従者の物語
「この坊主は信用できるんだ。何と言ったって俺の実の息子なんだからな……」
ひそやかな宴席でその酔った声を聞いたとき、背中の毛が総毛立った。
その言葉の示すことが嫌だったわけではない。
何かこの平穏な生活を打ち崩す、とんでもないことが始まったという怖れがあったのだ。
若殿が残酷極まりない暴君であったというのなら、憎むこともたやすかったろう。
ところが実際のところ、若殿は気まぐれではあったが、父君から私の生まれ育った荘園とともに引き継いだ下級書記官の義父を安い賃金とはいえ長く用いてくださったし、年季奴僕であった母にも特別辛く当たったりはしなかった。
母の年季は二十年で、決して短いほうではなかったが、たとえ年季内に働き口を失ったとしても、その気があったかどうかはともかく、義父と母が一家を細々とでも養うのは不可能ではなかったはずだ。
どの道、義父は私が七つの時に、若殿の長兄ハルト公と次兄ドルシュ殿の争いに巻き込まれ、若殿をかばって殺された。
ただのつまらぬ貧乏学者だったのに、イザナの覇権争いの刃に倒れたのだ。
イシュナの三公家の雄、武門の誉れ高いアーディス家を舞台にした激しい権力争いは、当主ハルト・エルネス公の息子アーナ・アークのお披露目の席に最高潮に達した。
泣いているように見えた。
十三歳にしてはきゃしゃな印象を与える顎。
イザナの魔除けのしきたり通り、長く伸ばした後ろ髪は色鮮やかな飾り紐をあちこちにのぞかせる弾力のある三つ編みとなって肉付きの悪い肩に落ちている。
自分より三つも年下のこの少年が、若殿の夢を砕いて公家を手に入れるのだ。
それはひどく不公平に思えた。
だが気にはすまい。
せめて若殿の道具として利用され、その都合で消されないようにせいぜい利用価値を保たねばならない。
何とか生き延びたかったが、それは自分の仕事、するべきこととは思えなかった。
計画における私の役割を明かされたあとも、とても現実とは考えられなかった。
逃げ出すことを考えなかったわけではない。
わずかながらも勝算はあったのだ。
祝いの宴に同席している若殿は息を殺して、懸命に私を見ないようにしていた。
だから私は、ためらわず毒の杯を高く戴き、差し出した。
公子の目、薄青く光る双眸に射抜かれたとき、背に冷や汗が流れた。
気づいた。
この子は知っているのだ。
私が今震える手に何を運び、誰に渡そうとしているのか。
それが誰の命によるもので、何を目的にしているのか。そして、そのすべてをこの哀れな奴僕が知っているということを。
右の頬は息を潜めた若殿の気配に張り詰めていた。
もう一度、わずかな抵抗を試みた。
目を伏せることもできないまま、かえって怪しまれると警告を発するものすべてに逆らいながら、まばたきをしようとした。
あれは何の魔力だったのだろう。
気づくと私は立ちすくんだまま燃えるような火酒を飲み干していた。
世界は大きく揺らぐと、音もなく消え去った。
「クルダ殿は決起を前にしてお前を解放した」
儀式で成人の証しとして耳の下のところで切りそろえた髪の先が、大きく揺れた。幼い公子が大人びた身振りで投げてよこしたのは、私の名の記された解放証書だった。
「父上が許してやるようにとおっしゃったのだ」
私が自ら毒を選んだことはイザナの諸公の喜ぶ格好の話題になった。
「甘いな」
若殿は何とかあの席は逃げ延びたものの、立てこもった小さな小屋に火を放たれて死んだ。
「私だったら必ず息の根を断つ」
落ち着いた声だったが、妙な昂揚が感じ取れた。
結果が同じでも?
「自分の身だから申し上げるのではないが、無駄に命をお取りになれば、遅かれ早かれ、ご自身の身に返りますよ」
床を離れたといっても、焼かれた咽喉はまだ治らない。言葉を発するのは辛かった。
我ながら怖れ知らずな言い様だった。だが不思議に怖くなかったのだ。
「口の減らない男だな」
公子は笑った。
「それで命乞いしているつもりか?」
苦笑いのようなものが、年の割にはひどく大人びた表情に混じった。
「私はまだ命を賭けるほどのものを人生に見出していないので分かりません」
「学者の子らしいな」
「命など惜しくないつもりでしたが……」
「死を間近にすると考えが変わるか?」
「そうかとも思いました」
私が死ななかった理由をさがしてみるのも悪くないだろう。
毒は私の命をとらなかったが、かわりに左目を奪ったのだ。
そのころルカシュ様の一番古株の侍従が膝の痛みをひどくして身を引きたがっていた。
それがきっかけだった。
こうして無駄口を叩くことも少ないからこそ、今もまだ、お側近く置いて下さる。
「私はきちんと振る舞っているか。大家の主、イシュナの王、イザーンの皇帝にふさわしいか」
あの言葉をいただいたあの日から三十年お仕えしたが、ルカシュ様がそんな弱音を漏らすのも私にだけだった。
「お前の失われた目にかえて」
忠誠を、と請われた。
それだけは生涯の誇りとしたい。
(終わり)