大白法・平成12年2月16日刊 (第543号より転載) 信行を磨く (42)
御誕生会の二月を清浄な信行で
高野日海御尊能化
末法の御本仏、下種本因妙の教主、宗祖日蓮大聖人は、今を遡ること七百七十八年前の貞応元(一二二二)年二月十六日、小さな漁村千葉県小湊に、しがない漁師の子供として御誕生あそばされました。
この時、竜神王は青蓮華を捧げて、その御出生を心よりお祝い申し上げました。
その青蓮華は清らかな花を開かせ、不思議な瑞相として、花の先より産湯に使う清水を溢れさせ、この浄水は生きとし生けるもの悉くを潤して、御本仏の大慈大悲の化育を表し、四方の天地は金色に照り映え、一切の草木また花を咲かせ菓を結んで、その御誕生をお祝いしたと伝えられます。
正像脱益の釈尊はその誕生に「天上天下唯我独尊」と唱えて、個人の自由、平等、尊厳を高らかに謳歌あそばされましたが、今、末法の日蓮大聖人は、一般の人が「オギャー」と産声を上げるところを、「クガー」と泣いてお生まれあそばされました。これは御本仏の、何としても一切衆生の苦しみを除こうという慈念より発する悲泣に外ならず、後に、
「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし」(御義口伝 御書一七七一n)
の御境界、一人ひとりの上に降り掛かるさまざまな苦しみ、生活の悩みから、愛別の悲しみまで、各人各様に受ける諸々の心の葛藤、情念の懊悩は、すべて日蓮大聖人の見るに忍びない苦しみであり、
「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり」(諌暁八幡抄 同一五四一n)
と、一切衆生が無知の故に犯す謗法罪によって、同一に無間地獄に堕ちる苦しみは、これまた耐えることのできない苦しみ、
「鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし。此のなみだ世間の事には非ず、但偏に法華経の故なり」(諸法実相抄 同六六七n)
抜苦与楽の御本仏が、苦我(クガー)と泣かれる所以であります。
こうして御誕生あそばされた日蓮大聖人は、出家遊学・立教開宗と忍難弘教の御生涯をもって、末法本因下種の御本仏たることを証せられ、弘安二(一二七九)年十月十二日、一切衆生総与の本門戒壇の大御本尊を御図顕、出世の御本懐を遂げられました。
そして最後に日興上人に仏法の一切を付嘱して、三大秘法の令法久住と広宣流布の大導師を御遺命あそばされました。
私たち日蓮日興の清流に身を置く眷属は、共に宗開御両祖の妙教と血脈に信順し奉って、この二月は弥々の御報恩行を尽くさなくてはならない月と心得べきであります。
かって一門に籍を置いて共に広布を誓った創価学会も、魔にたぶらかされて謗法の群に投じ、あわれな悪業を演じさせられております。曰く「血脈は日蓮正宗に無くて、創価学会に流れている」とか、文なく義なきはもとより通用する筈もありませんが、浅識に『生死一大事血脈抄』等を釈して、総別の二義に迷い、牽強付会して身勝手な血脈論を振り回す等、恥を世間に晒しております。
日蓮正宗の命脈は、実に本門戒壇の大御本尊と、血脈相承、法統相続の信行に尽きるのであります。
言うまでもなく、血脈とは法体の別付嘱と信伏随順の総付嘱であります。
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(日蓮一期弘法付嘱書 同一六七五n)
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す」(身延山付嘱書 同一六七五n)
共に日興上人御一人を指名されての日蓮大聖人直々の別付嘱であり、何人もこれに立ち入り、口を挿むことはできない筋合い、
であります。
これに対して総じての血脈は、不渡余行、直達正観、妙法受持の信心であり、日蓮日興の弟子檀那としての結縁、和合僧団の絆であります。
「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(生死一大事血脈抄 同五一四n)
の如く、私たちが本門戒壇の大御本尊を受持して、御当代日顕上人猊下のもとに一致団結し、広宣流布に向かって折伏を行ずる信心が、総じての血脈なのであります。
そしてこの信心を私たちが分々に応じて、子孫に伝えていくことが、法統相続であります。
法統相続とは、単に御本尊様に朝晩お水を上げ、お華を取り替え、お墓を守っていけばそれで事足れりというものではありません。
「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(日興遺誡置文 同一八八四n)
とは、日蓮正宗の教えそのものであり、化儀化法の何れも日蓮大聖人の教えに少しも違っていないその信仰を、私たちは修行するのであります。
最勝最尊の本門戒壇の大御本尊に巡り値う幸せは、曇華浮木の穴に勝る大果報、
「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄 同二九八n)
私たちは世界第一に恵まれた幸せ者であります。
その上、
「わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ」(種々御振舞御書 同一〇五七n)
と励まされ、期待されるに及んでは勇まずにはおられません。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(教行証御書 同一一〇九n)
と、如何なる難が来ようとも一切の試練を希望に代えて、正直に皆成仏道広宣流布の大誓願に生き抜かれた日蓮大聖人の跡をお慕い申し上げて、その折伏弘教の陣列に名を連ねる時、
「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」(四菩薩造立抄 同一三六九n)
の世界に身を安んずることができる人となるのであります。このように広宣流布に対する不惜身命の情熱と、令法久住の尊い使命が身口意の三業に脈々と流れて歓喜に躍動する純真な信心の息吹、堂々と三障四魔を打ち破って大前進する志を確実に次代に伝えてこそ、真の法統相続が叶ったと言えるのであります。
今世間は経済に治安に万般にわたって真っ暗闇の時代、一つの暁光さえ見い出せません。
そこに癒しや、伝道といった因果無視の低級な外道が我が者顔に横行し、あきらめとか極楽とかいう因果異時の不了義経が人の心をたぶらかすのであります。
「小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば我則ち慳貪に堕せん。此の事は為めて不可なり」(守護国家論 同一五七n)
日蓮大聖人の仏法は一行一切行、消極的な内観自省の中に、治癒が齎される教えではなしに、唱題、折伏行に徹する積極的、行動的な信行の中に自然に一切が解決する妙法なのであります。すなわち、
「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御義口伝 同一七六三n)
という因果倶時の信心であります。
「たゞ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず(乃至)苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(四条金吾殿御返事 同九九一n)
と、御法主日顕上人猊下は「新年の辞」に、
「信徒皆様一人ひとりが地涌の菩薩たる大自覚を以て、我れ一人立ち上がり、本年に於いて必ず一人以上の折伏の縁を作り行ぜんとの誓願を、大御本尊に祈念し奉られることこそ肝要であります」(大白法 五四〇号)
と御教示あそばされました。さあ、意義ある二月を御法主上人猊下御指南のまま精一杯精進いたしましょう。