]「冬の花園」
十月九日
ある朝、目が覚めたら
自分が世界でただひとりの人間になっていた
ある絵本ではそんな時、顔を洗わなかったり
嫌いな食べ物を食べなかったり
学校に行かずに一人で遊んだりする男の子がいたけれど
わたしだったら、きっと
誰にも邪魔されないで
ぐっすりと眠り
夢の続きを見たいと思うだろう
夢にはきっと、それまでと変わらぬ日常が
それまでと変わらぬ 雑さの中で
ずっとずっと
営まれているのだろうと思う
もし、ぐっすり眠ったその後
誰かを探しに外へでても
人っ子ひとり見つからなかったら
その辺の車を一台失敬して
誰かいないか探しに行くだろう
他にすることがあるというのだろうか
誰もいないのに
日本人を日本で見つけられなかったら
船に乗って大陸に渡ろうか
それともそのまま日本を旅して回ろうか
何よりも怖いのは
誰もいないことではなく
自分しかいないことではなく
そうして探索の旅に出たあとに
みんなが一斉に戻って元の暮らしを始めること
盗難車に盗んだ食料や地図やらを載せ
見なりにも構わずに無免許運転しているのを
見られたら困るじゃない
ある朝、目覚めたら
わたし以外の人が存在しないというのは
ほんとうは
わたしがいなくなることとよく似ている
* *
わたしは大人じゃないし、当分そんなものになるつもりはない。
小さい頃は、具体的に言えば小学校の前半まで、早く大人になりたくて仕方がなかった。というより、自分はもうほとんど大人なんだと思っていた。
その時の気分は今でもあまり変わっていない。今より「おとな」になる自分なんて想像もつかない。
ただ、今ではあの頃のように大人になりたいとは思っていない。ただ、それだけのことだ。
わたしは高校二年生でいつもいらいらしていた。どうしようもない不満の大きな塊を捨て場もなく抱えていたのだ。
いや、過去のことのように語るのはやめよう。それは決して過ぎてしまったことでも、終わってしまったことでもない。今のわたしがその頃のわたしに勝っているわけでもなし。
担任の新川先生が週番の子を介してわたしを呼びだしたのは十月の終わりの寒い日で、わたしは冷たい空気を息を詰めて歩きたがる悪い癖のせいで片頭痛になっていた。
風の強い中庭を帆船のようにあおられながら横切って職員室のある建物に入ると、ねっとりと暖かい空気で息が詰まった。生徒のいる棟より古くて人気もないのにこちらの方がいつも暖かいのは不思議だ。勘繰りたくもなる。
職員室の斜め前、悪いことをして呼び出されたわけでもないのに人の目が気になる。
だだっ広い面接室に滑り込むと、中庭に面した窓に先生が座っていた。
「ああ」
新川先生は言葉が足りない感じににうなずいた。
新卒の小柄な国語教師、いつも小綺麗な格好で何でもこなします、というタイプ。理屈ではないがどうも気に入らない。
自分ではそんなつもりはないのだろうけれど、わたしは何でも知っているのよ、と体中で主張しているように見える。特にわたしのように何も世間について知らないことを引け目に感じている人間には。
高二の担任をもつ新卒の先生は珍しい。新米とは思えないほどずばずばものを言い、年齢の近い同性には点の辛い連中の中でもかなり評価が分かれているらしい。
新川は(面倒なので、こう呼ぶ)うちの学校の卒業生なので、勝手知ったるという感じが多少気に障るが、わたしも少なくとも、それほど敵意はもっていない。たまたま学級委員になってしまったわたしのことを散々悩ましさえしなければ。
「あのね、森本さん、ちょっとお願いがあるの」
新川はわたしが前の椅子に座るのも待たず、そう切り出した。この「お願い」の言葉を聞いただけで、またわたしに無理難題を押しつけようとしているのがわかった。
高等部の入学式の手伝いに自発的に八人手伝いが欲しいだの、区の学校交流会に特定の生徒が参加するように仕向けて欲しいとか言うのならまだいい。もう一度やるのはいやだけど。
生徒同士の恋愛沙汰に頭を突っ込まされたときは……やめよう。その話は思い出したくもない。
「はあ……」
わたしの嫌そうな顔を見て、新川はどう思っただろう。この人にはいつも何でも見透かされているようでたまらない。
「あのね、神崎さんのことなんだけど」
わたしはのけぞった。
「先生、それやめましょうよ。わたしあの人苦手ですって」
さえぎるわたしの言葉を無視して新川は続けた。
「あの人、助けてあげてちょうだい。もうこれであなたにいろいろお願いするのは最後にするから」
拒否できない自分の情けなさのせいで、ちょっと胸が悪くなった。
「本当に?」
信じてもいないのに、そういう自分が嫌になる。
新川の言葉は半ば以上脅迫だ。
わたしは新川にひとつ借りがあるというか、弱みを握られている。
生徒を先生が脅迫していたら大問題だが、実際のところそれほど大げさなことではない。開き直ることができれば無視できなくもないのだろうが、わたしにはやっぱり世間体が大事なのだ。世間はこわいし、親もこわい。
なにってマンガ雑誌の原作の賞に応募したのを(もちろん落ちた)知られただけなんだけど。
今になってみれば新川にそんなしけた賞の下読みをやってる友達がいるなんて話もなんだか怪しげだ。
弱みだと思っているのだって、実はわたしだけなのかも知れない。
でも、自分が経済的にはもちろん、精神的にも自立できていないのを日頃いろいろと思い知らされているからこそ、今の境遇をぶち壊す気などなかった。
だから、うんというしかなかった。
神崎真紀子はひとつ年上。休学だか留年だかをしてうちの学年に落ちてきた。学校に顔を出すようになったのは二学期の九月も末になってからで、それからも週に一度か二度、姿を見るくらい、口など聞いたこともない。
うちのクラスにいても誰と言葉を交わすというわけでもなく、かといって元の学年の誰と親しいという話も聞かない。
新川にはせめて、神崎さんの事情というようなものについて聞いてみたかったけれど、新川が何も説明しないうちにわたしがそれを聞いてしまっては、本気でかかるように見えるだろうと思って我慢した。新川に多少の恩があるとはいえ、そこまで義理を通すつもりはない。とりあえず新川の顔が立つように、それなりに動いている振りだけでもしておこうと思ったのだ。
「とりあえず味方になってあげて」
新川はそう言った。
「でも敵なんかいるようには見えませんよ」
わたしはついつい口答えした。
新川はちょっとだけ短いため息をついた。
「森本さん、あなたみたいな人には実感としてわからないかも知れないけどね、味方が一人もいないっってことは、その人にはまわりが全部敵にしか見えないってことなの」
わたしみたいな人、という言葉がちょっと引っかかったけれど、何となく説得力があった。わたしの知らないことをそりゃ年の功とやらで知っているんだろうと思えたから。
「まあ、クラスで孤立してしまうのは仕方がないけれど、学校に来る意味が完全になくなってしまうのはまずいのよ。誰かが自分に関心を持っていると感じさせてあげて欲しいの」
新川はそれだけ言ってわたしを帰した。
「あ、瑠美。早かったね」
「待たせてごめん」
おまたせー、なんてぶったことは言わない仲だ。
智恵は誰もいない二階の教室で、一応持ち込みを禁止されているマンガを読みながら待っていた。
「新川、なんだって?」
「うん、大したことじゃなかった」
「ふうん」
智恵は抱えていたかばんを持ち直して立ち上がった。
「図書室に行く?」
そう聞くと智恵は嫌な顔をした。
「今、予備校連中が勉強してるもん」
「え、なんで?」
「何かさ、いかにも私たち勉強してますって感じじゃん。嫌なんだもん」
智恵は勉強ができるとお高く止まっている連中をひどく毛嫌いしている。はっきりそうと言ったことはないが、どうも馬鹿にされているように感じるらしいのだ。
あまり勉強しないわたしと付き合っているのもそういう裏の理由があるのかも知れない。
「それじゃ帰りがけにね」
わたしはばたばたと帰り支度をし、並んで廊下を歩きだした。まだ教室には文化系のクラブのいくつかが活動をして残っているようだった。
「まったくよくやるよね。文化祭終わったばかりだというのにさ」
それとなく相槌こそ打ったものの、ずっと演劇部で通してきたわたしにはあまり同意できる言葉ではない。この人はときどきこんなものの言い方をする。
智恵は万年帰宅部で、結構遊んでいるらしい。山の手のお嬢さんなので、交友関係も大分わたしのとは違う。
「新川ってうっとうしいよねえ。何か偉そうなこと言うしさ」
「うん」
前から三番目、窓から二列目。神崎さんの席。
「ねえ、神崎さん見たことある?」
智恵は隣の席だ。
「うん。世界史の時とか来てるね、ときどき」
選択の授業だから、教室は結構空いている。
「わたしあんまり知らないな。休み時間とか智恵のところとか来ても、席にいないじゃない」
「朝、いたことないな、そう言えば」
「全然目立たない人だよね」
何の気なしにそう言うと、智恵の反応が違った。
「ええ、そうかなあ。何かさ、こう、人の目を引く人じゃん」
わたしは懸命に、髪が長くて細身の神崎さんの姿を思い浮かべた。ぴんとこない。
「今日どうすんの」
「うーん、帰って寝る」
結局智恵には何も言わなかった。
次の日、気になって一本早い電車で学校に行った。
でもやはり、神崎さんの姿は教室になかった。
何となくほっとして、その日の放課後に先輩を頼ることにした。
「モリちゃん、引退したんだって?」
ちゃらんぽらんなところもあるけど、面倒見のいいことで有名な原田元部長は、わたしのおごりのあんみつを食べながらそう言った。
「そうですよ。冬の発表会、講堂の工事で中止になってしまったから、少し早いですけどね。もう面倒になっちゃって。引き継ぎはまだですけど、今年一年生多いからうまくやれると思いますよ」
部活についての説明は関係ないので省く。
「あのお、それで、ずばり単刀直入に聞きますけど、神崎さんてどんな人ですか」
大柄な原田先輩はわたしのことをひどくじろじろと眺め、スプーンを口に運ぶ手を休め、おもむろに口を開いた。
「モリちゃんて、人の詮索するタイプには見えないけどね」
原田先輩にしては用心深い言い方だった。
「ええ、詮索したくもありません」
頭に血が昇って思わず叫んだ。古くさいあんみつ屋には他に客もなく、眠そうな顔で大きな音のテレビに向かい合っていたおばさんがちらっと横目でこちらを見ただけだった。このおばさん、うちの学校の生徒の秘密をいろいろ知っているんだろうなあと思ったのは一瞬のこと。
すぐに気を鎮め、わたしは補足した。
「ちょっと、ごたごたと事情があって」
さすがに先生に頼まれてとは言えなかった。
生徒にもいろいろいて、しっかり考えを持っていそうな人が実は先生べったりだったり、ものすごい優等生がいきなり反抗し抜いたりする。わたしのポリシーは、体制との癒着は生徒側の感情が許容すべき次元の問題では決してない、なんてね。意味ないけど。
「あの、差し支えないくらいの、誰でも知っているようなことでいいんです。それでもって、本人やクラスメートにわたしがそういうことに関心があるってばれないように聞きたいんです」
わたしがそう言ううちにもみるみる不機嫌になっていく先輩の顔を見なくてはならなくて、ちょっと辛かった。
「あの、本当に詮索したりとか、そう言うことじゃなくて……」
わたしは必死に言葉を探した。
「その、事情があって、仲良く、というか、多少親しくならないとまずいんです。まあ、本当はなれなくたってそんなに困りはしないんですけど。それで、せめてその糸口になるようなこと、何か教えていただけないかと思って」
せっかく苦労して築いた先輩との信頼関係が、こんなつまらないことがきっかけに音を立てて崩れていくようで悲しかった。
先輩をイメージしてわたしが書いた引退公演のアンジョルラス、カッコよかったのに……
「ふうん……」
原田先輩はわたしのことをしばらくうかがうようにしてから言った。
「あの人ね、あまり小細工しても意味ないと思う」
「というと」
「つまりね、何か知っていたら役立つような付き合い方のできる人じゃないと思う」
「はあ」
わたしは真剣に聞いていた。
「もしだめなら、何をやったってだめよ。まわりにいる人間を人間だと思ってないようなところあるもの」
先輩は半ば吐き捨てるようにそれだけ言って、「ごちそうさま」と席を立った。
「予備校なんてうんざりだけど、来年行くよりはいいからね」
先輩は出口で肩越しにわたしを振り返っていった。
「三年になるとね、他人のことにあまり構いたくなくなるの。特に面倒なことはね。まあ、モリちゃんもやりたいことあるなら、今のうちにやっておいたら」
先輩はわたし以外の何かに、ひどく腹を立てているようで、すたすたと店を出ていった。
しまった。
一番親しかった人をつついてしまったみたい。これでは演劇部ルートはもう使えないだろう。
見送るわたしは立ち上がる気も起こらなかった。
十月三十日
例えて言うならばそれは、無限の繰り返しという日常の中にいる錯覚。
終わりの来ることを心のどこかで予感しながら、それに近づくために前に進んでいるはずなのに、果たしてその歩みは着実なのだろうか、進む方向は確かなのだろうかという、つきまとって離れることのない不安に脅かされている。
早くわたしをここから出して。
わたしの家は町の中心街に近い学校から電車とバスで四十分ちょっとのところにある丘の上の住宅地だ。国道のバス停から登る長い急な坂道は、時たま降る雪の時には通れないほど急だし、タクシーも通るのを嫌がるほど狭く、自転車では下れないほど見通しが悪い。
狭い土地に無理やり建てた家に祖父母と叔母一家、それにうちの一家四人の総勢九人が生活している。坂を下ったところのもともと祖父の家のあった土地には、小さなアパートを建てて、祖父母の老後の蓄えを少しずつ作っているらしい。
鉄筋四階建てのわが家は古い住宅地の中ではずいぶん目立つので、金持ちだと思っている人も多いらしいが、実際のところは働いている人が多いだけだ。
祖父母、叔母夫婦、両親、すべてが外で働いているわが家は、いつも戦場のようだった。
日が落ちた坂道をあえぎながら登り詰め、二階の玄関の戸を開けると、すぐ上に階段があって息が詰まるほど狭い三和土に弟の姿があった。
「なんだ、いたなら開けてくれればいいじゃない」
ここのところ調子の悪い鍵を苦労しながら開けたわたしはむっとして弟に言った。
「今降りて来たんだよ」
ぼそっとつぶやく弟は、わたしの顔を見もしないでスニーカーを履いていた。
「ちょっとどいてよね」
すれ違うほどの空間もないわが家の玄関では、譲り合いの精神こそが尊重されるべきなのに、弟にはそんなつもりはないようだった。
「克徳、塾?」
「見りゃわかんだろ」
行きたいわけないんだから無神経だ、とか何とかぼやきながらぶっきらぼうにわたしのからだを押しのけて出ていこうとした弟は、玄関の戸を開けたところで急に思いついたように振り返った。
「なあ、姉ちゃん、女ってさあ……」
「女って、なによ」
まじまじと見つめるわたしの表情に驚いたのか、克徳は怒ったように「何でもねえよ」と叫んで出ていった。
わたしは憂うつな気持ちが吹き飛んで、ひどく愉快になり、げらげら笑いだしてしまった。
おかげでその晩は誰ともけんかせずに済んだらしい。
「おはよう」
知らない間に、よく知りもしない神崎さんの姿を登校する生徒の人波に探している。
「リーダーやった?」
「あ、まずい、忘れた」
ばたばたと走り出す同級生がいる。
「瑠美、ほら」
毎度の睡眠不足にぼうっとしていたわたしの袖を智恵が引っ張った。
「ん、なに?」
「ほら、前。神崎さん」
急に目が覚めた。
「挨拶してくる」
「まじぃ? やめときなよ瑠美」
わたしは最近言うことを聞かなくなった重たいからだを引きずって、必死に坂を駆け上がった。
彼女のすぐ後ろにたどり着いたが、きっかけもつかめず、ただそれだけで彼女の姿勢のいい後ろ姿を眺めているだけだった。
「どうしたのよ」
下駄箱の前で追いついてきた智恵になじられる。
「ううん、だってさ……」
さっさと靴を替えて歩いていく神崎さんを目の端に見ながら、わたしは小声で言った。
「さっき気づいたんだけど、彼女、わたしのこと知らないんじゃないのかな」
智恵はあきれたように首を振って見せた。
「智恵、先に行って隣座っててよ」
智恵はもう返事もせず、起こったようにずかずか入っていった。
「おはよう」
十分タイミングをはかって言った。
彼女は早速広げていた文庫本から目を上げ、ちらとわたしの顔を見た。
「おはよう」
そっけない返事を聞いてぱっと頭にひらめいたのは、この人はわたしよりひとつ年上なんだということで、ちょっと焦った。
「神崎さん、何読んでるの」
「エセーの3巻」
どうしよう。こんなことを聞くんじゃなかった。
輝かしい岩波文庫の表紙を見て、わたしはたじろいだ。本は好きだが、こういう読み方はしないからだ。偏見かな。
「面白い?」
話題を変えたかったが、糸口がなかった。
「別に」
気配で背後の智恵が頭を抱えているのがわかった。
「ああ……」
次のセリフを懸命に考えているうちに、ぱたんと本を閉じた神崎さんは立ち上がって出ていってしまった。すぐに始業のベルが鳴った。
十一月三日
別にあの人に拒絶されているわけではないと思うのだ。確かに仲よくなったとは言い難いけれど。
雪だるま式に膨れ上がっていく宿題やら課題やらに追いまくられ、つい、彼女のことを自分への言い訳に使ってしまっている。情けない。
やはり、からだがきつい。一晩ぐっすり眠りたい。
「あれ、来てたんだ」
できるだけ明るく声をかける。授業に入ってきた神崎さんの姿を見てから考えた作戦だが。
何か用、とまでは言わないが、そうでも言いたげな感じだ。
「やっぱり、世界史のある日はだいたい来てるね」
神崎さんは相変わらず視線を交わそうとはせず、わずかに肩をすくめて見せるだけ。
他のクラスメートは私たちのことを遠巻きにしている。わたしに話しかけてくる人まで減った気がするが、やけになっているから気にしない。
「ねえ、今度うち来ない?」
思い切ってそう言うと、彼女はじろっとわたしをにらみつけ、いつもと同じように出ていった。
「あたしって馬鹿かなあ」
となりの智恵はもうすっかりわたしのことも無視している。
「すぐこうやって彼女を出しちゃうんだもの。絶対教室に帰ってこないよね」
「まあ、しっかり考えて行動してるとは思いづらいな。戦略思想ってものがないのかな、おたくには」
脇から口を挟んでくるのはクラスのトラブルメーカー高梨だ。変な友人が多い。こういう子がいるから 漫研(と言っても非公認だけど)の地位が上がらないんだろうに。
今どき「おたく」と来たもんだ。
「でも今日は帰らないんじゃない」
わたしは慌てて高梨を振り返った。
「なんで?」
いかにも当たり前という感じの早口で高梨は言った。
「今日部活の日でしょ。今でもずいぶんまめに出てるらしいじゃない」
「神崎さんクラブ入ってたの」
「知らない? 美術部の幽霊部員でしょ」
「全然知らなかった」
「だって美術の河内先生とよく、美術準備室でしゃべってるよ。デッサンとかも出てるし」
こういう情報屋の類いも活用するべきだったとは。
二日後。
「絵が好きなの?」
「別に」
この人のこの「別に」という口調がそれほど気にさわらなくなってきた。
「でもよく描くんでしょ」
「他にすることないから」
「どんな絵を描くの。今度見せてもらえない?」
やっと名乗るチャンスがあった。とは言え、名前で呼んでくれることはおろか、話しかけてくれたことさえない。
十一月八日
模試の結果でる。最悪。新川に呼びだされる。あと、英語と数学が補習。親にまで電話。また、あの夢を見た。
親と大喧嘩して、二日続けて学校をさぼった。別に珍しいことじゃないが、しばらくしていなかったので、加減がわからない。感情的にひどく不安定なので、自分でもうまくコントロールできないのだ。他人におせっかいするどころじゃない。
「神崎さんは」
絶え間なくずきずきする頭を抱えて高梨に聞くと、妙ににやにやしている。
「昨日、あんた来ないのかって聞いてたよ。よかったじゃん」
そのあとも何か言っていたようだったが、わたしは全然聞いていなかった。
教室を飛びだすとちょうどそこに神崎さんがいた。
「おはよう」
「今日、遊びに行ってもいい? 絵を見せて欲しいんだけど」
神崎さんはいやとは言わなかった。
正直言って、頭痛はするし、むかむかするし、うちに帰って寝たかった。
神崎さんの家は市内の洒落たマンションだった。
「近いじゃない。たった二十分で来ちゃった。神崎さん、ちゃんと学校来ないと駄目じゃん」
何となく緊張して軽口をたたいたが、彼女は取り合わなかった。
「お邪魔します」
小声で言うが、誰も出てこなかった。
「誰もいないわよ」
「お母さまは?」
「ときどきしかいないの」
「お仕事?」
「それもあるけど、一緒には住んでないの」
神崎さんは手早くお茶を入れてくれた。高そうな日本茶だった。
「何かイメージ違うね」
自分が先入観を持っていただけだと思うけれど、つい口にしてしまった。
「神崎さんて家庭的」
「お茶淹れたくらいで?」
笑っている。よかった、怒らなかったんだ。
「いつから絵描いているの?」
「いつからって……昔から。父親がね、絵を描く人だったから、自然にね」
「だった、って、亡くなったとか?」
「そうじゃなくて、両親別れたの。それで父親とはあまり」
仕草が大人っぽい。
「いいな。そういう……なんて言うのかな、自分を表現する手段ていうの、あるってのは……」
自分の憧れを言ったつもりだったけれど、これもうまくかみ合わないセリフだったようだ。
「描きたくて描くならね」
その厳しい口調に思わず彼女の顔を見た。
背が高くて細くて、艶のない黒くて長い髪が波打って背に流れている。顔色ははっきり言って悪い。肌が青白く、目の縁が赤い。
「描かなくて済むなら描きたくないよ」
少し目を伏せるように彼女は言った。
「ふうん」
生返事になった。
「例えばね、一日に一度も楽しいことがなかったら、自分が生きてるって実感できなくなったら、どうやって感じるの」
「何を?」
「だから、生きてるってことをよ」
どういうわけかそんな話になった。
仕向けたわけじゃない。内側から溢れだすように、彼女は言葉を紡いだ。
これといった共通の話題があるわけでもない。一週間分のノルマを溜めてしまっている数学の問題集のこととか、気になることはいろいろあったが、すぐに帰りたいとは思わなかった。
誰としても大して差のないような話をしなくて済むだけでもよかった。
母や弟との時の要にすぐに喧嘩にならないこともよかった。
結局、わたしは学校と家のほかに何も持っていないのだから。
閉じ込められているのだ。打ち破る力もないために。
「それでさ、見せてもらったんだ、絵」
自分でも興奮しているのがわかる。
「何かね、妙なの。わたしあんまり絵とかわかんないけどさ。すごく巧いとか、きれいとか、そういう絵じゃないの。色とかもね、だいたい渋くて落ち着いた色なんだけどね、ところどころにすごく鮮やかな色があってさ」
「ふんふん」
智恵のいらえは何か頬ばっているような相槌だったが気にならなかった。
広くはない居間に通じるマンションの扉を開けたとき、ぷうんと絵の具の匂いがした。
趣味のいいインテリアで飾られた部屋のようだったが、雑然と散らかっていたのでよくわからない。どう見てももったいない使い方をしたとか思えない紙を丸めた紙屑。使い切った絵の具のチューブの山。瓶が所狭しと並べられている小さいテーブル。筆のたくさん立ててある外国の缶詰めの空き缶。描きかけらしい絵が何枚も立て掛けてある段ボール箱。葉先が枯れた観葉植物の鉢。
神崎さん以外の人が生活している気配の感じられない空間だった。
「絵って普通の人があんなふうに描くもんだったんだね。感心しちゃった」
「変なふうに感心するのね」
智恵はちょっと怒っているような口調だった。
「そう? 神崎さんて面白いよ。言うことすること予測がつかないんだもん」
そんなこんなで、智恵相手に長電話することも少なくなった。母親に小言を言われる回数が減ったから確かだ。
「なんかもういやよ。言いたくないけどさ最近神崎さんの話ばっかりじゃない」
自分ではそんなつもりはなかったので驚いた。
「そうかな、ごめん」
「それよりさ、あんた前に言ってた変な夢、まだ見てるの」
「……うん、ときどき」
智恵の記憶力のよさにはよく驚かされる。もうかなり前に、話らしい話でもなく、ちょろっと口にしたことをこんなふうに覚えているのだ。
「この間もあんたの隣の町田がさ、仲間の連中に言ってたよ。森本さんて授業中に寝言言うんだもん、って」
「げ、まじ?」
正直に言って、これは冷汗モノだ。
「重症だね」
まだ夢の話は智恵にしかしたことがない。
わけのわからない夢。悪夢の一種。
夢が現実を写す鏡だというならともかく、願望充足だという考えには絶対賛成しないぞ。誰が好き好んであんな夢を見たいだろうか。
「うーん、何か不眠症になりそう」
茶化すように自分で口にした言葉に矛盾があるということはわかっていたが、心配してくれる人がいるのが嬉しかったのだ。
いつからこの夢を見始めたのかはっきりとは覚えていない。そんなに前のことだとも思えないのだが、忘れたころ、そうでなければ毎晩のように繰り返し、だいたい同じ夢を見る。
わたしはいつもたったひとり、誰もいない場所にたっている。黄砂を舞い上げる風の強い砂漠だったり、断崖絶壁の上だったり、廃ビルの屋上だったり、天井が高くてだだっ広い建物の中だったり、陽の光も差さない深い森だったり、巨大な氷山の上だったり、大きな川の岸辺だったり。
ただそれだけの夢なのだ。誰が出てくるでもなく、何が起こるわけでもない。ただ、そこにずっと耐えていなければならないのだ。
「そういえばさ、こないだあんたが休んだ日にさ、内部推薦の申し込みみたいなの? 希望とってたよ。瑠美どうするの」
「え、まずいな。智恵は」
「わたしは英文だよ」
確か通訳になりたいのだと言っていた。
「智恵は成績いいからばっちりだよね」
やっかみがまったく入っていなかったとは言えない。
事実、高校一年の秋の公演前からわたしの成績は急降下し、部活を引退した今も、回復の兆しすらない。
「短大かあ」
また考えなければいけないことが増えた。
電話を切ったあと、さりげなく親にその話を切り出すと、
「あんたね、いくら同じように勉強しないからって、智恵ちゃんとは頭の造りが違うのよ、しっかり勉強しないと駄目じゃない」
と、電話をすれば長電話だと相変わらずぴりぴりしている母親にぴしゃりと言われた。
その後一週間ほど、神崎さんは学校に顔を見せなかった。
最初は気にしていたけれど、すぐに忘れてしまった。進学のことでごたごたともめていたからだと思う。
わたしは何になりたいのか、どうしたいのかもわからないままなのだから。
「なんかさ、思うわけ。高校で女子校でさ。そのまま短大行ってさ、就職して、結婚して。何か決まっちゃってない?」
国道を走るバスの中。海に近いのにいくつも丘がある起伏の多い土地だから、切り通しのように両側が高くなっている道もある。子供の頃はこういうがけが怖かったっけ。
陽はほとんど落ちて、ぼんやりとした夕焼けが空に残っている。
「短大行くんでなかったらどうすんの?」
うんざりしたように智恵は言う。
「他の学校とか、専門学校でもいいし……」
わたしの言葉もはっきりしない。
どうしたいのかよくわからないので。
「商科大の彼、どうしたの?」
これでも話題をスマートに変えたつもり。
「最低」
自分から学園祭に行って引っかけておいて、すぐに飽きて捨てちゃうんだからしようもない。
もちろん智恵はそうは言わないが。
「またそれ?」
「やっぱりね、日常の重りがまとわり付いて足を引っ張るのよ。年上だからっ
てまともとは言えないね」
「なんで」
「大学生ってまともなことを考えていないよね。私たちの方が生きて行くのに
よっぽど真剣だわ」
「そうなの?」
気になって何となく辺りを見回す。大学生なんていはしないが。
智恵が降りてひとりになってから、近所の大学生のことを思い出していた。
歩いていけるところに二つ大学があるので、近所のアパートには大学生も多
い。ボランティアとして活動している人たちや、グラウンドで練習しているス
ポーツマンも、ふざけていちゃつくカップルもいるし、学生相手のしけた雀荘
をやっている家の子供とも仲が良かったりしたこともあるので、少しは大学生
って知っているように思うのだが。
大学生って本当は何を考えているんだろう。
わたしは大学生になりたいのだろうか。
その晩、夕食が終わって、いつものようにジャージャー水を出しっぱなしに
して洗いものをしていた。
「わたしだって勉強があるのに。たまには克徳にも手伝わせてよ。いっつもわ
たしばっかりで」
「瑠美!」
文句を言いっぱなしだったから小言を言われたのかと思ったが、そうではな
かった。
「なあに」
「電話。新川先生から」
「ええっ、なんだって?」
「知らないわよ」
母はひどく不機嫌だった」
「何だろ、まったく……もしもし」
受話器を受け取ってすぐぶっきらぼうに言った。
「森本さん?」
新川の声は電話越しに聞くせいでか、変に緊張していた。
「あのね、落ち着いて聞いてね。今さっき連絡があったんだけど」
新川は深呼吸した。
「神崎さんね、今日の午後、家で手首を切ったんですって」
「……本当ですか」
声が変なふうにかすれる。どうして。
「お母さまも特に思い当たる節はないっておっしゃったんだけれど」
その”お母さま”は何を知っているのだろう。
「……それで具合は?」
「発見が早くて、大事には。意識も戻って、今は眠っているわ」
「どこですか、病院」
「本町の市立病院なの」
「今から行きます」
がちゃんと受話器を置いた。
「お母さんお金ちょうだい」
叫びながら、タクシーを呼ぶためにもう一度受話器をつかんだ。
家の外でタクシーを待っていたら、暗い空から雨粒が落ち始めた。わたしはいらいらしながら時計を見た。九時少し前。
「姉ちゃん」
飛び込んで傘を借りてこようかと考えていた一階の祖父母の玄関の戸が開いて、弟が出てきた。黙って傘を突き出す。
「ありがと」
「病院、一緒に行ってやろうか」
ぶっきらぼうに克徳は言った。母親に向かって叫んで飛びだしてはきたものの、正直、心細かった。だから余計に嬉しかった。
「ありがと。でもね、いいよ」
「いいよ、行ってやるよ」
「大丈夫。あんたは勉強しなくちゃ」
タクシーがとろとろ坂を上ってきたので。わたしは手を上げて合図した。
「遅くなるかも知れないってお母さんに言っといて」
タクシーが国道を南に走る間、わたしは冷たい窓ガラスに顔を押しつけて、混乱する考えをまとめようとしていた。
神崎さんについての芳しくない噂はいろいろあった。いくらそういう情報に疎いわたしでも、いくつかは耳にしている。
そのひとつが、彼女には自殺癖があるというものだった。決して信じてはいなかったのだが、真実だったのかも知れないと思うと、胸が痛くなった。
「死んでいたかもしれない……」
こっそりそう口にすると、ぞっとした。
死は甘美な誘惑かもしれない。しかし死の淵は深く暗く、覗くことさえ恐怖を誘う。神崎さんも、影を落とした死も、わたしには恐ろしかった。
照明の落とされた病院の待合室で新川が待っていた。
「容体は?」
「心配ないけど」
「会えますか」
「眠ってるかもしれないけれどね」
わたしはうなずいた。
階段を上がって病室に入ると、お母さんらしい人が枕元から立ち上がった。
「先生」
「さっきお話ししたクラスメートの森本さんです」
何を話したのだ、何を。
「それは……わざわざありがとうございます」
物腰の丁寧な人だった。よく似ている。
吊り下げられた瓶の中で点滴液がぽたぽたと垂れているのに目をやりながら、ベッドの脇に立った。
「それじゃ、ちょっと失礼して……すみません」
お母さんは新川にちょっと目礼して出ていった。
「着替えとか、取りにいかれるの」
新川はそうわたしにささやいて、すぐあとから出ていった。
枕元にひとつだけついた小さな明かりに、神崎さんの顔が浮かび上がっていた。青白くて生気が無くて、人形のような……
思い出してぞくっとした。母方の祖母が死んだとき、まるでろう人形のようだった姿が目に浮かんだのだ。
そして、思い出さないことにしている死んだ友達と。
「神崎さん」
思い切って声に出した。小さな声だったのに、神崎さんはすぐ目を開いた。
「具合、どう?」
ゆっくりまばたきしている。
「痛くない?」
そう言ったとき、いきなり涙があふれた。
必死に指で押さえても、涙は止まらなかった。
滔々と流れる先生の声を聞いている。
その声は声明のようにこの場を、漢文の教室を支配しているのだ。
わたしは寝不足で夢うつつのまま、何かの魔法のようにそれを聞いていた。
孤独と、絶望と。古今東西、生き抜いてきた人類が共有する思い。
誰もがわたしから時の人の情報を聞きだそうとしたけれど、答えられることなどあるわけもなかった。わたしが何を知っているというのだ。
十一月二十八日
ひどく裏切られたような気がした。しっぺ返しを受けたような気がした。
でも、それはわたしの勝手な思い込みだったということだ。
いったい、何を期待していたのだろう。
おせっかいして見返りがあると、無意識のうちに思い込んでいたんだろう。
わたしの悩みや苦しみに何かの答えをくれるように思っていたんだろう。
簡単に口にしなくてよかった。
「わたし、別に、本当に死のうと思ったわけじゃないよ」
その声は物憂げで、そんな言葉を信じられるはずもなかった。
一週間で退院した神崎さんを訪ねて、部屋で食事を作った。大したものは作れはしなかったけれど。
「前には首を絞めたって聞いたわよ」
わたしの口調は前よりもずっと横柄になってきた。
「そんなんじゃない」
聞いたほうが黙り込んでしまうような言い方だった。
「昼間から風呂にお湯溜めだしたりしていたから、仕方ないけどね」
スプーンでおじやをつつく彼女の手から、長目の袖の開くときに白い包帯が目についた。目を閉じてもその白が見える。今も、忘れることはない。
一度、冬に、三階の自分の部屋から、雪がうっすらと地面を覆っているのを妙な感動とともに眺めていたことがある。
静かに降ってくる雪の舞う暗い天空を見つめ、雪が顔に当たって溶けるのを感じて、涙が出た。
なんで死にたいと思ったのか、そのだいたいの理由は、演劇ワークショップに参加したり、市の演劇祭に参加しようとしていたときに学校や部員とぶつかったことや、自分が整理しきれていない問題を家族に突っ込まれた苦しさやらそんなことがあったんだと思う。でも具体的なことはよく覚えていない。何か失敗をやって、まったく言い訳ができない状態で、おまけに他人の非難を平然と受け流せるほど強くなかった。
それで、これきり、もう何も気にしなくていいのかな、と思って、うんと上半身を乗り出した。
この逆境を自力で乗り越えられないのなら、生きてる価値なんてどの道ないだろう、そう思ったのだ。
でも、今は生きている。それを乗り越えたんだ。
あの時は、本当に高い窓枠に足をかけて、覚悟を決めようとしていた。ここから落ちたら、雪が自分の上に積もるだろう、そう思ったら少し安心して……
そして寒かったので窓を閉めた。
薄手のパジャマで裸足だったから。
死のうと思ったら、いつでも死ねる。そう思って、やめた。
「今度、本当に死のうと思ったときにね、ためらい傷つけたり、一度で深さが十分じゃなかったりしたら辛いだろうと思って。だから、すぱっと血管が切れるかどうかと思って」
「そんなことで切ったの」
箸は止まった。食べ続ける気にはならなかった。
「痛くなかった?」
歯がゆさと、興味と半々くらい。余計な刺激はまずいかな、とも思うけれど、わたしを大胆にさせるのだ、この人は。
「ほら、動脈血ってきれいな赤をしてるっていうから、見てみたかった」
「でも動脈まで切れなかったんでしょ」
ああ、わたしって意地悪だなあ。
神崎……真紀子は涼しい目でわたしの顔を見た。
「わたしなんかより、あんたの方がずっと死にたそうだよ」
真紀子は静かに言った。
「すっごくうらやましそうな顔してる」
ひっぱたいてやろうと思った。半分腰を浮かしかかった。
でも、どう言ったところで反論にはなりそうになかった。
胸の奥にずきっとくる。腹が立つやら、情けないやら。
「……筋肉とか血管とかって、思ったよりずっと弾力あるのね」
「どうしてそんなことするの? せっかく生きてるのに、もったいないよ」
わたしは真紀子の言葉を封じるように声を上げた。あっけなく死んだ古い友人の顔が浮かび、いても立ってもいられなかったのだ。
真紀子はきっとわたしを見た。
「自分がいつも生きたいって思って生きてる? いつもいつも生きていることを感じて、生きていることを選んで生きてる?」
真紀子の声は震えた。
「わたしの言っていること間違ってる? 生きてるってそういうことじゃな
い?」
横っ面をひっぱたかれたような感じだった。
なれ合いを激しく拒む真紀子の手に、わたしは震えた。
引き継ぎに、学校側や顧問を巻き込んで荒れた部活のごたごた、それを不本意なかたちでしか収められなかったこと。
他の二年生から孤立してしまったこと。
おさまらない家族のいさかい。直接ぶつかるのが恐ろしいこと。
高校を卒業するまではと自分に課している枷。
誰にも、自分自身にさえ打ち明けられない夢。
鼻で笑い飛ばせばかき消えてしまうような。
それまで自分の中に封じ込めていたものが、爆発するようにわたしから飛びだしていった。
夜中、救急車が近づいてきて止まる。
どきっとして、わけもなく切なくなる。 誰も泣かずに済めばいいのに。
サイレンの音が流れて、静かに遠ざかった。
わたしは知りたくなどなかった。
こんなことに近づきたくなどなかった。
眠れぬ長い夜にひとり、新川と神崎真紀子と、自分自身を呪い続けた。
朝、目覚める。
世界が、堪え難いほどの苦痛とともにふたたび蘇ってくる。音を立てて頭蓋の中に飛び込んでくる。目が、体中が強ばって痛んだ。
安らかで暖かな眠りの中にも、布団の中にも戻れない。ほんの一瞬でも余分にそこに留まっていたら、二度と出られなくなると知っているからだ。
ぱっと布団と毛布をはねのけて、自分のぬくもりの残るシーツの上で着替える。制服のブラウスとスカート、それにセーターを洋服箪笥から素早く取ってくるうちにも、冷たい畳で足が冷えるからだ。冷気を肌に感じて着替える。
どうして朝起きなきゃならないの。
いわれのない怒りが湧き上がってくる。いわれどころか行き場もない。
誰が朝起きると決めたんだ。
前夜三時過ぎまで起きていたのは棚に上げて、怒る、怒る。
働いている母の作る朝食は、わたしや父の起きる時間にぴったりタイミングが合っている。ときどきは寝坊してパジャマ姿のまま台所に立っていることもあるけれど。
父は黙って新聞を読む。この時間、テレビは面白くないのでつけない。朝見るのはお堅いニュースが好みだ。眠さをぬぐい去ってくれるので。妙に明るいモーニングショーの類いは、空々しさが先に立って、ぞっとするので見ない。
両親におはようと言い、食べ初めてしばらくすると弟が起きだしてきて食卓につく。低血圧のわたしよりも寝起きの悪い弟が、誰にも起こされずに起きてくるようになったのは最近のことだ。
朝はほとんど誰も口をきかない。些細なことで言い争いになるのを避けているのだ。誰だって寒い冬の朝早くから起きだしたりしたくなどないだろう。みんな機嫌が良いとは限らない。ときどきそれをうっかり忘れて、苛立った気分で家を出ることもある。自分を、他人を、世界を、目一杯呪いながら。
それはあっけない終わりだった。
決して表面的な付き合いではないと、思っていたのだが。
智恵はわたしのことを持て余していたのだろうか。内部推薦の決まりそうな連中の対策勉強会のメンバーの、さゆりだの淳やらのグループにすっぽりとはまった智恵は、あまり構ってくれなくなってしまった。
女の子というのは不思議なもので、友人関係の力学は、腹黒い政治家程度の想像の及ぶところではない。
朝、ひとりで坂を登るのが当たり前になると、学校へ行く途中で一緒に歩く人のことをよく観察するようになった。
まだ半分眠ったような顔でよろよろ歩く人、単語帳片手の人、友人とノートを交換している人、耳障りなほど大声で叫んでは走り回る下級生、世の中何が面白いんだろうという不景気な様子でのたのた重い身体を運ぶ人、朝から本当に楽しそうに笑う人。
友達同士でいつも話していると、周囲が何も見えていなかったのだと感じた。
吐く息がいつの間にか白い。今年ももうそんな季節になったのだ。
「おはよう」
一番すがすがしい挨拶がこの人の口から出ることには、違和感さえ覚える。
神崎真紀子が自分からわたしに声をかけてきたのは、このときが初めてだった。正直言って驚いた。
でもそのままわたしと並んで歩くわけでもなく、彼女はすたすたと教室に入って鞄を置くと、そのままふっといなくなってしまった。
「神崎さんは?」
「え?」
近くの席の高梨が、面倒くさげに眼鏡の奥からわたしを見上げた。
「フケたんでしょ、どうせ。教室まで来て、鞄まで置いて。えらく真面目じゃ
ないの」
別にふざけているつもりじゃなさそうだった。
いつも本を読んだり絵を描いたりしているこの子、結構観察している。
わたしも衝動的に鞄を置いて教室を出た。
始業二分前に真紀子を探し当てた。
「ねえ、海、見に行かない?」
こんなセリフ、絶対自分の脚本では使わないな、そう思いながら、屋上の手すりに寄りかかったまま、冷たい風に身を任せている真紀子に言った。
「うう、寒いな、ここ」
真紀子は、それが何か本当に素晴らしいことであるように言った。
「天気のいい日はねえ、今日はちょっと霞がかかっているけど、ここから富士山が見えるの」
真紀子は戦っている。
何度も負けそうになり、ぼろぼろになっても、戦い続けている。
しばらく、気づかないふりをしていたけれど、わたしたちは戦友だ。
同じ時代、同じ時空で戦っている。
でも敵は同じではない。
「富士山? 本当?」
真紀子が指さす方向には、確かに雲の塊のせいで何も見えない。
「横浜でも富士山が見えるって何か不思議な気がする」
そう言いながら、前に済んでいた丘のてっぺんの小さなアパートのベランダから、布団を干しながら母と富士山を見たときのことを思い出していた。
そう、富士山はいつもそこにあるよね。見えなくたって。
「ええっ? そうかな」
「それでさ、行こうよ。駅の反対側から埠頭行きのバスが出てたよね」
商科大の裏、石段を登りきった上に、目の前に何も立っていない高台の空き地がある。
小学生の時、遊びまわったあと、すっかり日が暮れて暗くなった時間に石段を駆け上がって帰ってきて、ふっと振り返ったときの感動を今も覚えている。
夜の闇に光の海が広がっていた。
「下界」と言う言葉が頭に浮かんだ。
しばらく動けなかった。
見えているのは工場と積み出し港で、ロマンチックな港の夜景なんかではないことは知っていた。
いつか、行かなければと思っていた。生まれてからずっと、こんなに近くに住んでいるのに、社会見学以外に行ったことがないのが港なのだ。
一日中、制服姿のまま、二人で遊びまわった。繁華街なのに、よく補導されなかったもんだ。
結局、外部進学クラスに進むことに決めたのは、あの神崎真紀子がそうすると聞いたのがきっかけだった。
悔しいけど、内部推薦で短大に行くか、他学を受験するか迷った揚げ句に自分では決められなかったのだからしようがない。
真紀子と親しくはなれなかった。心の中にはまったく踏み込めなかった。彼女は相変わらず出席日数ぎりぎりの登校の仕方で、いつでも高校なんかはやめると公言しているし、もちろん友達なんかはできない。
わたしだって、それほど親しくしたいと思っているわけではないが。
「なんだ、短大国文行くんじゃなかったんだ」
「うん、そうしようとも思ったんだけどね」
歯切れ悪く答えるけれど、どうしてか照れ臭い。
いつか真紀子に、わたしの夢を打ち明けることができるだろうか。
「いきがっちゃって」
真紀子はそう笑った。
相変わらず口の悪いやつだ、こいつは。言葉はつっけんどんで醒めているし、ときどき遠慮なくぐさりとわたしの弱みをついてよこす。
それでもいい。わたしはもう真紀子にとって、顔も名前もないクラスメートではない。
真紀子は美大を志望する。学外でも先生についたそうだ。
「二年がかりの計画だもの。別に大学なんか行かなくてもいいんだけど」
すっかりマイペースで余裕たっぷりだ。真紀子は思い通りにするだろう。
真紀子には、「それ」は絵でなくても構わないのだ。わたしには一番理解しづらいことに、彼女はわたしがこだわっていることをやすやすと乗り越える。
と言っても真紀子が変わったわけじゃない。もともとの彼女の生き方と変わっているわけじゃない。彼女が自分を知っているようには、わたしは自分を知らないのだということがわかっただけだ。
でも本音を言えば、真紀子はもしかするとこの十年ぐらいのうちに、また死のうとするかも知れない。そして今度こそは成功するかも知れない。
そういう危うさは真紀子から決して去ったわけではない。
この空間に定着しきれない不確かさのようなものが彼女につきまとって、離れることはない。
でも、うぬぼれていうならば、真紀子が思い止まる引っかかりのひとつにでもなれたのかも知れない、そう思っているのだ、わたしは。
真紀子はいつか、自分が生きていることそのものをふっと忘れてしまうかも知れない。
そんなふうにわたしのことも忘れてしまうかも知れない。
わたしは真紀子と会ってずいぶん変わったけれど、真紀子はそうでもないから。
この世界を飛びださなければならない。
この柔らかいまゆを突き破って、外の世界に出てゆかなければならない。
そのためにはまず、自分自身を変えなければならないのだ。
これから進む先にも苦しみが待っている。
でもその苦しみは甘くもあるのだ。自分の足で歩み続けるかぎりは。
今は信じているから。
わたしたち、生きて行けるよね。歩いて行けるよね。自分の足で。
いつかこの冷たい園に花萌える日を夢みて。
夢。
振り返ると、長い灰色のトンネルから自分が抜け出したのだとわかった。
もう二度と、あの場所に戻らなくてもいいのだとわかった。
ただ、それだけで、涙があふれた。
(終わり)