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アーディス年代記第1部

銀の時代

 

 

 

 

 

 

 ある暑い夏至祭の日、一人の少年が南の都で短い命を終えた。

 彼の時間はそこで永遠に終わったが、残されたもののそれは、長く、終わりを知らぬかに見えた。


序章  湖

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   序章

 

 北の空は不思議に青かった。

 それは透き通った水晶の大きな塊が、暖かい陽の光にかざされたときの、妙に鮮やかな光線の色にも似ていた。

 

 北涯辺領、湖の地〈ヴァリアナ〉。

 すぐ北に北涯天山の灰色の山脈を控えるこの辺境の地には、すでに短い夏の姿はどこにも見い出せず、季節はあっという間に長い冬のただ中へと駈け入ろうとしていた。

 北国の、それも秋の天気というものは驚くほど変わりやすい。

 しかし今日のこの空は、恐ろしいほどに青く澄んでおり、重く灰色の雲の垂れ込める、憂鬱な冬の天気にはまだ縁がない。 

 風もまだ、北の空を大きくさえぎるように高くそびえる北涯天山から、冬の間絶え間なく吹き降ろす、冷たい北風ではない。

 色鮮やかな赤や黄のが落ち始めているまわりの木々の枝を、さやさやと静かに鳴らしているのは、優しい穏やかな風であり、木立には、そう遠くない小鳥のさえずりが響いている。

 曇りがちなはずの北国の空の、その不思議な青さは、深い森の中を曲がりくねって走る小道からも、木々の枝の間からはっきりと見て取れた。

 そして、その小道を行く少年が一人。

「やはり道を間違えたかな、銀星……」

 少年は、手綱を引く栗毛につぶやく。

 額に美しい流星のある馬は、主人の進む速さに合わせたまま、その優雅な足並みを乱さずに、瞳を若い主人に向けた。

「何だか、どんどん道が細くなっていくみたいだ」

 鬱蒼と繁った森の中へと続いている道の先へ、少年の青い瞳がいくらか不安に向けられる。

 風と一緒に下生えをかさかさ鳴らして、ほうきのような尻尾のりすが、森の奥へと消えて行くのを少年の視線が素早く追いかけた。

 少年が身につけている、しっかりした仕立ての、紺の厚地の旅行用のマントや、柔らかい鹿皮の長靴は、彼がこれまでたどってきた道のりの長さを表わしてか、ひどく埃にまみれている。

 その足元は、落ち葉が重なって絡み合う木の根を覆い、毛足の長いじゅうたんのように柔らかかった。

 やはり北街道の本道を素直にたどったほうがよかったのか、とも、少年は考える。

「まあ、いいか。別に先を急ぐ旅ではないし。なあ、どう思う、銀星……」

 少年は、旅の間にすっかり癖になってしまった仕草で独り言を言うように愛馬に笑いかけ、そしてふっと視線を前に向ける。

「ああっ!」

 思わず、彼は握っていた手綱を離し、小道の真ん中で立ちすくんだ。

 少し前から、右手の木立がだんだんとまばらになり始めてはいた。その向こうに、きらきらと白く輝く水面が見える。

「湖だ……」

 少年はつぶやく。

「ルーア湖だろうか……」

 彼は輝く湖水に向かって走り出したが、すぐにはっとしたように立ち止まった。

「違うな……ルーア湖じゃない。ルーア湖ならもっと大きいはずだ」

 ルーア湖は、大小何百とも言う湖が点在するヴァリアナでも、一、二という大きな湖であると聞いている。今見えている水面は、どう見てもそんなたいそうな代物ではなかった。 

 それが、あたかも、大きな湖から区切られた、湖の水面の小さな部分で、水辺から低く張り出している木々の向こうに広い水面が広がっているのが隠れているかのように見えていたのであった。

 しかしそれは実際には、深い森の中に埋もれるようにたたずんでいる小さな湖に過ぎなかった。おそらく名もない湖なのだろう。湖の岸に出た小道は、しばらくその岸に沿った後、再び暗い森の中へと続いていた。

 少年は、葦に覆われていない水面が開いている前の、下草の少ない土手に立ち、深い森にまわりを囲まれた美しい湖の全景を見渡した。

「森の女神の手鏡っていうところだな」

 湖をすっぽりと取り巻く、水々しく濃い緑が目にこころよかった。対岸の森の遥か向こうには、頂を白い万年雪に覆われた北涯天山、そしてその最高峰である神山サノーンの荘厳な姿が望める。

「そうすると、向こうが北か……方角は間違ってないみたいだな」

 湖の奥の、左手の岸から少し上がったところには、崩れかかった漁師小屋らしいものの残骸が、網干棚と一緒に、生い茂る蔦と下草にすっかり覆われて立っている。その岸近くの水面の、葦の中に突き出ているのは、小さな釣船のなれの果てであるらしかった。

 湖の落ち着いた景色を眺めている彼の背後で、銀星が岸辺の柔らかい草を食む音がしていた。

 かすかに小鳥の声。

 暖かい日差しと、かすかな風。

 そして、ふと、何かの気配がした。

 とっさに少年は岸辺から跳びすさり、背後に向き直った。

 岸から少しはなれた浅瀬の中に、水飛沫を上げながら降り立つ。それとほとんど同時に腰の剣を抜き放つ。

「誰だ!」

 鳥のさえずりはやんでいた。

 警戒、そしてかすかな怯え。

 そして、少年は、剣を構えたまま、水の中に立ちすくむ。

 彼は、黒く美しい、二つの大きな瞳に見入られていたのだ。

(森の奥には魔物がおりますでよ……)

 昨日道を訊ねた、森番の老人の言葉が、なぜか彼の頭の中で反響していた。

 かげり一つなく、澄みきった瞳。

(くれぐれも気をつけなせえまし……ここらの森には……)

 しかし、彼の目の前にいるのは人々に恐れられている魔物などであるはずがなかった。そこにいるのは銀星のたてがみに手を触れて立つ、一人の黒髪の少女だった。

 銀星は、突然大声を上げた主人をいぶかしむように見ている。

 少年は、金縛りにあったように、どうしてか動くことができず、粗末な服をまとった裸足の少女をただ見つめていた。

 再び小鳥の声が湖に戻り、その途端に妖しい美しい魔力は消え去った。

 少年ははっと我に返り、慌てて抜き身の剣を鞘に収める。

「……君は……誰?」

 不思議な旋律が、少年の心に響いた。

 少女はかすかに首をかしげるようにして、彼を見つめる。

「……あ、僕はルカシュ」

 少年はあまり得手ではない北の言葉、ノーア語で名を告げてみる。

 一瞬、この少女がヴァリアナの森に住まうというアガテの民ならば、はたしてノーア語が通じるのだろうかと案じた。アガテの使う言葉はまったく知らないが、ここら辺の人々の使う北の言葉ならわかるかもしれない。

「ルカシュ?」

 少女は微笑する。

「そう。君は?」

「……リネット」

「リネット?」

 少女は小さくうなづいた。

「いい名前だね」

 ルカシュは、自分がまだ水の中に立っていたことに気付き、浅瀬から上がろうと岸に向かって歩き出した。少女は少し怯えたように、こころなしかあとずさる。

 ルカシュが岸に上がると、背に長く垂らした乱れた巻毛が覆う飾り気のない顔だちのその少女は、こころもち銀星のあとに隠れるようにしながら、澄んだ瞳で彼を見つめている。

 十三、四歳といったところだろう。痩せた肢体に粗末な衣服を巻きつける腰の皮紐、そして白い掻き傷だらけの汚れた素足というのは、確かにみじめな格好には違いなかったが、南の虚飾と退廃の世界から、この北の果ての地を訪れたルカシュの目には、なぜかそれが新鮮に映った。

「リネット」

 ルカシュは少女に訊ねる。

「ルーア湖にはどういけばいいのかな」

 少女はまたかすかに首をかしげると、今度は小道の続く森の中をゆびさして見せ、ルカシュにはわからない言葉で早口に話し出した。それは、北方語特有の、重い言葉の響きとはだいぶ違った。

 ルカシュはとまどって、さえずるような少女の言葉をさえぎる。

「リネット、わからないよ」

 少女は再び首をかしげ、高く澄んだ細い声で言う。

 今度は間違いなくノーア語だった。

「あっちよ」

「その道?」

 少女はうなずく。

(道は南西、かな?)

 ルカシュは小道の行く先を窺うようにする。

「湖の道を行けばルーア湖に出るんだね」

 ルカシュはもう一度念を押そうとして振り返った。

「リネット?」

 少女の姿はなかった。

「リネット?」

 どこかでかすかに下草の触れ合うような音がして、ルカシュはあたりを見回した。湖の左岸の方に走り去っていく人影をちらっと見たような気がしたが、定かではなかった。

 いつの間に日がかげり出していたのか、湖のまわりは少し暗くなり始めていた。

 急に寂しげになってしまった風景のなかで、湖は、ひんやり湿った空気の森のなかに、ひっそりと息をひそめている。

 ルカシュはなぜか身動きすることができず、その場に立ちすくんだままで、少女が去って行ったのであろう方を見つめていた。

 静かに雨が降りはじめ、銀星がその柔らかい鼻を心配気にそっと寄せてくるまで。

 

(続く) 第2回

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