慧 妙・平成16年10月1日(第282号)より
正当化計ろうとして呆れた意義付け!
大聖人の御意を平気で曲げる学会
怠行≠ヘ宗祖以来の化儀化法に違背
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」の御金言を無視し、自らの怠(なま)け心を「師」として、怠行(※たいぎょう=方便・自我偈・唱題をもって五座三座に代えた創価学会の勤行。怠け心の産物ゆえ、本紙では、これを怠行と呼ぶこととした)≠制定した創価学会── 。その創価学会が今、会員に怠行≠定着させんとして懸命(けんめい)になっている。
その一方で、本紙に怠行≠フ本質を喝破(かっぱ)されたことに慌(あわ)てた創価学会は、怪文書『フェイク』を使って反論を試みている。
しかしそのどちらも、日蓮大聖人・日寛上人の御正意を、それこそ一八〇度曲げてでも、怠行≠正当化せんとした暴論である。
そこで今回は、創価学会の戯言(たわごと)を、重ねて一刀両断にする。
怠行$ウ当化狙い御金言を切り文
御都合主義丸出しの勝手な解釈
創価学会が、「方便品・自我偈の読誦と唱題による勤行」なる怠行≠、会員の間に定着させようと懸命になっている。
怠行≠正式制定してから半月後の、九月二十四日付の『聖教新聞』の紙上座談会──。
秋谷栄之助を筆頭に、青木(理事長)・原田(副理事長)・高柳(婦人部長)・杉山(青年部長)・弓谷(男子部長)の学会最高幹部が首を揃(そろ)え、
「もともと日蓮大聖人の御書には『五座三座』という仰せは、ありません。御書には『自我偈少々』等とあります。五座三座というのは、大聖人の時代には、なかった。後世に僧侶の修行として行なわれるようになったものです(青木)」
などと、大聖人は五座三座とは仰(おお)せられていない∞五座三座は江戸中期に定まった僧侶の修行≠ニの戯言を、再三再四、繰り返しているのだ。
それにしても、いかに怠行≠正当化するためとはいえ「御書には『自我偈少々』」とは、よくも言ったものである。
そもそも、「自我偈少々」というのは『種々御振舞御書』の一節、すなわち、
「夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あらあら申して、抑(そもそも)今の月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし。(中略)仏勅(ぶっちょく)をもはたして、誓言のしるし(験)をばとげさせ給ふべし」(御書 1061頁)
のごく一部である。
この御文は、竜口の法難の後、依智(えち)の本間邸において大聖人が月天子を叱咤(しった)されたところ、庭の梅の木に「明星の如くなる大星」が下りてきた、有名な場面であるが、一読して明らかなように、「自我偈少々」というのは、常時の勤行を指しての御金言ではない。
学会の切り文のデタラメさがよく判(わか)る事例である。
なお、日蓮大聖人は、常時の勤行に関しては
「法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品(よほん)は皆枝葉(しよう)にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」
(御書 303頁)
と、「常の御所作」すなわち日々の勤行においては、方便品の長行および寿量品の長行を読むよう仰せである。
これは『月水御書』の一節であって、この御書を与えられたのは大学三郎殿の奥方、すなわち在家の女性信徒である。言うまでもなく、「僧侶」に対してその修行を説いたものでは、けっしてないのだ。
ところが、この『月水御書』でさえ学会は、本紙前々号で糾弾した八月十一日付の『聖教新聞』の座談会中において、
「御経をばよませ給はずして、暗に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひ候え。礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給ふべし」(御書 305頁)
との部分のみを切り文し、
「体調が悪い時など、場合によっては、読経はせず、唱題だけでよい。また、御宝前に座らなくてもよいとの仰せと拝される(青木)」
などと、日蓮大聖人の御正意を曲げてしまっているのである。
大聖人が『月水御書』の後段において仰せられているのは、当時の世相は、とかく女性は不浄の者として扱われており、その中で、法華不信の者が、女性信徒を信心から退転させようとして、ことに不浄な女性の生理中に読経・唱題することは不敬ではないか、と咎(とが)めるようなこともあろう。本来、生理が不浄などということはないが、地方の風習としてそのような考えが強い場合もあるので、随方毘尼(ずいほうびに)の戒として、その風習に従うことは許される。それらを全て心得て、お教本を手に取って読まずに、題目を誦(そらん)ずるだけでよい。御宝前に座らずに離れた所から礼拝すればよい=i趣意)との御意である。
それを「体調が悪い時など、場合によっては、読経はせず、唱題だけでよい。また、御宝前に座らなくてもよい」と、自分の都合によって勤行を省略できるものと解釈し、あまつさえ毎日の勤行を怠行≠ノ変更する根拠に利用するなど、言語道断である。
怪文書『フェイク』で本紙に反駁
白を黒と見る頭破七分ぶり露呈
かように、日蓮大聖人の御正意を、平気で自らに都合よく曲げる創価学会。彼奴等は、怠行≠糾弾する本紙に対し、正面切っては反論不能であるから、姑息(こそく)にも、怪文書『フェイク』を使い、
「『慧妙』の悪質な点は、日寛上人の書状を『五座三座ノ様式相守ヘシ』で切り、五座三座のみを強調されているように装っていることだ。実はその後『但(ただ)し仕官の身公用抔(など)の時は乃至題目一遍なりとも右の心むけに相勤むべし』と明記。日寛上人は信徒に五座三座を強要されてはおらず、方便品と自我偈と題目でよい、勤めの関係でそれも出来ない場合、題目一遍でもあげるよう教えられている」
「(かつて五座三座の全てに方便品の長行・寿量品の長行を読誦していた宗門は)学会の出現によって信徒が次第に増加し始めた日昇法主の時に、最近まで学会員が日々実践していたような五座三座の所作に変わったのである。
但し、日顕宗は信徒が激減した訳だから、昔に返って方便品も長行を復活させるか?」
などと、一知半解(いっちはんげ)ゆえの、噴飯(ふんぱん)ものの悪罵(あくば)を浴びせ、創価学会が、「時代」に合わせた勤行を制定して、何が悪い≠ニ息巻いている。
本紙としては何の痛痒(つうよう)も感じぬ雑言だが、学会員の目を醒(さ)ますため、簡単に破折しておくことにする。
まず、日寛上人の書状についてであるが、本紙引用の次下には、なるほど「但し仕官の身公用抔(など)の時は乃至題目一遍なりとも右の心むけに相勤むべし」とある。が、文意というものをおろそかにしてはいけない。
すなわち日寛上人は、官に仕える役人が、公用などによって身を拘束されている時は、五座三座を行なうこともままならないが、そのような時であっても、五座三座を修する心づもりで題目の一遍だけでも唱えなさい≠ニ仰せられているのである。
至極当然の、ありがたい御指南ではないか。『フェイク』のいうような「日寛上人は信徒に五座三座を強要されてはおらず、方便品と自我偈と題目でよい(と仰せられている)」などという意味は、どこにも絶えて見られない。
謗法で頭破七分した輩(やから)が見ると、白も黒に見える、という典型的な事例であろう。日寛上人の御文を拝し直して、自らの頭の狂いぶりを自覚したらどうか。
三大秘法は「我本行菩薩道」の文底に
これを我見で削り捨てた怠行
次に、宗門も、時代に応じて方便品の読誦を十如是までに短縮するなどしてきた(だから、五座三座も短縮して怠行にしてかまわない)≠ニの論難について。
そもそも、勤行を含めた本宗の化儀は、御歴代上人の権能に収まる事柄であり、時の御法主上人は、正法正義に照らし、時に応じて、それを裁定なさるのである。
さて、時の御法主上人が、増加する信徒の生活と信仰等を鑑(かんが)みられ、それまでの方便品長行(ちなみに方便品の長行は、十如是の後に「世雄偈(せおうげ)」という「偈」が続いており、それを含めると、その長さは寿量品の優に二・五倍にもなる)を十如是までに縮められたからといって、寿量品長行を、勝手に自我偈だけに縮めることは許されるだろうか。
日寛上人は、方便品を読誦する意義は、その経文の中に「唯仏与仏乃能究尽」の文と、一念三千の出処となる「十如是」が含まれているところにある、と示され、
「十如の文は既(すで)に是れ一念三千の出処なり。故に但(ただ)之れを誦すれば其の義則ち足んぬ」(六巻抄 169頁)
と仰せになっている。
一方、寿量品には、
「一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底にしづめたり」
(御書 526頁)
と仰せのごとく、事の一念三千・三大秘法の妙法が秘沈されている。どこの文に秘沈されているか、というと、日寛上人は、
「聞いて能(よ)く之れを信ぜよ、是れ憶度(おくたく)に非ず。師の曰く「本因初住(ほんにんしょじゅう)の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云」(六巻抄 28頁)
と仰せられ、「我本行菩薩道 所成壽命 今猶未盡 復倍上数」の本因初住の文底に秘沈されている、と明かされている。しかして、この「我本行菩薩道」の本因初住の文は、自我偈ではなく寿量品の長行中にあるのである。
となれば、事の一念三千の御当体たる大御本尊を賛嘆(さんたん)申し上げるのに、方便品の十如是までと寿量品の長行は、法義上、必要最低限な助行であること、明々白々ではないか。
すなわち、現時における日蓮正宗の五座三座の勤行は、制定当時、将来にわたる様々な状況をおもんぱかった上で、勤行としての必要な要件を満たす形で定められたものであることが理解できよう。
ところが創価学会は、各国SGIの要請≠ニやらを理由に、五座三座を廃止してしまったばかりか、事の一念三千の御本尊を秘沈している寿量品の長行まで、削り捨ててしまったのである。
日蓮大聖人は、
「此の経の文字は皆悉(ことごと)く生身(しょうじん)妙覚の御仏なり。(中略)されども僻見(びゃっけん)の行者は加様(かよう)に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯(ただ)相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期(ご)せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」(御書 794頁)
と仰せであるが、この御金言を無視し、自らの怠け心に従って、「五座三座」の勤行を「方便・自我偈・唱題」の怠行≠ノ変えてしまった創価学会は、まさしく「心を師」とした「僻見の行者」である。
こうした、「僻見の行者」創価学会の洗脳により、創価学会員が完全に正気を失ってしまう前に、一人でも多くの学会員を日蓮正宗に帰伏せしめるよう、学会員に対する折伏を、辛抱強く続けていこうではないか。