大白法・平成17年10月16日刊 (第679号より転載) 信行を磨く (101)
御会式に随力弘通の赤誠を
高野日海御尊能化
十月十三日は末法の御本仏日蓮大聖人が御入滅あそばされた御命日、宗門二大法要の要、御会式であります。
宗門はこの御会式に、鏡餅、御造酒、御赤飯をお供えし、桜の花を飾って盛大に御報恩謝徳申し上げます。
仏は三世常住の御身、常にここに在って、御入滅されることはありませんが、御化導の方便として非滅現滅の姿を示し、仏には値い難いと教えて、恋慕渇仰の心を起こさせ、「一心欲見仏、不自惜身命」の精進を促されます。
また、この日蓮正宗の御会式法要は、門下に独歩する儀式で、他門の追随を許しません。
すなわち一つには、宗祖日蓮大聖人を本因無作の御本仏と拝し、三三九度の御盃をもって滅不滅の円寂を寿ぎ奉るのであります。
二つには、『立正安国論』並びに宗開両祖御先師の申状を奉読して、今に『立正安国論』の御教示を夢寐にも忘れず、御法主上人猊下のもと異体同心して、広布折伏の実践を如法不断に行じておりますと、日蓮大聖人に御報告申し上げ、その誓いを新たにするのであります。
未萌を知るは仏聖人
釈尊の予言は、普賢経と法華経の『薬王品』に、
「却って後、三月あって、我当に般涅槃すべし」(法華経 六〇九n)
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(同 五三九n)
とあり、その通り三月後の二月十五日、沙羅双樹の下に安祥と涅槃あそばされ、妙法は末法の日本に日蓮大聖人が御出現して、着々と広宣流布しております。
また、日蓮大聖人は、弘安四(一二八一)年五月二十六日の『八幡宮造営事』に、
「今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上齢既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき」(御書 一五五六n)
と、この御予言通り、翌弘安五(一二八二)年、六十一歳の御身を池上の地に匿され、一期の弘法をことごとく日興上人に付嘱して、御当代日顕上人猊下のもと、三大秘法は滔々と閻浮提に広宣流布しております。
日本こそ法華有縁の国土
法華経を翻訳して中国に伝えた羅什三蔵に師匠の須利耶蘇摩は、法華経を授けて、
「この教典は東北に縁が深いのだから、汝は慎んでこれを伝えなさい(趣意)」
と命ぜられました。
インド国からの東北とは、紛れもなく日本国であります。
「国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り。又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り。而るに日本国は一向に小乗の国か、一向に大乗の国か、大小兼学の国か、能く能く之を勘ふべし」(御書 二七一n)
世界には赤道直下の灼熱の国もあれば、千古の雪に閉ざされる極寒の地もございます。
その中に、日本は四季が穏やかに巡る中庸の国土、四季の移ろいに目を凝らして随縁真如の理を探り、それが万古不易に繰り返されるところに、目を閉じて不変真如の妙法を覚るという、万物の違いと共通点を勘案できる一向大乗の国であります。
比叡山の学僧・慧心僧都は『一乗要決』に、
「日本一州円機純熟にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賎悉く成仏を期す」(同 九四n)
と「日本国民は上天皇陛下より下万民に至るまで、皆妙法蓮華経の信心によって成仏を遂げるとあります。
この妙法は、一文不通の凡夫を即座に成仏させる力を具えた教であります。ですから「御題目を唱えて幸せになりましょう」「御題目を唱えて世界の平和を実現させましょう」以外の何ものも要りません。この信念、信力、信心こそすべてであります。しかし、国にも向き不向きがあります。
篤く先祖を敬い、八百万の神を崇める日本には、汎神論的仏教は信じ易く、最在其上の事の一念三千、草木成仏、三諦円融等の深法も、日蓮大聖人によって説き明かされる時、その説法を信解する能力が日本人には具わっているというのであります。
御書に一向不孝国もありとか、何が孝で何が不孝かは宗論のあるところ、キリスト教では、愛は珠玉の徳目、男女の結び付きは当事者相互の合意のみで、親も立ち入ることはできません。
「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし」(同 一五〇四n)
という嘆きが淋しさとして通るならば、西欧は一向不孝国の中に入るのかも知れません。
また、一向偸盗国とか、殺生国とか、住みにくい国も多いものです。
なかにも素破、乱破を忍ばせて、やれ勤行に目を瞑ったとか、車椅子に乗って動けないとか。目が翳めば眼鏡を掛け、足が萎えれば車椅子に乗る、これらは皆、生老病死当たり前のことだが、人を貶めて快哉を叫ぶ下劣な創価学会は、殊更に老いた病んだと喚き散らします。この類こそ、
「貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し」(同 四六n)
の哀れな還著於本人の人、君子は交わりを絶った相手にも悪口は言わないというが、情けない限りの手合いです。
夏目漱石も『草枕』に、この手合いをつくづく忌み嫌って、
「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。(中略)五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は庇をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う」
末法の弘教は所詮、三類を忍んでのこと、一つの悪口罵詈を一つの罪障消滅と歓喜して、「創価学会こそ現在の一凶」との御法主上人猊下の御指南のまま、平成二十一年をめざして「一人が一人の折伏」を雄々しく行じてまいりましょう。