第一章 日蓮正宗の本尊

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1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

 日蓮正宗の正しい本尊は、『日蓮正宗宗規』第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を()(みょう)依止(えし)の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に と仰せのように、御本仏の出世の本懐(ほんがい)として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条々事』に と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能(けんのう)のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。


 2 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。
 『観心本尊抄』に と仰せです。
 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。
 日寛上人は、『文底秘沈抄』に と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳()お多し、若し正境に非ざれば(たと)偽妄(ぎもう)無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。
 『報恩抄』に と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。


 3 「人法一箇」とはどういうことですか。

 「人法一箇」とは、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊は、人・法の名称は異っても、その体は同じであるということです。
 「人」とは、人の本尊たる御本仏日蓮大聖人のことであり、「法」とは、法の本尊たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』において、三大秘法の「本門の本尊」を、人・法の二つに開かれ、人本尊は であり、法本尊は であると指南されています。
 この人・法の本尊は、 と指南されているように、人法一体の御本尊なのです。
 『御義口伝』にも と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。
 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。


 4 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

 本門の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊≠ニいう意味です。
 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐(ほんがい)たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書(わきが)きがしたためられています。
 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、 と指南されています。
 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、 と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。


 5 「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

 「一閻(いちえん)()(だい)総与の御本尊」とは「一閻浮提(全世界)のすべての人々が信受すべき御本尊」との意味で、本門戒壇の大御本尊のことを指します。
 『観心本尊抄』に と仰せのように、御本仏宗祖日蓮大聖人は、末法万年にわたり、全世界の人々を救済するために、自らが御所持の寿量文底の南無妙法蓮華経を顕わされました。
 そして、南無妙法蓮華経の法体として、「本門戒壇の大御本尊」を図顕されました。
 全世界の人々が真実の平和と幸福を確立するためには本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであり、その戒壇に参詣すべきことを『三大秘法抄』に と仰せられています。
 このように、全世界の民衆を救済するために顕わされた大御本尊であり、全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊という意味から「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げます。


 6 戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

 「本門戒壇の大御本尊」は、根本となる究極の御本尊であり、「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと、大聖人の御内証(ないしょう)法体(ほったい)を唯授一人血脈相伝される御歴代上人が、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して下付される御本尊です。
 総本山第五十六世日応上人が『弁惑観心抄』に と指南されているように、代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意(ごくい)が書写されるのです。したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊を信ずる一念をもって拝むならば、書写された御本尊もその功徳に変わりはありません。
 しかし信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになるのです。


 7 学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味を教えてください。

 「久遠元初」とは、単なる時間的な「宇宙の最初」という意味ではなく、実には一切の現象の究極・根本という意味で、時間・空間を超絶した絶対的な状態をいいます。
 また、「自受用報身如来」について説明しますと、まず仏教において仏という場合、法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来、その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、大慈悲によって一切衆生を救済する応身(おうじん)如来の三つの側面があります。
 この三身如来の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身、応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」といいます。
 すなわち「久遠元初の自受用報身如来」とは、「絶対的な究極の仏」ということです。『御義口伝』には「自受用報身」を「ほしいままにうけもちいるみ」(新編 1772頁)と解説されています。
 この久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人であり、そのお悟りの当体そのままを、本門戒壇の大御本尊として建立されたのです。
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