大白法・平成12年9月16日刊 (第557号より転載) 信行を磨く (48)
「依法」こそ信心
菅原信了御尊師
日蓮大聖人様が、名字凡夫の御立場から、久遠元初自受用身と発迹顕本あそばされた「竜の口法難」を記念し、九月十二日、御難会法要が奉修され御報恩申し上げ、折伏誓願目標貫徹のため、決意を新たにしたのであります。
御法主日顕上人猊下は、宗旨建立七百五十年を迎え奉る意義を、
「平成十四年の佳節に向かって前進する我らは、ただ単に三十万という数をもって達成とするのではなく、真に社会の清浄を図る上に創価学会等のあらゆる謗法をあくまで打ち破り、折伏を行じて、真の正法の護持興隆に向かって進み、その結果として三十万登山という立派な功徳をもって、御本仏大聖人様の大慈大悲にお応えし奉ることが肝要と存ずるものであります」(大日蓮 六四四号)
と御指南くださいました。
現在、日蓮門下と自称する創価学会や日蓮宗各派において、折伏をもって宗旨建立七百五十年を慶祝御報恩申し上げる宗派・団体は、どこに存在しているでしょう。まさに「謗法を打ち破り、折伏を行じ」との御指南は、『百六箇抄』の
「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理とは是なり」(御書 一七〇〇n)
と仰せの御文意に随順する依法の御指南と拝し奉ることができるのであります。
「依法」とは
涅槃経『四依品』に、
と説かれています。この「依法不依人」の文は、日蓮大聖人様の御法門の基幹となる文証でもあります。すなわち、一切の仏法の勝劣浅探を分別し、本門の題目を唱え、もって宗旨を建立あそばされ、本門戒壇の大御本尊を御図顕し奉られたのであります。この日蓮大聖人様の御法門を拝し奉りますに、涅槃経の中に、
「是の人は、善く如来の微密深奥の蔵を解するが故に。能く如来の常住不変を知ればなり」
と、依法の人について説かれているのでありまして、日蓮大聖人様が、末法の御本仏として常住不変の大仏法を御建立あそばされる予証と識ることができるのであります。竜樹は「依法」を「依修多羅」と解釈し、経典に依ると釈されています。
次に、「不依人」については
「若人破戒しつつ、利養の為の故に、説きて『如来は無常変易なり』と言わん。是の如きの人は依るべからざる所」
と説かれています。すなわち、成仏の直道と説かれた戒法に背き、名聞名利のためにだけ仏法の語句を使い、常住不変の法性真如の妙理を、移り変わり変化するものであると言う者は、衆生の成仏を妨げる人であるから、いかに勝れた人であっても、またいかに理解しやすい主張であっても、このような人に依ってはならない、と説かれているのであります。
「不依人」とは
仏法は道理でありますから、信仰の心も常にこの道理に随っているか、違背しないかを心にかけて行ずることが肝要であることはもちろんであります。
例えば、浄土真宗本願寺派の僧が著した本に、
「仏教経典の中で各宗派の宗義に対する関係が広い経典は、法華経が第一である。仏教の原理は悉く法華経から割り出されて居る(取意)」(台学指針)
との一説がありました。これは明らかに法華経が最も勝れた経典であることを認めているのであります。しかし、法華経の『化城喩品』に説かれている、
「西方に二仏、一を阿弥陀と名づけ(中略)第十六は、我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て」(法華経 二七五n)
の文と、『薬王菩薩本事品』の
「若し如来の滅後、後五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の圍遶せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」(同 五三七n)
と、明らかに娑婆国土は釈尊が主であり、末法においては法華経に説かれているごとく修行すべきであることが明らかに説き示されているのであります。この法華経の両文を彼らは、
と述べ、法然の『撰択集』思想に依り、法華経の文を斥けるという、まさに人に依って仏法に背く教義を立てているのであります。
まず仏教徒であるならば、法然がどのような説を立てようが、釈尊が『方便品』に、
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四n)
と説き示された経文に随うべきなのでありまして、仏説に随わないということは、顛倒の法門であり外道の教義であることは言うまでもありません。
本尊であれ教義であれ、信心修行は仏の教説に依ることが仏法の道理であります。これと全く同じ過ちを犯しているのが創価学会や日蓮宗各派であります。
「依法」の信心
自分の都合や利養のための説に大聖人の法門を合わせようとすることは、正しい信仰の心ではありません。いかに自分に都合のよいことであっても、大聖人の法門に背くことであると教えられたならば、正直に曲がった考えを直すように努力することが信仰であります。また、どうしても自分の考えに執着し迷うのであれば、唱題し素直に誤りに気づくよう、御本尊様に御祈念すべきなのであります。
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書 七九四n)
と『曾谷入道殿御返事』に仰せられ、水を見ても、その境遇によって水に対する見解が異なり、経典の文字を見ても、その観念はそれぞれの境界によって異なるのです。
したがって、自分の考え方が、貪・瞋・癡・慢・疑の煩悩に紛動されるのではなく、その煩悩を菩提に転ずるよう直すことを心がけることが、自分の境界を高める因となり、功徳を積むことなのであります。
「依法」とは道理に順う「信心」
我々凡夫は、個人、一人だけであるならば、どうしても自己中心の偏った考えにとらわれ、他人の意見を聞かない偏執な人になりかねません。そのような境遇にならないためにも、報恩の一念を忘れてはならないのです。この報恩の一念こそ「依法」に通ずるのであり、「心の師」となる意味なのであります。『日女御前御返事』に、
「何に況んや父母にまされる賢王に背かんをや。何に況んや父母・国王に百千万億倍まされる世間の師をや。何に況んや出世間の師をや。何に況んや法華経の御師をや」(同 一二三二n)
と仰せの御教誡は、まさに信仰の心の在り方を厳誡あそばされていると拝せます。
池上宗仲が父に勘当されても、それに動揺することなく、ついに父・康光を入信させ、四条金吾が讒言により苦境に陥れられても、所領を捨てる覚悟で主君の江間氏を諌めた心は、共に「心の師」となり、大聖人の御法を大事とした心こそ「依法」なのであります。また「世間の師」とは、世俗の事象を教導する人であり、世間法の一部分に通達している立場の人なのであります。したがって、仏法の道理の上に立って世間法を指導教化する人とは、おのずと相異があることは言うまでもありません。また、仏法上の教化にしても、法華経即御本仏日蓮大聖人の法門の上に立っての教化でないのであれば、釈尊の法華経にも違背することになるのでありますから、道理に順った正しい信仰ができるはずがありません。
御法主日顕上人猊下が、宗旨建立七百五十年を慶祝し奉る心得を「創価学会等のあらゆる謗法をあくまで打ち破り、折伏を行じて」と御指南あそばされたことは、まさしく『立正安国論』の
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同 二四一n)
の御本仏大聖人の御聖意に依っての御指南であり、「法華経の御師」に信伏し随従されている御言葉と拝し奉るのであります。
我々は無二無三の精神に立って、過去世に願って、平成の今、護持興隆のために生まれたことを自覚し、「名実共に成就」するためにも、御指南に順ってこそ「依法」の実践であることを心に刻み、前進しようではありませんか。