大白法・平成11年10月16日刊 (第535号より転載) 信行を磨く (39)
仏法と世間法
―仏法を体とした如説の修行の人であれ
菅原信了御尊師
木犀の花が開き、秋闌のこの月、全国各寺院において御本仏日蓮大聖人の御出現と三世常住を寿ぐ御会式が奉修され、僧俗が心を一つにして破邪顕正の実をあげ、令法久住・広宣流布に邁進することを決意し誓われたのであります。
日蓮大聖人は、
「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書 一四六九n)
と仰せられ、仏法を体に、世間を体の影に譬えられました。すなわち仏法と世間とは一体であるとの御意であります。この影とは衆生のことでもあり、その周囲のあらゆる事象・環境・社会を総合して仰せられたのであります。
したがって、体である仏法が邪義謗法に犯されるならば、影である人間個々の生活も社会も混迷の度を深め、苦悩の生活を強いられることになるのであります。勿論、この御文の「仏法」とは、正しい御本尊と、その教義であることは言うまでもありません。
それでは世間とは何か、すなわち人間を含めたあらゆる事物が、過去・現在・未来と因縁によって移り変わり生滅し、それによって差別の間隔があることをいうのであります。すなわち五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間でありまして、個々の人間、人間の社会、その人間の住する環境のことであります。
したがって「体」と「影」とは、仏法が「本体」であり、それに随う影を世間というのであります。影である世間は仏法に「随従・随順」する関係であり、不離一体でありますから、仏法に世間が随うことであると心得なければなりません。仏法の道理を無視し、または仏法に反して己義や我見を構えることは顛倒の思想であり、外道義と言うべきであります。
ですから池田創価学会の人間主義という考えも、その説明の中には仏教用語が使われていますが、迷いの人間を本体とし、仏法を影として、その人間に随わせる形をとることは顛倒の邪義・外道義であると言えるのであります。
日蓮大聖人は『立正安国論』に、世間の災禍の相を衰れみ、その原因が仏法違背の謗法にあることを看破され、経文によって証明し、邪義謗法を破し、正法正義を顕されんことを願われたことは、誰人も認識するところであります。
宗開両祖の誡
日興上人は『日興遺誡置文』に、
「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(同 一八八四n)
と御遺誡されました。この一条は、末法の化儀・化法は日蓮大聖人の法門にしたがって立てるべきであり、それに違背することを厳しく誡められたものであります。特に同文に、
「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(同 一八八五n)
との文は留意すべきでありましょう。すなわち多くの人の意見であっても、仏法に違背する謗法の考えであり、さらに世間法に基づいた誤った考えであるならば破折し、仏法をもって時の貫主上人がこれを糺し顕正すべき旨を訓誡されているのであります。
これに対して慢心により世間法を第一と立てた輩たちは『白米一俵御書』にある、
「まことのみちは世間の事法にて候」(同 一五四五n)
との御文を持ってきて、世間法はそのまま仏法であると大聖人は仰せではないかと反駁するかもしれません。しかしこの御文は、その次下に妙楽の釈も引用されていますように『法華経法師功徳品第十九』の、
「諸の所説の法、其の義趣に随って皆実相と相違背せじ、若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経 四九四n)
と説かれた文を基として大聖人は仰せられているのでありまして、この経文の「其の義趣に随う」「正法に順ぜん」とは、その前文に、
「如来の滅後に、是の経を受持し(乃至)千二百の意の功徳を得ん。是の清浄の意根を以て、乃至一偈一句を聞くに、無量無辺の義を通達せん」(同 四九四n)
と説かれ、随義趣、順正法とは本門の仏法に開帰会入した上での随順の意味と認識すべきであります。凡人の智慧才覚を「世間の事法」と仰せではないのであります。
十号の世間解とは
世間出世間の一切を通達解了した仏の十種の徳(十号)の一つに「世間解」
という尊称があります。この世間解を涅槃経巻第十六(南本)には、三世間に約し説かれています。まず五陰世間を、
「世間とは名けて五陰と為し、解とは知と名く。諸仏世尊善く五陰を知る、故に世間解と名く」
次に衆生世間については、
「又世間とは一切の凡夫、解とは諸の凡夫の善悪因果を知る是声聞、縁覚の知る所に非ず、唯仏のみ能く知る」
と説き、国土世間を、
「世間とは東方無量阿僧
世界の一切の声聞縁覚、知らず、見ず、解せず。諸仏は悉く知り、悉く見、悉く解す。南西北方、四維、上下も亦復是の如し。是の故に仏を号けて世間解となす」
と。この経文から、仏法にしたがって世間を観ることは自明の理であります。故に凡人が仏法の真髄を判ったと思っても、それはあくまでも慢心から出た錯覚であり、傲慢の仏教学であり、世間法から脱し得ない発明教学であることを認識すべきであります。あくまでも『日興遺誡置文』の一条に誡められている「先師の御弘通」の一文を心肝に刻むべきであります。それは『当体義抄』に、
「法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共は念仏者等なり、仏性・法身如来に背く故に妙経の体に非ず」(御書 六九四n)
と仰せのように、衆生も仏も真理の上からは同じく一法身でありますが、それは妙法蓮華経に同共して、初めて妙経の体となるのでありまして、仏法に随順しないで世間法に執着しているのであれば、決して成仏を目指す仏道修行にはなりませんし、「仏の世間解」には全く通ずることはないのであります。
「不染世間法如蓮華在水」の地涌の菩薩たらん
『法華経従地涌出品第十五』には、
「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五n)
と説かれています。これは弥勒菩薩が地涌の菩薩を讃嘆した文でありますが、何を讃嘆されたのでしょう。すなわち前文に、
「久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して」(同)
と説かれ、仏法の根本である信行学の肝要が世間の法に染まっていない、それはあたかも濁水に染まらず清浄な蓮華のようである、と讃えられたのであります。我々凡夫は、ややもすれば偏見で人を見たり、我見に束縛されて批判したり、邪見に気付かず執着したり、さらには折伏に臆病になり、御講の参詣にも総本山への登山にも不参加では、世間の汚濁に染まった姿ではないでしょうか。
日蓮正宗の我々は、いかなる因縁によるのか識ることはできませんが、三国未曽有の三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊を信じ奉る今世の人身を得たのであります。我が身の不思議な因縁を思うにも、いかなる喜びにも増して法悦の極みでありましょう。御法主日顕上人猊下は、一月三日の出陣式において、
「妙法広布の大願をもって進む地涌の菩薩は、我ら日蓮正宗の僧俗、法華講の皆様のほかに、どこにありましょう」(大白法 五一七号)
と、勿体なくも「地涌の菩薩」の御名を戴きました。この御法主上人猊下の御恩に報い奉ろうではありませんか。
宗旨建立七百五十年に向かい、名実共に三十万総登山を成就すべく、地涌の菩薩の御名に応えるためにも、唱題し折伏を実行し、謗法の元凶である創価学会の徹底した破折に精進することこそ、仏法を体とした如説の修行であり、世間の濁水に染まらない「地涌の菩薩」の尊き道であります。