扱ってきたか
    どんな思い出も風化する

 「何かが心の奥で小さく震えていた」──十年後の再生
    「若い女」とは誰か
    彼女は、アキの事を知っているか
    トラウマとしての過去


第3章 世界の周辺

 「あらゆる涙が乾いてゆく」──言葉と哲学
    男らしい言葉と女らしい言葉
      コラム:二人はどんな言葉でしゃべったか
    『世界の中心で、愛をさけぶ』の哲学

 「未来を反復しているような後悔」──特徴のある物語
    そして誰もいなくなった
    繰り返しについて 
  
 「似て いる/いない ようで似て いない/いる」──家族的類似作品の研究
    マンガ版を読む
    『Deep Love』を読む
    『ノルウェイの森』を読む

 「泣きながら一気に読みました」──感想の類型論
    評論家はどう読んだか
    柴咲コウの功罪
    読者書評にある「バカの壁」


あとがきにかえて──ふだん本なんか読まない人たちへ


写真:見崎鉄

はじめに

『世界の中心で、愛をさけぶ』は、たかだか二〇〇頁の薄い小説です。タレントの柴咲コウさんが「泣きながら一気に読みました」というように、「一気」に読めてしまうほど薄く、内容も容易です。読者の感想を読んでみても、たいていの人が「一気」に読み終えているようです。トルストイやドストエフスキーの重厚長大な小説に比べたら軽薄短小な小説であるといえます。ですが、いっけん短くわかりやすいものだからといって、本当に理解しているとはいえません。実は短くわかりやすくても意外にわからない謎が隠されてもいるのです。
 たとえば、アキは本当に朔太郎のことが好きだったのでしょうか。アキは二人でいるときも、どこかシラケているように見えます。はしゃいでいるのは朔太郎だけかもしれません。もし、そうだとすると、この小説がかなり違ったものに見えてくるはずです。

 この本の趣旨は、『世界の中心で、愛をさけぶ』を、「あまりにも知られすぎたベストセラー小説」としてではなく、「あまりにも知られていないベストセラー小説」とみなして読んでいくことです。ベストセラーなのに「あまりにも知られていない」というと矛盾していると思うかもしれませんが、「知られている」のはタイトルと物語の表層だけで、インターネットなどにあふれる読者感想のたぐいを読むと、まさに読者が勘違い・誤読をもとに好き勝手に読んでいることがよくわかります(その詳細は「感想の類型論」の項目をご覧ください)。ベストセラーになってよく読まれるようになったからといって、否、それゆえにこそ、ふだん本など読まない層が手をだし、好き勝手な感想を抱くという事態が起こっているのです。「よく読まれる」というのは、「広く浅く」読まれるということであって、「深く」読まれるようになったということではないようです。
 プロの読み手である文芸評論家も本書を馬鹿にしているせいか黙殺します。たまに聞こえてくるのは「あまりに通俗的」という批判です(たとえば'03年12月3日の朝日新聞記事)。「通俗的」というのは「よくある話」という意味です。しかしこの小説について「通俗的だ」と批判すること自体が「通俗的」なのです。それこそ、「よくある批判」なのです。そんなものはしょせん、みんなと同じ感想を述べているにすぎないのです。この小説の意外に豊かな細部の、その「意外さ」を発見するのが「評論家」の最低限なすべき仕事でしょう。細部の繊細さを「通俗的」という単純な一語に超訳(=還元)することでこの小説をわかったつもりになり捨て去るのは、「評論家」としてはお粗末なやっつけ仕事というほかありません。
 この本では、ベストセラーだから誰が読んでもわかりやすいはず、あるいはベストセラーはくだらない、という「迷信=思い込み」を、このベストセラー小説を材料にして解き放ってみたいと思います。そうはいっても、それはこの小説が読み込むに耐えるだけの実質を持っていればこそ可能な作業です。同時期にベストセラーになった『Deep Love』のような「小説」だとそれは不可能です。
『Deep Love』はケータイ小説として人気が出ました。ケータイの小さな液晶画面で読むにふさわしい物語です。詳しくは後でふれますが、それは細切れなのに大あじで単純なのです。一方、『世界〜』は組み立てがしっかりしているし細部も豊かで複雑なのです。