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アーディス年代記第1部

銀の時代

 

第一章 カシャイアの祭り

 

1   

 

 

 古い石の暖炉で燃える薪のはじける音は、もうよほど耳を澄まさなければ聞こえることはない。燃えさしの突然崩れる音も、しんと静かな長い冬の夜のように、大きく響いて人を驚かせることはなくなった。

 まだ窓を開け放ったままでこそいられないが、凍てつくような寒さは去りつつある。

 城をすっぽり覆っていた雪は日に日に溶け始め、純白の湖岸も雪解けにぬかるんで灰色に変わった。

 マルディラは縫物をしていた手を休め、内庭に向いている大きな窓を見上げた。いくつもの小さなガラスは、暖かな日差しを通し、窓の前の床に光を落としていた。

 とは言っても、何枚も組み合わせて作ってある窓のガラスは、どんなに高価なものであるにせよ、それを通して部屋の中央から外の景色が見えるほどには透明ではない。

 それでも、その窓を開ければ見えるものを思い浮かべることなど、マルディラには簡単なことだった。

 何といってもマルディラは、生まれてからこの方、十八年もの間、ずっとこの部屋で寝起きしてきたのだから。

 窓の正面は、城の東の城壁と、東正面の城門塔。

 手前には、城の古い時代の低い内壁と、石葺の兵舎と厩の棟々が立ち並ぶ。

 城壁の向こうには、灰色のアナ・ルーアの町と、寂しい色の畑と放牧地、遠くそびえるシシマ山脈のなだらかな斜面まで続く深い森がある。

 長い冬の間、まぶしいほどの雪の色は、森の中に、この城と町を閉じ込めていたのだ。

 間近になった春の訪れに、マルディラは部屋の中に閉じ籠ってはいられない気分になっていた。暖炉の薪の音が聞こえなくなったのも、冬の間ひっそりと眠っていた城が目を覚まして、人々が賑やかな物音を立て始めたために、それにすっかりかき消されてしまったせいだろう。

 そしてまた、長い冬の過ぎ去った後には、人々の心を暖めてくれる暖かい春が、時にとんでもないばか騒ぎをもたらしたりもするのだった。

 春祭まで、もう数えるほどである。

 マルディラは繕い物を脇に押しやり、揺り椅子から立ち上がった。この椅子は、この部屋がまだマルディラ一人のものだったころにはなかった家具である。マルディラも以前は、窓際の壁の段や、大煙突の煙道の脇の小さな居心地のよい窪みに、身を預けることの方を好んだ。

 もともとマルディラの部屋は、華美なところのない、それでも年頃の娘の部屋らしいところのある、すっきりしたものだったが、いとこであるマードスとの夫婦の寝室となった今でも、部屋の趣は変わっておらず、以前マルディラの両親が使っていた寝台、小さな書き物机と古ぼけた衣装箱のほかには、これといったものはなかった。

 マルディラは椅子の背にかけてあった毛織の肩かけを取って部屋を出た。

 

 急な階段の最後の段を軽く弾みをつけて登り、低い戸口を身を屈めてくぐると、金色の暖かな日差しがマルディラの身体をすっぽりと包み込んだ。

 内庭のどこかで、子供の明るい歓声と、犬の吠えるのが聞こえる。マルディラは手すりに寄りかかり、急勾配の石葺きの屋根を背にして、居館の壁の通路から内庭を見下ろした。

 いつも日陰になっている内庭のあちこちの隅には、まだ雪が残っている。ここ二、三日、暖かい日が続いたせいで、内庭もぬかるみからしっとりした黒土の色を取り戻していた。

 右手の方、居館の屋根裏の大きな機織り部屋から、何台もの織機の立てる規則的な音が聞こえてくる。

 城機衆と呼ばれる、冬の間だけ城に出仕して糸を紡いだり機織りをする女たちが、城に顔を出さなくなる日も近い。

 今朝、久しぶりに気分のよかったマルディラは、ここしばらく足の向かなかった埃だらけの機織り部屋を訪れ、冬の早いうちに糸を掛けたまま手を触れていない自分の織機の前に座ってみた。

 しかし仕事の勘を取り戻すより遥かに前、人差し指の長さ程も織らないうちに、誰が告げ口したものか、女中頭のカマリアが飛んできたのだった。

「マルディラ様、足踏みをそういう具合になさることはお体によろしくないと申し上げたじゃございませんか」

 マルディラはすっかり機嫌を損ねて口答えした。

「貯蔵庫で手伝おうとすると、重いものは持っちゃだめだって言われたし、乗馬もだめ、火事見物も墓参りもだめ、高いところに登るのもいけないって言うのに、機織りもだめだって言うの?」

「そうです」

 カマリアの返事はあっさりしている。

「それじゃあ、いったい何をするならいいのよ!」

 ですから、奥方様らしくしとやかになさっていてください、などと、白髪の筋が混じった髪をきっちりと結い上げたカマリアは真面目に言うのだった。

「冗談じゃないわ!」

 どうも迫力に欠ける捨てぜりふを吐いて、足早にマルディラは部屋を出る。他にも大勢の女たちがいるというのに、マルディラの背に向かってカマリアは重ねていったのだった。

「走るのもいけませんよ、マルディラ様!」

 一応は目下にあたるものを人前でなじったり、子供のように駄々をこねたのいくら何でも悪かったと、しぶしぶながら反省したマルディラは、言われたように部屋で針仕事などをしてみたが、いつまでもじっとしてはいられなかった。

(ちょっと前までは、私のことなんててんで子供扱いしていたのに、結婚した途端に、若奥様、若奥様ってうるさいこと)

 マルディラはやれやれ、と言った感じでため息をついた。

(春が来たのだから……)

 部屋でくすぶっていては良くないに決まっている。

 マルディラは目を閉じて大きく息を吸い込み、頬を暖める日差しと、ひんやりした空気の冷たさを交互に感じていた。

 目を閉じていると、音や匂いに敏感になる。

 昼食の用意をしている調理場から漂ってくる匂い。

 鍛冶馬で農具の打ち直しをしている音。

 馬場へ引き出される馬のいななき。地面を蹴る柔らかい音。

 かいばの匂いや、家畜の匂い。

 そして、湿った土の匂い。

 時折聞こえてくる、内庭のどこかを駆け回る子供たちの声と一緒に、何かのざわめきがマルディラの耳に入った。

(何だろう……)

 人の話している声だ。怒鳴り声すら混じっている。

 マルディラは目をあけて手すりの上に身を乗り出し、内庭の人影を目で追った。

(あれは……)

 内庭のはずれ、古ぼけた西の城門の脇で、大きな身振りで声高に話しているのは家令のリカインらしい。

(ああ、そうだ……)

 制止するために広げたリカインの両手の間をかいくぐるようにして、きょろきょろと城の中を窺っているみすぼらしい身なりの男には見覚えがあった。

 マルディラのいるところからは、人々が騒ぎの起こっているところへ方々から集まりだすのがよく見える。

(間違いない。あれはオルダだ)

 マルディラは素早く身を翻して、最近少し目立ち始めてきたような気がするおなかを気にしながら、居館の階段を駆け降りた。

 ああ、またカマリアに叱られる、と思いながら、マルディラは以前にもこうやって、城門の人影を上から見て、この階段を駆け降りたことがあったのを思いだしていた。

 あの秋の雨の日に。

 

 

 マルディラが足早に西の門の前に歩み入ると、すでに人垣ができるくらいに集まっていた人々がマルディラに道をあけた。

 オルダは酔っているらしく、顔は赤く、なまりがあって途切れ途切れの言葉は、ともすれば聞き取れなかった。

「いいから、今日はだめだ。おとなしく帰りな。邪魔になるだろう」

 人垣の中央にいるリカインは、マルディラを見ていくらかほっとした様子で、やれやれという感じにため息をついた。

「親父が息子にね、会いに来たさぁ……何が悪いとよ」

「だから、今日でなしに。またあとでな、じいさん」

「……わしも先が短いのしゃぁ、わかりおろうな」

 駄々をこねるように言うオルダは、マルディラに気づくと泣きそうな声で訴えた。

「あんたぁ……姫しゃん。なぁ、ナシャイに会わしてくだしゃいなぁ……えなぁ、息子取られて文句も言えぬ、わしにゃぁ他に子はないしぃ」

(ナシャイ……)

 マルディラは、しばらく見ぬ間に随分と年老いた様子のオルダが、その名を口にするのを聞いて、ひどく胸が痛んだ。

「リカイン、誰かに練兵場まで副騎士長を呼びにやりなさい」

 マルディラは、額の刺青鮮やかなオルダのしわだらけの顔をじっと見つめながら、静かに言った。

「し、しかし、若奥様……」

 リカインは慌てて言った。

「いいから、早く!」

 マルディラはいくらか語気を強めていった。

「は、はい」

 リカインは近くにいた近習の一人に早口にささやき、練兵場の方へ走らせた。

「ほ、本当によろしいのでしょうか、マルディラ様。伯爵様がお怒りになるのではございませんか」

 リカインは陽気のせいだけとは思えないほど、汗をかいていた。 

「以前、ひどくお叱りを受けましたので……」

「今更、父上だってなにもおっしゃるわけがないじゃないの」

 お嬢様のわがままになら、お前が責任を追わなくてはならなかったかも知れないが、若奥様と呼ばれるようになった今は、私がちゃんと責任を持ちます、とマルディラは言いたかったが、ぐっと我慢した。

 オルダは二人が交わす言葉を聞き、嬉しそうにマルディラを見て頭を下げた。

「オルダ、お酒は控えなさい。自分の年を考えなくてはね」

 普段は滅多に寄りつかない城を、どうやら酒の勢いを借りて訪れたらしい年老いたアガテの老人に、習い覚えたアガテの言葉でマルディラは言った。

「酒だけが楽しみでしゃぁ」

 オルダは笑みを浮かべたまま、明るく言う。

「なにもわざわざ大切な命を縮めることはないでしょう。カレスの誇り高い狩人は、そんな愚かなことはしないものよ」

 マルディラはわざとオルダのアガテとしての自尊心を刺激するような言い方をしてみたが、白髪の老狩人は、力なく首を振っただけだった。

 オルダのそんな様子を見て、マルディラはそっとため息をついた。

「さあ、もうこんなところに集まっていなくていいのよ。お散り」

 ここら辺では珍しいアガテの男をおもしろそうに見守っている城の人々に、マルディラは心なしか投げやりに声をかけた。

 母が死んでからというものは、マルディラも城の奥方が普通するような仕事は、まわりに助けられながらも一通りはこなしていた。しかし以前は城のものも、マルディラが結婚してからのようには指図に従ってくれはしなかったものだ。

 とは言うものの、すっかり好奇心を刺激されてしまったらしい城の人々は、マルディラの言葉にも、追い散らそうとするリカインの一党の不機嫌な声音にもかかわらず、いっかな門の前から去ろうとはしなかった。

 この中には、オルダが城を訪れた事情すら知らない者もかなりいるだろう。情報通として通っている侍女のまわりではひそひそと噂話がささやかれていた。

「マードス隊長だ……」

 ささやきが人垣の間で起こったのとほとんど同時に、栗毛を厩の前で乗り捨てたマードスが、帝国時代からの伝統である、鮮やかな緋の羽根飾りの指揮官の兜を脱いで抱えながら、内庭を横切ってやってきた。軽装の鎧が明るい音を立てる。

「タサァ!」

 アガテの言葉で「父」を意味するマードスの慌てた言葉の咎めるような響きを聞いたとき、マルディラの身体に一瞬震えが走った。

 兜を取ったマードスの汗で額に貼り付いた前髪の間から、普段はほとんど気づくこともない額の小さな刺青の星とそれを囲む鹿の角、そしてその刺青を伯爵が消そうとしたときの細長い傷が見えた。

 燃えるように赤いマントの裏打ちも鮮やかに、長身のマードスはすらりと父親の前に立った。その口から古いアガテの言葉が堰を切ったように流れ出したとき、アナテイアの若き副騎士長であるマルディラの夫は、見知らぬアガテの狩人に変わっていた。

 

「ナシャイ、ナシャイ……」

 オルダは酔って赤い顔を更に赤くし、はっきりと浮き出た額の刺青のマードスのものとの相似がはっきりと窺えた。額の刺青は成長するに従って少しずつ加えられるのか、オルダの額のものの方が大きくて込み入っている。

 マードスは困惑気味に、子供のように駄々をこねる父親をたしなめているようだった。わずかにまわりの人々に気兼ねするような身振りさえする。

(無理もない……)

 マルディラはぼんやりとそう思う。

 伯爵は、アガテの民である義弟が城を訪れるのを嫌っている。マードスの少年時代は、オルダが息子に会いに来ることさえも、年に何回だけと制限していたのである。

 シャルカラ〈豚追い〉と呼ばれるアガテの部族の人々は、町の普通の人々との接触も多く、一番ヴァリアナの人に馴染みがあるので、マルディラに限らず、その言葉を耳に親しいと感じる人は多い。

 しかしマードスとオルダの話しているのは、そのシャルカラの言葉とは違う。アガテの民は全てシャルカラの言葉を話すが、マードスとオルダはハドウシャ〈狩人〉と呼ばれる誇り高い部族の、カレスという氏族の出身で、彼ら独自の古い言葉で話す。

 ハドウシャはシャルカラの上位に立つ部族で、ハドウシャはシャルカラの言葉も使うが、逆にシャルカラがハドウシャの言葉を話すことは許されていないのだという。

 マルディラはそれを夫から聞いたのではなかった。

 ハドウシャの人々は、町の人間どころか、アガテの民と同じように森で暮らすヴァリアナの樵の前にすら、滅多にその姿を現すことはない。ほとんど知られていないその姿や、恐れを知らぬ狩人であるという伝説から、ハドウシャの狩人は、アガテの民、実際には彼らの知るシャルカラのことを、半ば当然のように蔑視している町の人々にさえ、恐れ敬われていた。

 シャルカラ〈豚追い〉という呼び名は、シャルカラの言葉ではなく、ハドウシャの人々が、森で豚などの家畜を飼うその部族の人々を軽蔑して呼ぶ、彼らにとっては不名誉な通り名だった。

 カレスの狩人と、アーフェン伯爵の姉の息子の口にする、ほとんど理解することもできないハドウシャの不思議な響きの言葉を聞きながら、マルディラはよろめくように人を押し退けながら、居館の入り口へ歩いていった。

 なぜか、涙があとからあとから溢れだしてきて、止めることができなかった。

 カシャイアの春祭りが、間近に迫っていた。

 

 (2へ続く)


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