林檎の谷
まあ、おかしいこと。あなたは私のことを話せというの。オウリス・ルカシュ・ダルガリ・アーディス、あなたにイザナの王位をもたらした私自身のことを?
私はこの都イシュナからずっと東北に離れた、小さな谷で生まれたの。春には谷中が雪のように白い花で覆われ、どこを歩いても、りんごの花の甘い香りがした。
私は低い石積みの塀の間の谷で一番大きな道を歩きながら、春の空気を胸一杯に吸い込むのが大好きだったわ。
私は恋をしていた。
あのころはそれを何と呼ぶのかは知らなかったけれど、遠くからその人の姿を影でも見かければすぐにそれと分かり、何も聞こえなくなるほど胸が高鳴り、わずかでもほほえみを交わそうものなら、物陰に駆け込んで、声高らかに歌いだしそうになるのを堪えなければならなかった。
その人は浅黒い肌をしていて、黒く光る目は鋭くて、それでも私だけには優しかった。父は長老として谷を治めていたけれど、実際の細かな指図はその若者と父親が行い、毎日、少しでも人々の暮らしを良くしようと工夫していた。
その人は……驚いた。何てことだろう。名前を忘れてしまったわ。あの頃の気持ちは、昨日のことのように良く覚えているというのに、時がたつというのは不思議なものね、ルカシュ。
昼に夜に、呪文のように何度も繰り返し心の中で口にした名だというのに。
人はあの谷を林檎の谷と呼ぶ。
谷には毎年美しい林檎が純白の花をつけ、わずかばかりの斜面の土地にへばりつくようにして、一握りの人々が暮らしていた。
深い森に囲まれた小さな郷には、たった六家族が住んでいただけだった。
谷あいの狭い道を林檎の並木の落とす影が覆っていた。
果樹園の垣根の緑は濃く、納屋の裏は涼しかった。
谷はつつましいながらも豊かな生活を与えてくれていた。
わたしは気づかぬまま、ずっと幸せだったわ。
十六の春まで、私はそのこと、つまりわたしの本当の出自を知らなかったし、病の床についた母からそれを打ち明けられたときも、ただ驚くばかりでそれが本当はどんな意味を持っているのかは分からなかった。
母はどうするかは私が決めていいと言ったけれど、一人自分の最初の子供にだけこっそりそれを伝えてきたという一族の決まりに逆らっても、私は一生沈黙を守り、その秘密を墓の中まで持っていくと心に決めていた。
それを知った人は不幸になるから、決して口にしてはいけないと、母は繰り返し言ったのよ。
「兄さんは、知っていたの?」
私には年の離れた兄がいたの。私が十五の春に、当時はどこでも際限なく続いていた戦いに巻き込まれて死んだのだけれど。
本当なら私がそれを聞かされることはなかったはずだった。兄から兄の子供への伝えられるべき秘密だったから。
すぐ下の姉は四年も前に、山一つ向こうの大きな荘園に望まれて嫁入りしていたし、末の弟はそのころはランガの僧院にいたから、あと、家に残っていたのは私だけ、秘密を受け継いだのも私だけだった。
その母の話を聞かなければ、知らなければよかったと、何度思ったか分からない。
あの林檎の谷から外には一歩も足を踏み出さず、平和な穏やかな暮らしを続けていられればどんなによかっただろうと思ったわ。
今となっては、考えてもしようのないことだと思うけれど。
夜が明けてすぐ、こっそり家を抜け出して、緩やかな斜面が林檎の木陰で傾き始めるあたりにさしかかると、木立の切れ目から、私の名を呼ぶ声が聞こえる。
その声を聞くだけで幸せだったものよ。
二人きりでいられるのは一日のうち、それだけだった。すぐに私は走って戻って、家族の朝食を作り、一日、畑で果樹園で陽気に働いたわ。
兄が死んだ後も、外の世界の争いが私の世界に影を落とすことはなかった。私がそれに気づいていなかっただけなのだろうけれど。
林檎の花が谷中を満たす春がやってきて、濃い大気にはむせ返るほどの白い花花と甘い蜜の香りが満ちていた。
いつもの春と何も違わないのに、何もかもが変わってしまったのは、私が十七の時だった。
数騎の兵士が女ばかりの父の家を訪れ、一人の青年が私を妻に迎えたいと言った。
「なぜ、わたしを?」
その背の高い青年は強ばった笑顔で、丁寧に言ったわ。
「この谷は美しい。そして、あなたも」
その日のうちに、私は一張羅の晴れ着とわずかな荷物と、母が髪に差してくれた林檎の花だけを持って、馬の背に七日も揺られて、ダルガリの家に嫁いだの。
前の日から狩に出たままの恋人のことを思い、病篤い母を思い、何度隙を見て馬を帰そうとしたことか。
でも、ダルガリは当時すでに勢力を伸ばしつつある大家の仲間入りをしていたし、谷をおさめる父の名においても、このつながりは幸運なことだったから、断ち切ることなどできはしなかった。
それでもダルガリの館についた途端、私は決心を翻して一目散に戻るところだったわ。
あの時の館の有様と言ったら。
シャナンと兄弟は早くに母親を亡くし、男やもめの父親と、その兄弟の男ばかりの家で育ったの。唯一の女手と言えば、父親の姉の行かず後家、これが男どもに勝る猛者と来たものよ。
イザーンに名だたる名門とは言わないけれど、何と言ってもダルガリは武家の家柄、尚武の気性には優れているけれど、家の中のなってないことと言ったら。
一応は荘園をいくつも持つ領袖だというのに、着ているものは擦り切れたり穴が開いていても平気、なまじ上等の衣服だけにその惨めなこと。
食事もすさまじい有様。ただ食べられるだけの大量の食事を埃だらけの長い食卓に並べる端から男どもが平らげていくの。物凄い光景だったわ。
仕方なく私は片端からそれを片付ける手伝いをしたわ。
それでも婚礼の席だったのよ。
大声で野次る一族の男たちの声を背にして、新床に導かれて二人きりになったときは、疲れ切ってめまいがした。
でもその日はそれだけでは済まなかったの。
「あなたには言い交わした人がいたのですか」
その言葉を聞いたとき、私は頭に血が昇って、震えながら伸ばした手が届くものなら何でもシャナンに投げつけてやろうとしたわ。
その親切ごかした言い方にも、婚礼の床でそれを口にする無神経さにも、そもそもの想像力のなさにも、怒りがこみあげて何もできなかった。
ひどくこの人を傷つけてやりたかった。自分が何をしたのか思い知らせてやりたかった。
「もし、もしそうだと言ったら、あなたは私をここに連れてこなかったとでも?」
そう言った時にはさすがに傷ついたような顔をしたわ。シャナンもそのときはようやく二十歳かそこら、私も情を知らぬ残酷な年頃だったから、しばらくは顔さえ合わせれば年若い夫を傷つけようとしたものよ。
ダルガリの家は埃っぽくて、いつでも誰かがどこかしか修繕したり、掃除したり、壊したりしていたし、いつも汗臭い人で一杯で、それも一族ばかりではなくて雑多な人間がしょっちゅう出入りしていたから、ひどく物騒な気がして、心が休まるときはなかったものよ。
それでも不思議なものね。ダルガリには谷にはなかった勢いのようなものがあったわ。荒々しくて、粗野な、それでも力強い何かが。
農地は手入れが行き届いていなかったけれど、地味は豊かで、あちこちで開墾が盛んだった。
私は最初ダルガリの雰囲気をひどく嫌って、シャナンにも、話し声も笑い声も獣のように大きい、シャナンの兄弟たちにも、心を開こうとはしなかった。
心安くすることは、自分の負けを認めることだと信じていたのね。
「子供ができたわ」
私がそう言うと、シャナンはとても嬉しそうだった。思っていたよりもずっと嬉しそうだった。
シャナンは私をじっと見つめて、言葉を選びながらゆっくり言ったわ。
「ミルアレーン、お前の子供を王にしよう。お前の隠している名を旗印にしたい」
シャナンは知っていたのよ。
「私の名はアーゲルよ。大昔の女王の名で私を呼ぶのはやめて」
「俺には隠さなくていい」
シャナンは穏やかに言った。
「かつて地上に王道楽土を築いたイザーン帝国の末裔、イシュナの王、アーディスの名を知らぬものはない。いまでも多くが戦わずしてアーディスの軍門に下るだろう。
いくつもの命が失われずに済むはずだ。俺は終わりなき戦いを終わらせ、帝国の平穏を取り戻したい。そのためにはお前の助けが必要だ」
「なぜ、知っているの」
私のたずねる言葉は、ひどくかすれて声にはならなかった。
「お前の兄上を助け、看取ったのは俺だ」
「エリダールの野で、ルカシュと俺は轡を並べて奴らと戦った」
シャナンの口から、私さえ知らなかった兄のアーディスの名が誇らしげに響き、私は怒りで目もくらむ思いだった。
戦場で瀕死の兄を介抱して、人のよい兄からその秘密を聞きだすと、シャナンはそのまま兄を打ち捨てて帰ったに違いない。あるいは他の誰にもそれが漏れぬようにとどめすら刺してきたのかも知れないとそのとき私は思ったわ。
「そして、今の俺の言葉は、俺だけの思いではない。虚しい戦いの中に倒れたお前の兄上の抱いていた夢だ」
兄の無念を思い、それだけでなくてひどく悔しい思いをして、私は耐えていた。
シャナンが私のアーディスの名が欲しかっただけだと知って、裏切られたように思い、そしてそう思う自分が悲しかったの。それほどたたずに子供が生まれたわ。
最初の子が兄の名を取ってルカシュ、次の子が父の名を取ってエルディス、その下の女の子が生まれて二か月で死んだイリア。
みな古いアーディスの王族の名からとってシャナンがつけたのよ。
シャナンは見かけよりは律儀な人で、私との約束を守り、外には女を作らなかった。少なくとも私には知られないように振る舞った。
ダルガリはまさに日の昇る勢い、イザナの正当な当主、アーディスの名を旗印に、とどまるところを知らなかった。
それでも私はいつかダルガリから解放され、谷に帰る日のことを夢見ていた。
シャナンが自分の兄を殺した話はもうしたかしら。
私に横恋慕したという理由で、シャナンはダルガリの後継ぎだった長兄を殺したの。鮮やかな手際だった。恐ろしい男だと、そのとき初めて気がついたの。
それまでは、妙に押しが強いけれど、それほど頭の切れる人物だとは思っていなかった。
私は恐ろしい男に武器を与えてしまったのだろうかと後悔したわ。私を利用できないように命を絶てばよかったのかも知れない。でもそのときには子供がいて、それも叶わなかったでしょうね。
弟のレージュが僧院から訊ねてきたのは、そのころだった。
僧服のレージュは二人きりになるが否や、ひどく私をなじったわ。何年も会わずにいた、今や二人きりのきょうだいだというのに。
「なぜ、夫に名を明かしたのか」
「なぜ、アーディスを名乗ることをダルガリに許したのか」
私に何が言えて。名を明かしたわけでも許したわけでもない。
シャナンや弟たちはともかく、息子たちは間違いなくアーディスだわ。
弟は怒りから力を得るようで、私の知らない気短な少年になっていた。
レージュは僧院以外の世界を知らなかったのよ。
ダルガリの反対勢力に祭り上げられたレージュが死んだのは、それから二年もたたないころだった。まだたった十九だったわ。
ダルガリ一族が殺したに等しかったけれど、それを知ったところで私に何ができたかしら。
シャナンはそれでも、直接ダルガリにつながるものに手を下させはしなかった。せめてもの思いやりだったのでしょう。
激しい戦いになった。私はダルガリの館からは一歩も動かず、必死に戦いなど存在しない振りをしていた。
ぼろぼろの梯子の上に力なく横たわって運び込まれてきたシャナンの姿を目にしたとき、私は気づいたの。
もう、谷には還れないと。
その瞬間まで、私は失われた恋、奪われた家族のことしか考えていなかった。
私は生きてここにいるのに、シャナンと、子供たちと、ダルガリ一族の世界に生きているのに、それを知らなかったのだと。
「ねえ、どうしていた? もし、そのとき、シャナンが助からなかったら……」
「ばかね、ルカシュ、何を言うの? シャナンが死んでいたらあなたは生まれていなかったのよ。シャナンはあなたのお祖父さまじゃないの」
再興なったアーディス王国は、それからわずかに二代を数えたのみ。
イザナの大地は再び絶え間ない戦いに満ちて、その栄華のすべては時のかなたへと過ぎ去ったが、今年もまた、谷の林檎は白く甘い香りを闇夜に漂わせているだろう。しかし、すべてはまた、別の物語である。
(終わり) この物語をローズマリ・サトクリフ著「ともしびをかかげて」に捧げます。
この物語は「アーディス年代記」の最終章です。