大白法・平成16年10月16日刊 (第655号より転載) 信行を磨く (92)
折伏の功徳
下堀義行御尊師
末法の修行は折伏であり、末法は折伏の時であると言われる。しかし、まだまだ折伏の機運は十分とは言えず、自行中心の行から抜け出ていないように思われる。
そこで今回は、折伏の功徳について考えてみたい。
折伏によって罪障消滅し業病を治す
近年医学は急速に進歩した。しかし、それで病気が減ったかと言えばそうではない。むしろ死に至る病や難病などの業病は増えたようにさえ思われる。
大聖人は『太田入道殿御返事』に、次のように仰せである。
「第六の業病最も治し難し。(中略)大涅槃経に法華経を指して云はく『若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し正法に還帰すること有れば、乃至此の正法を除いて更に救護すること無し。是の故に応当に正法に還帰すべし』云云」(御書 九一二n)
病気になるにもいろいろな原因があろうが、仏教では難病の原因は法華誹謗であると説かれている。
また法華経の『普賢菩薩勧発品』には、以下のように説かれている。すなわち、
「若し人有って、之を軽毀して言わん。
汝は狂人ならく耳。空しく是の行を作して、終に獲る所無けん。
是の如き罪報は、当に世世に眼無かるべし。若し之を供養し、讃歎すること有らん者は、当に今世に於て、現の果報を得べし。若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に、白癩の病を得ん」(法華経 六〇六n)
と。
この「白癩の病」とは、今日ではハンセン病に当たるが、この病は近代まで不治の病とされていた。しかもハンセン病を患うと患部が腐って変形したりするので、過去においては、一度発病すると隔離されるなどの手ひどい差別を受けたこともあった。けれども今日においては「プロミン」などの新薬の開発によって、ハンセン病は比較的軽い病気として扱われるようになったのである。
このように、ハンセン病は医薬の進歩によって治すことができるようになり、これによってかってのように業病と言われることもなくなったようである。
けれども、だからと言って今日、この世から業病がなくなったわけではない。否、むしろ死に至る病は、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザなど次々と現れているのである。もちろん、ガンや膠原病、リウマチなども、しぶとく業病としての地位を保って患者を苦しめていると言えよう。
業病は、医学的に原因を特定できないものもあるが、なかには食生活、ストレス、遺伝など、何とか原因らしいものも判ってきている。仏教では、日常生活のさらに奥に、その原因を求めている。先に引いた『太田入道殿御返事』にあるように、業病の原因は、正法である法華経、あるいは法華経の行者に対する誹謗である。そして、その根本からの治癒も法華経によってしかできないと述べられている。
大聖人は『佐渡御書』に、以下のように仰せである。
「此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり」(御書 五八二n)
これは大聖人御自身のことであり、また、難を招き寄せることであるが、私たちが折伏をする功徳も同じであって、一度に罪障を消滅し、業病を治す力が得られるのである。
一人が一人の折伏をし仏国土を建設する
広宣流布は一人でできることではないが、折伏は志さえあれば一人でもできる。否、むしろ御法主上人猊下が「一年に一人が一人の折伏を」と仰せられたのは、法華講員は一人も残らず折伏の志を持つようにとの御心と拝する。
折伏というのは、相手の人を救いきってあげるということである。けれども四六時中側にいる自分の子供でさえ、救いきるというのは難しいことである。それを赤の他人を救うというのだから、生半可なことではできない。
また、折伏をするというのは、他人を活かしきるということでもある。自分一人を活かしきるのでさえたいへんなのに、いわば二人分を活かすというのだから、折伏の功徳が大きいのは当然なのである。
ただ、その前に相手の意識の変革が必要である。そのことを御法主上人猊下は、次のように御指南あそばされている。
「どれだけ真心をもって折伏をしても、こと大聖人の御本尊様の正義・正道を説く場合には、それ以外の思想・宗教をそれは謗法ですよ≠ニ言って打ち破らなければいけないのですから、絶対に他から悪く言われるということであります。どんなに慈悲の心を持ち、柔らかい心を持ち、態度を立派にして素直な気持ちをもっていたとしても、言うことが相手の心にさわるのですから仕方がありません。それでなければまた、この正法正義ははっきりと顕わしていけないのであります」(大日蓮 四二七号)
このように、折伏は困難を伴うたいへんな修行であるが、その行によって私たちは即身成仏の大果報を得るのである。そして、成仏の境界に近づくことによって、私たちはゆるぎない幸福を築くことができるのである。そのとき私たちが求めるものはただ一つ、仏国土の建設である。
『富木入道殿御返事』に、
「命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり」(御書 四八八n)
と仰せである。私たちは、折伏に折伏を重ね、子孫に人類に仏国土を残すために、共に手を取り合って精進してまいろうではないか。