大白法・平成11年8月16日刊 (第531号より転載) 信行を磨く (37)
報恩感謝を以って折伏を
土居崎慈成御尊師
本年も、全十期に及ぶ夏期講習会が開催されました。御戒壇様在す総本山にて、御法主日顕上人猊下の御講義をはじめ、宗旨の根幹をなす教学の研鑽と信行錬磨の日々に、全国より法華講信徒が一堂に会し、共に一体となって実りある講習会に参加され、支部に戻られた後には、折伏への実践・成果へと転化していることと思います。
御法主上人猊下の御講義を拝聴いたすことは、日蓮正宗の法義の根幹、すなわち日蓮大聖人の御法体の法門たる唯授一人の御法主上人猊下の御指南を、勿体なくも直々に賜ることであり、まさに師弟子の関係を糾す第一義と拝するものであります。
御開山二祖日興上人は、『佐渡国法華講衆御返事』の中で、
「このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」(歴代法主全書一巻一八三n)
と、成仏への正しき信行は、師弟子を糾すこと、師弟子の筋道の上から御法門を信受いたすことが大事と仰せであります。
平成二年末より、一連の創価学会問題が起こり、唯授一人の御尊体であらせられる御法主上人猊下への誹謗中傷、さらには戒壇の大御本尊様への違背にまで及んだ背景には、師弟子の法門、手続ぎの師弟の関係を逸脱した姿があったからに他ならないと思うものであります。
釈尊は法華経『方便品』に、
「一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ」(法華経 一一一n)
と説かれ、さらに、
「若し法を聞くこと有らん者は 一りとして成仏せずということ無けん」(同 一一八n)
と仰せのごとく、仏の慈悲と法華経の功力によって、末法の衆生は、誰一人も漏れることのなき成仏が示されております。
しかし、そこには、おのずと正しき筋道の上から、正しき筋目を通した信行の上からの成仏があることをしっかりと示されるのであります。
御本尊様を受持していれば、好き勝手な信仰であっていいはずはなく、信心の筋道を違えずに信・行・学に励む、すなわち日蓮正宗の教えを正しく心肝に染め、自行化他に邁進いたすことこそ成仏への途となるのであります。
『聖愚問答抄』には、
「嗚呼受け難き人界の生をうけ、値ひ難き如来の聖教に値ひ奉れり、一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし」(御書 三八二n)
と仰せのごとく、生命を得て、人間として生まれたことは、確率的見地から見れば、何千億分の一にも満たない、奇跡の中の奇跡であり、来世すらも知ることができない凡夫の身であるとの思いをいたすとき、そこに仏様との遠く、また深い因縁を感ずるものであります。
『最蓮房御返事』には、
「我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか」(同 五八五n)
と仰せのごとくであります。
我々大聖人の弟子・檀那は、人として生まれ、人としてこの法に、この御本尊様に巡り合えた喜びに報恩感謝の念を深くし、信行へと転じていかなくてはならないと思うものであります。『身延山付嘱書』には、
「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(同 一六七五n)
とは、唯授一人の血脈付法の御指南に敵対する者は、謗法の輩であるとの仰せであり、御指南のもとに異体同心いたす信心にこそ、大聖人の仏法があると厳しく戒められており、日有上人は『化儀抄』において、
「又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし」(日蓮正宗聖典 九七四n)
との仰せも同様であります。
御指南のもとに随順の信心と僧俗和合の姿を表すことは、いかなる三障四魔にも屈することなく、大願成就の正道を築くものであります。
さて、現在私たちは、平成十四年・宗旨建立七百五十年の法華講三十万総登山に向けて平成広布の大海原を航行中であります。三十万総登山の大願はもちろんのこと、支部はそれぞれの目標を掲げ、また個々にあっても種々の願い、目標、祈念いたすことがあると思います。
しかし、諸願の成就のためには、各自が何を成すべきかが問われていると思うのであります。現在、巷に蔓延る低俗な新興宗教は、平成不況や低級なる願いに、盲目となる人々の姿が反映されている証左であり、現世利益にとらわれる凡夫の姿を垣間見る思いであります。
では、大聖人の弟子・檀那の願いとは何かということであります。確かに、何らかの願いがあって、信心を始めた方も多いとは存じますが、御本尊様に諸願成就のみを願ってはいないでしょうか。
『蓮盛抄』に、
「夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り」(御書 二八n)
と、主徳、師徳、親徳を兼備されていることをお示しであります。これは臣下を守護し、弟子を指導し、子供を慈愛をもって教化し、正しき方途を示す用きがあることを表しているのであります。
これは、御本尊様を持ってさえいれば、願いを叶えてただけるというものではなく、私たちは臣下として、弟子として、子供としての本分を全ういたすところに諸願成就があることを示されているのであります。
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし」(同 一五一九n)
と、『日厳尼御前御返事』に仰せのごとく、叶う叶わぬは、その人の信心によることを仰せなのであります。
では、この信心、臣下のごとく、弟子のごとく、子供が親に従えるがことき信心とは何かということであります。これは、前述のごとくに「報恩感謝」の念をもち、自行に、折伏行に邁進いたすということに他ならないのであります。
『三世諸仏総勘文教相廃立』には、
「一切の法は皆是仏法なりと通達し解了する、是を名字即と為づく名字即の位にて即身成仏する」(同 一四一七n)
と説かれますごとく、一切世間の法が皆仏法であると心得て、仏法に信行錬磨いたすことが大事であることが、『檀越某御返事』に、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』とは此なり」(同 一二二〇n)
と仰せのごとくであります。
御本尊様に御仕え申し上げる信行は、必ず大きな功徳を積むこととなり、諸願の成就はさらに信心を深め、鍛えられた信心へと向上するのであります。
『教行証御書』には、
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(同 一一〇九n)
とありますごとく、自分の心の迷い、奢り、怯え、恐れの心こそ、広布を妨げる仏敵であると捉え、今こそ身命を賭して、またすべてを抛ちて信心に励まなくてはならないと確信いたすものであります。
平成十四年の大眼目は、大聖人様への御報恩謝徳はもちろんのこと、三世の願いをも達成いたす絶好の好機であります。故に、一人ひとりが真剣に身・口・意の三業にわたって精進し、三世の成仏の礎を築き上げていただきたいと心より念願いたします。