大白法・平成6年3月16日刊(第405号)より転載

増上慢により正法から離反
忘恩(ぼうおん)堕獄(だごく)の謗法教団への旗揚(はたあ)

宗門の指摘がすべて的中
 平成五年十二月十六日、創価学会の西口浩副会長らは、立正佼成会の幹部らと、東京都内のホテルで密談(みつだん)し、今後他の邪教団体とも共存共栄を(はか)る姿勢を明らかにしたという。
 今回の学会問題勃発(ぼっぱつ)の直接の契機となった、平成二年十一月十六日の池田大作による仏法破壊のスピーチに対し、宗門より学会に対して出された平成二年十二月十三日付『お尋ね』文書には次のような質問が記されている。  これに対して、会長の秋谷栄之助より、宗務院へ出された平成三年一月一日付返書では、 などと、平然と(うそ)をついてまで宗門よりの指摘(してき)を否定し、指導を拒絶(きょぜつ)したうえに、さらには撤回までをも要求してきたのである。
 しかし、今回の立正佼成会との対話に見られるように、当時の宗門による憂慮(ゆうりょ)の指摘が、今、すべて現実のものとなったのである。
 
邪教と手を組む池田大作
 日蓮正宗よりの強烈(きょうれつ)な破折活動に対抗するためなら手段を選ばず、邪教団体とさえも手を組む池田大作。それは結局、彼の野望(日本国を思うがままに操る一大権力者となること)実現のために、日蓮正宗の信徒を自分勝手に利用するだけでなく、大聖人を()しく敬う邪教さえも利用し、ありとあらゆる謀略(ぼうりゃく)(くわだ)てていくことを意味する。
 この立正佼成会との対話について、会長の秋谷は、二月二十八日付聖教新聞で、 と、どこかの新興宗教の教祖が言っているような、わけのわからない言い訳を述べている。『脱講運動』などと称して離脱僧を引きずり回し、寺院や法華講員宅に、非常識な嫌がらせを平然と行う反社会的組織の会長が、よくも平然と『平和』という言葉を口に出せるものだと(あき)れて物も言えないが、しかし、折伏の上で教義問題について論じ合うならいざ知らず、それを差し置いて、釈尊像や大日如来を節操なく拝む、日本最大級の邪教新興宗教団体と、なにゆえに平和について行動を共にする必要があるというのか。そこに「教義上の妥協」がないと口先では言うが、教義上の正邪の分別を差し置いて、一体、何を話し合い、どのようにして平和を実現しようというのか。
 
ついに宗門離脱作戦が実行された
 今回の、学会による一連の仏法破壊問題について、学会ではこれまで会員の不審(ふしん)の目を(くら)ますために、「すべては猊下が仕組んだC作戦による破和合僧の陰謀(いんぼう)によるもの」との大誹謗(ひぼう)報道をくり返して来た。しかし、現在の学会による、仏法の道理から外れた(くる)った行動や、一連の事件の経緯(けいい)を、冷静沈着(ちんちゃく)に見ていくならば、すべては、大聖人の教義に厳格である正統日蓮正宗を排除し、軟弱(なんじゃく)な安売り宗教へ移行するための、宗門離脱計画(俗にいうR作戦)が、池田大作によって実行されたもの以外の何ものでもないことが判明するのである。
 それは、現在の創価学会に見られる頭打ち状態をなんとか打開するために、世間の人々がより安易(あんい)に受け入れやすくするため、“折伏精神”を捨て去るということ、すなわち、「宗教は皆一緒」「他の宗教とも仲良くやっていこう」として、謗法の人々に拒絶(きょぜつ)反応を与える謗法厳誡(げんかい)の教えを捨て去り、これからは、だれでも簡単に受け入れやすい文化運動を基調とした池田教として、池田の思うがままに、その勢力拡大を(はか)っていこうというのである。
 ここでは、池田が実際に、宗門乗っ取り(池田教を世界へ流布するため、総本山の格式・伝統を利用しつつ、自分の権力下に置くこと)、もしくは分離独立(宗門の教義を利用しつつ独自の浅知恵をもって新しい宗教を作り出すこと)の準備を進め始めた、昭和五十二年謗法路線から、今日に至る宗門よりの離脱完了まで、その悪意による野望(やぼう)実行の推移(すいい)を振り返ってみよう。
 
常に学会首脳陣の心底に
    (ひそ)んでいた独立への野望
・・・第一次教義逸脱問題
 
日達上人攻撃が計画された内部文書の全容
 ここに一通の報告書がある。昭和四十九年四月十二日付で、池田大作に宛てられた『山崎・八尋報告書』と言われるその報告書には、次のように記されている。  この報告書作成者は、当時池田大作の側近中の側近であり、後に学会から追い出された山崎正友元創価学会顧問弁護士と、現在でも創価学会本部内に巣くう八尋頼雄副会長である。
 一方、学会内では、当時池田に次ぐナンバー2の北条理事長が、池田大作に宛てて作成した、二通の『北条報告書』と言われるものがある。
 文中に出てくる中西とは、先に一億七千万円入りの金庫を破棄したとして世間を騒がせた、池田大作の金庫番と(もく)される人物で、当時の池田の側近である。秋谷とは、現在の会長秋谷栄之助、山友とは当時池田に一番信頼されていた山崎正友である。
 一体何という恐ろしい内容であろうか。この両報告書の中には、「いずれ関係を清算」「仕掛け」「背後を固める」「戦略」「支配」「断乎たたかいぬく」「戦術的」「之が猊下かと疑う」「(日達上人が)広布の上に重大障害になる」などという攻撃(こうげき)的・破壊(はかい)的な言葉が飛びかい、そこには宗門外護・僧俗一致などという精神はどこにも見られない。当時の学会首脳陣は、宗門との折衝(せっしょう)に関しては、相当、挑発(ちょうはつ)的な態度であったことが(うかが)い知れるものである。
 正本堂完成後二年も経たない昭和四十九年当時、世紀の大殿堂建立の歓喜がいまだ冷めやまぬ宗門僧侶や一般会員が全く知らないところで、このような日達上人に対する挑戦(ちょうせん)状とも言うべき『宗門乗っ取りもしくは分離独立作戦』が検討されていたのである。宗門と学会との関係を、外道キリスト教の「カソリックとプロテスタントのような違い」等と当てはめ、学会こそが常に時代に開かれた正しい教えであるという、思い上がりもいいところ、完全な妄想(もうそう)にとりつかれていたのである。
 そして、「かねて先生の仰言っておられた通り」とあるように、北条理事長ら学会の最高首脳陣を、そのような恐ろしく狂った妄想に誘導(ゆうどう)した張本人は、稀代(きだい)魔鬼(まき)・池田大作であった。
 「やる時がきら、徹底的に斗いたいと思います」との北条の言は、そのまま池田の憎悪(ぞうお)を語ったものであり、今日の、御当代日顕上人猊下をはじめとする宗門僧侶に対する、常軌(じょうき)(いっ)した悪口・誹謗(ひぼう)は、まさにこの時できなかった、宗門総攻撃なのである。
 
池田大作、日達上人に「十億出せ」と
 さて、当時池田が、いかに宗門や日達上人を馬鹿にし、また反感を抱いていたか、という証拠に、この報告書にさかのぼる一年程前の、正本堂一周年に湧く総本山大石寺での事件が挙げられる。
 昭和四十八年十月十四日、正本堂から退出する途中、池田大作は、日達上人に向かって、「これだけご奉公したのですから、お祝として学会に十億、本山から寄付してください」「とにかく二人でお話あったことが、こわされるようでは、信用できません。これからは皆の前で正々堂々とやります」「もう従属(じゅうぞく)はしません」等とどなり散らしたのである。その時周囲にいた人々の証言によると、池田の形相(ぎょうそう)はすさまじい限りであったという。
 記念御開扉直後の発言ということは、御開扉の最中、「宗門から十億出させよう」「馬鹿にされてたまるか」等という、日達上人に対する憎悪(ぞうお)火炎(かえん)にその身を焼いていたのであろう。あるいは、大御本尊の前に座ることによって、それまで表面上では取り(つくろ)って来た思惑(おもわく)とは裏腹(うらはら)に、心の奥底で(ひそ)んできた悪意が、一気に噴き出してしまったのかもしれない。
 世紀の大殿堂『正本堂』建立に際して、日達上人に対し奉り、全国の僧侶と信徒が真心の御供養を行うに当たり、目標を大きく上回る御供養が奉呈された。池田にとって、これだけの大金が我が命令で出せた、つまり「これだけの金が動かせるのであれば、思うがままに世の中を操れる」という(ゆが)んだ自信が、彼をこれだけ狂わせた原因と言えるのではないだろうか。そこには既に、日蓮正宗の教義を弘めよう、宗門を外護しようという信心はかけらすらもなく、ただ「宗門をうまく利用するだけ利用し、あとは分離して思うがままにしていこう」という野望のみが存したのである。
 ともかく、一信徒が時の御法主上人に、「十億よこせ」「信用できない」などという、この上ない無礼(ぶれい)不遜(ふそん)な発言を平然と行うということ自体、池田という男、自らの強い権力への執着と、宗門や日達上人に対して相当の嫉妬(しっと)(うら)みの修羅(しゅら)の心を、既に当時から持っていたということである。
 当然のように日達上人は、後日の北条理事長との御目通りの席で、立腹遊ばされていたことが、先の『北条報告書』の中に記されている。

【昭和四十九年五月十日付 日達上人の北条に対しての御発言を記載しているところ】 と、その傲慢(ごうまん)無礼な池田の言動を、厳しく注意せられたのである。
 しかし、池田ら最高幹部は、血脈付法の御法主上人よりの厳しい御注意を無視し、着々と日蓮正宗(つぶ)しの計画を進めた。
 そして、その憍慢(きょうまん)による狂った謀略(ぼうりゃく)はやがて、より具体的な形となって、陰に陽に、宗門攻撃と教義逸脱、更には本尊模刻事件に象徴(しょうちょう)されるような大謗法を次々と犯す結果となり、宗門内外から厳しい非難を受けることとなるのである。

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